映画「ペーパーシティー東京大空襲の記憶」を観てきた。
つい先日の4月7日。
イスラエル軍がガザを空爆しました。
空爆の前には、エルサレムにあるイスラム教のモスクにイスラエル警察が乱入し、市民を拘束したという衝突もありました。
そのモスクは、アル・アクサーモスク。
私たちが今年オンラインツアーで行ったモスクです。
「空爆」。
それは約110年前から、世界各地で横行されています。
これまでゲルニカ、重慶、
ドレスデンなどの都市や戦後はシリアなど無差別に空爆はされてきました。
空爆は戦闘員じゃない市民が被害に遭います。
たくさんの人々が亡くなります。
第二次世界大戦中、日本も空爆されました。
1945年3月10日、約300機のB-29が東京下町の人口密集地域に向けて、焼夷弾による大規模な空襲を行いました。
一晩で10万人を超える犠牲者を出した東京大空襲です。
東京を拠点に活動するオーストラリア人映画監督エイドリアン・フランシスが、生存者の証言を通じてこの空襲を描いた長編ドキュメンタリー映画「ペーパーシティー東京大空襲の記憶」をつくりました。
アジア・太平洋戦争の末期、アメリカ軍はマリアナ諸島を拠点にB-29爆撃機による日本への空襲を本格化させました。
当初は、昼間、高高度から爆弾を用いて軍需工場などを狙う「精密爆撃」が中心でしたが、次第に市街地を第一目標とする都市無差別爆撃に移行していきます。
民間人を巻き込んで攻撃することで、日本国民の戦意を挫き、早期に戦争を終結させることが大きな狙いでした。
3月10日午前0時8分、東京湾から侵入したB-29は、これまでより低い高度から、目標地域内の4地点(墨田川両岸に2つずつ)を狙い、風下から爆撃を始めました。
それは奇襲だったのです。
日本側の空襲警報はその後に発令されました。
まず、先導機が大型焼夷弾を落として火災を発生させ、地上の消火活動を釘付けにしました。後続機はそれを目印に大量の焼夷弾を次々に投下しました。
主に使われたのは木造家屋の多い日本向けに開発されたM69焼夷弾。
1発は長さ50cm、直径7.5cmの6角柱で。重さは2.7kg。
ガソリンをゼリー状にしたナパーム剤が詰められており、落下すると火のついたナパーム剤がまき散らされ、それが周囲にへばりついて燃えました。
この日だけで約32万発、1538トンが投下されました。
目標地域の内外で各所に発生した火災は、北西からの強風にあおられて合流し、一帯は大火災に包まれました。
当時国民には防空法により消火活動が義務づけられていました。
そのため訓練通りに火を消そうとした人も多かったのですが、バケツリレーや火たたきで消せるものではなく、多くの人が逃げ遅れる原因となりました。
防空壕は一時的な待避場所に過ぎず、多くの人が防空壕の中で焼死したり窒息死しました。
安全な場所を目指して避難した人たちは、隅田川などの河川やこの地域を流れる無数の運河(堀割)に行き当たり、火に追われて多くの人が川に飛び込み、犠牲となりました。
爆撃は約2時間半で終わりましたが、発生した大火災は、明け方、燃えるものが無くなってようやく下火になりました。
この空襲によって、現在の台東区、墨田区、江東区、中央区などを中心に約41㎢、約27万戸が焼失、約10万人が犠牲となりました。
被災者は約100万人にのぼりました。
犠牲者の多くは、女性、子ども、高齢者などの民間人でした。
映画は、この地獄のような空襲の体験を後世に残そうとしている3名の生存者の姿を追います。
清岡美知子さん「助かるのと死ぬのと紙一重」
清岡さんは浅草寺の近くで生まれ育ちました。当時21歳。
家族とともに近くの隅田川(言問橋の下)に逃れました。
清岡さんは冷たい水の中、木の棒にしがみついて夜明けを待ち、数日後、姉と父の遺体を見つけました。
戦後は、空襲の恐ろしさを次の世代の人々に知ってもらうために語り部の活動をしています。
築山実さん「日本は絶対に戦争っつーのはやっちゃいけない」
築山さんは当時16歳。
近くに軍の標的になるものもなかったので安全だと思い込んでいましたが、それは大きな間違いでした。
その夜、街が壊滅していく様子を間近で目撃し、3人の兄弟を含む多くの知り合いが命を落としました。
彼らを追悼するために、森下5丁目の人々ともに町内の亡くなった人の名前を記した巻物を作り何十年と保管してきました。
森下5丁目町会では、戦後70周年を記念して、近隣で亡くなられた方々の名前を刻んだ記念石を除幕しました。
星野弘さん「街場を攻撃されれば民間人が犠牲になる」
星野さんは押上に近いところで生まれ育ちました。
退職後東京空襲遺族会の会長に就任し、空襲被害者への補償を求める活動を続けています。
「ヒロシマの平和記念資料館やドイツのホロコースト記念碑、そしてニューヨーク9.11記念碑などは世界中の人が訪れ、過去の出来事を知り、学び、犠牲になった方への敬意を払う場となっています。
ですが、東京大空襲に関しては独立した公的な記念碑が建てられていません。
私にはそれが不思議に思えて仕方がありませんでした。
なぜこの事実の痕跡がほとんど見当たらないのでしょうか?
生存者は生きているのでしょうか?
東京大空襲を語り継ぎたくなかったのでしょうか?
それとも忘れてしまいたかったのでしょうか?
私は生存者たちに連絡を取ることを決め、その中で出会ったのが清岡美知子さん、築山実さん、そして星野弘さんでした。
この3人の生存者の方が当時の記憶や経験を語ってくれました。
聞いてもらいたい、知ってもらいたい、覚えていてもらいたい。
彼らが一番恐れているのは自分たちが語り継がなければ空襲がなかったかのように、私たちの記憶から消え、風化してしまうことだと感じました。」
これが監督が映画を製作した理由です。
外国人である彼からしたら、日本の戦後処理の雑さは不思議だったのでしょう。
映画製作後の監督の感想です。
「生存者たちから聞いた話の中で学んだことは、政府が戦争を生み民間人がそれに耐え続けなければいけないということでした。
それは攻撃する側であっても被害を受ける側であっても変わりません。
これは日本の帝国主義時代の中国や朝鮮半島などでの民間人犠牲者たちにも言えることですし、アメリカによる東京と数十の都市への爆撃の犠牲者たちについても同じことが言えるでしょう。
『ペーパーシティ』を制作する以前、私は戦争を単純に国家対国家の争いとして考えていました。
しかし今では、戦争とは、民間人と兵士が権力者の気まぐれに巻き込まれるものだと考えてなりません。
生存者からの視点で歴史を伝える『ペーパーシティ』をきっかけにして、世代を、国境を越えて、東京大空襲、そして戦争と平和に関して多くの対話が生まれることを願っています。」
映画の冒頭の言葉
「権力に対する人間の戦いとは、忘却に対する記憶の闘争である。」
(チェコの作家 ミラン・クンデラ)
果たして過去を忘れて死者の声に耳を傾けない者が未来を築くことができるでしょうか?
空爆は毎日世界のどこかで行われてると言っても過言ではありません。
今日はミャンマーで軍が自国を空爆しました。
ミャンマーを空爆したのです。
たくさんの市民が亡くなりました。
そもそも市民を殺すことが目的の空爆ですが。
今もどこかで民間人と兵士が権力者の気まぐれで巻き込まれています。
執筆者、ゆこりん、ハイサイ・オ・ジサン
参考文献
「ペーパーシティ東京大空襲の記憶」パンフレット
