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【普遍経済学】学習会感想と私たちの課題

竹田青嗣先生「普遍経済学」学習会を終えて:未来への方向性と私たちの課題

🍎1. 学習会のふりかえりと「暴力の縮減」という動機


竹田青嗣先生の「普遍経済学」の学習会は、知的な興奮に満ちた時間であったと感じています。私は哲学や経済学の素人ではありますが、それでもこの「普遍経済学」の中に、これまで感じたことのない確かな未来への方向性を一瞬予感したように思いました。

私なりの理解では、普遍経済学が構想された根本的な動機は、やはり「暴力の縮減」にあるのではないかと感じています。今日の世界で進行する戦争や環境問題という、まさに「待ったなし」の状況に対し、哲学はいかに貢献できるのか。言い換えれば、今回も強調されていた「自由の相互承認」という原理を、個人や集団のレベルを超えて国家間、すなわち国際的な領域へと展開していくことにこそ、原理的な方向性を見出せるのではないか、と受け止めています。


🍎2. 資本主義の矛盾と「共倒れ」を避ける希望

資本主義の発展の歴史を振り返ると、当初は「自由に経済活動を行い富が増えれば、全体が豊かになる」という期待があったはずです。しかし実際には、富の一極集中と格差の拡大が顕著になり、ホッブズが指摘したような「相互不安」が増大し、国内外で争いの火種を生んでいる構造が見えてきます。

しかし、竹田先生の文献などを読み進めるうちに、「富裕層であっても、戦争や環境問題が深刻化すれば自らの存立が危うくなる」という視点に気づきました。平和を維持したいという点に関しては、所得の多寡にかかわらず一致できるのではないか――そんな希望が少し湧いてきました。もちろん、これは「戦争でお金儲けをする勢力」の存在を考えれば甘い認識かもしれませんが、同じ地球に住む人間として「共倒れ」を防ぐために、共同で解決に取り組むことができるのではないか、またそうあってほしいという切実な思いがあります。


🍎3. 先進国の住民としての責任とライフスタイルの再点検

同時に、私たちが直視すべきは「富裕層」への批判だけではないようにも思います。私を含め、先進国に住む私たちの日常生活は、発展途上国の人々の犠牲や搾取の上に成り立つ「非対称な構造」にあるのではないか、という点です。


「普遍経済学」を実質的なものにするためには、私たち自身の生活の総点検が不可欠ではないでしょうか。例えば、日本で当たり前となっている24時間営業のコンビニのような利便性も、グローバルな視点で見直す必要があるのかもしれません。これは単なる「我慢」を強いることなのか、それとも斎藤幸平氏が提唱する「脱成長型」のような全く別の豊かさを目指すべきなのか。第三世界を犠牲にして成り立つ現在のライフスタイルを見直すことなしには、真に公平な経済システムは構築できないのではないか……皆さんはどのようにお考えになるでしょうか。


🍎4. 既存の思想(マルクス主義)との対比と「自由」


こうした矛盾の解決策としてマルクス主義や共産主義が浮かびますが、一般的には「平等はあっても自由がない」といった批判もなされてきました。しかし、自分なりに勉強してみると、マルクス主義の本質を「自由時間の拡大」や「個人の才能の自由な開花」に置く考え方もあるようです。この「自由」という側面については、普遍経済学を考える上でも、今後さらに深めていきたいテーマだと考えています。


🍎5. 「本質観取」が拓く対話の可能性

今後、世界規模で一般意志を編み上げていくプロセスにおいて、私たちが学んでいる「本質観取」は、極めて重要な思考の軸になるのではないかと感じています。それぞれの価値観を一時停止(エポケー)し、信念の根底にある「本質」を共に探り当てていくプロセスは、国境を超えた対話の土台になり得るのではないでしょうか。私たちが本質観取を学ぶことは、単なる学習を超えて、究極的には世界平和につながる道なのではないか、という思いを改めて強くしました。

🍎6. 立ち塞がる現実と「私の確信」

しかし現実には、テクノロジーを駆使してゲームのように戦争を行う組織が存在し、暴力の縮減には50年から100年以上の時間を要するという竹田先生の指摘は、非常に重く、悲しいほどに現実的なものとして響きました。また、全体で一つの方向を目指すことに対し、「全体主義的な恐怖」や「強制」を感じてしまう人たちもいるかもしれません。

だからこそ、周囲の空気に流されるのではなく、現象学的な「私の確信」を土台に据え続け、能動的に学び、対話を積み重ねていくことが必要なのだと思います。「諦めたらおしまいだ」という先生の力強いメッセージを胸に、微力ながら、この思考のバトンを繋いでいけたらいいなあと考えています。

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