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「急に具合が悪くなる」を読んで観る

5月下旬のある日。
テレビで「カンヌ映画祭 最優秀女優賞に、日本人初の岡本多緒さん」というニュースが流れていた。
最優秀女優賞として、映画「急に具合が悪くなる」で主演の岡本多緒さんとヴィルジニー・エフィラさんの二人が選ばれたという。

第79回カンヌ国際映画祭で最優秀女優賞をW受賞した岡本多緒とヴィルジニー・エフィラ Andreas Rentz Getty Images Entertainment:ゲッティイメージズ提供

授賞式のあとの記者会見で、岡本多緒さんは「2人の女性が強いつながりで、魂で何かを交換するというのを映画で演じるのがどうすれば可能なのかと思っていたが、ビルジニーに会った瞬間に不安が解けていく感じだった。現場でも彼女に支えられたし、こうしてペアで賞をいただき評価されたことがとてもうれしい」と喜びを語りました。

NHKニュースより

最優秀女優賞に選ばれたことにすごいなあと感心しつつ、「ペアで評価されたことがとても嬉しい」ってどういうことなんだろう、と素朴な疑問を抱いた私。
「急に具合が悪くなる」というタイトルも気になる。
私は早速、原作となった本をAmazonでポチった。

原作「急に具合が悪くなる」

「急に具合が悪くなる」には、哲学者である宮野真生子さんと人類学者の磯野真穂さんとの往復書簡がまとめられている。
がんと闘病していた宮野さんが、医師から言われた「急に具合が悪くなる(かもしれない)」という言葉がそのままタイトルになっている。

がんを告知された時に「(哲学者として)全部見極めてやる」と考えた宮野さん。
がんを抱えて生きる自身の「不確定性」や「リスク」の問題を、臨床現場に詳しい人類学者の磯野さんと専門的に深めてみたいという学問的野心から、磯野さんに往復書簡を提案したという。

気付くと最終的に生と死をめぐるドキュメントと、そのなかを共に生きる人々との出逢い物語になりました。
あるいは、病に面した一哲学者が「魂の人類学者」に寄り添われ、生まれてきた言葉の記録と言い換えてもいいかもしれません。

宮野真生子さん「急に具合が悪くなる」より引用

宮野さんが42歳という若さで亡くなるまでの3か月間の間に交わされた20通の書簡たち。
そこには、死と向き合う女性の心の揺らぎが冷静な文章で綴られている。

「急に具合が悪くなるかもしれません」と医師から遠回しに言われ、死から逃げきれないと悟った宮野さん。

リスクと可能性によって、私の人生はどんどん細分化されていきます。しかも病と薬をめぐるリスクはたくさんありますから、そのなかで、良くない可能性が人生の大半の可能性を占めるように感じ、何も起こらず「普通に生きていく」可能性はとても小さくなったような気がしてしまいます。

宮野真生子さん「急に具合が悪くなる」より引用

時には弱気になる宮野さんを励ます磯野さん。
言葉を重ねるにつれて深まっていく二人の魂の絆。
哲学的な思考を理解するのに時間を要することもあったが、二人のやり取りにぐいぐい引き込まれた。

関係性を作り上げるとは、握手をして立ち止まることでも、受け止めることでもなく、運動の中でラインを描き続けながら、共に世界を通り抜け、その動きの中で、互いにとって心地よい言葉や身振りを見つけ出し、それを踏み跡として、次の一歩を踏み出してゆく。そういう知覚の伴った運動なのではないでしょうか。
(中略)
未来に向けて他者と共に何かを生成しようとする動きをその人が手放さなければ、人間はこんなにも美しいラインを描き続けることができる。

磯野真穂さん「急に具合が悪くなる」より引用

そうやって引かれたラインにつながると感じられたとき、私たちは生きていく力を受け取ることができると感じる

宮野真生子さん「急に具合が悪くなる」より引用

人と人とが出会い、つながること。
一人でなく、誰かと一緒にラインを描き続けることが生きていく上で大きな力となるんだね。
この世を去る直前まで、磯野さんと共にラインを引き続けた宮野さん。
彼女の生き様や、宮野さんと磯野さんの深い絆に、静かに心打たれた。

私はこの本から、医師として色々気づかされもした。
現代の医療は「正しい情報に基づく、患者さんの意思を尊重した支援」が徹底されている。
一般的な「正しい情報」を伝え、患者に治療を選んでもらう。
患者側からしたら、「正しい情報」が自分にそのまま当てはまるわけではない。
様々な局面で選択を迫られ、宮野さんは「選ぶの大変、決めるの疲れる」と感じたという。
医療側が訴訟を恐れるあまり、患者に選択を託し、患者は「決定疲れ」しているという現実。
事あることに患者に選択させることが最善ではない場合もあることに気付かされた。
医師としてまた一つ視点が広がったことに感謝。


原作の余韻を残しつつ、6月下旬に今度は映画を見に行った。

「ドライブ・マイ・カー」を手掛けた濱口竜介さんが監督を務めるこの映画。
舞台はフランスのパリ。
哲学者で今は舞台の演出家である真理と、人類学者だが現在は介護施設で働くマリー=ルーとが主人公だ。
設定は原作と大きく異なるが、二人の女性が対話を通じて魂を通わせていく基本的な部分は変わらない。
こちらもまた、会話やスキンシップを通じて二人が心の絆を深めていく様子が表現され、これだけ原作から離れた設定でも、宮野さんと磯野さんが作り上げた魂の絆がちゃんと表現されていることに驚いた。
日本語とフランス語両方を話せる二人の、日本語フランス語が入り混じった会話も心地よい。
「障がい者との共生」や「ユマニチュードを通じた認知症との共生」「資本主義の功罪」という社会的メッセージも織り込まれ、濱口監督の技量の高さを感じた作品だった。

Xより引用

「急に具合が悪くなる」を読んで観た私の感想。
原作を知るからこそ映画のすばらしさが理解できたし、2度楽しめた。
「病や死」というテーマを通じて二人の女性が築いた、尊い魂の絆。
この世を去っても、残された人の心に生き続けることができることなんて、素敵だな。
人が「生きる」、そして絆を深めていくためには、現代を台頭するSNSの無機質なやり取りでなく、本質的なコミュニケーションスキルである会話やスキンシップが必要なのだろう。
AIには無い人の温かい営みに、私の胸の中でじんわり暖かな火がともされたような気がした。

ご興味ある方は、映画を見る前に原作を読まれることをお勧めしたい。

綺麗な夕焼けだね、月