【 小さな宿 】 60章 重なる旅── 図面の外側の支点(下)
昨日の検査。
役所の担当者の女性は、珍しく遅れて来た。15分。
遅れてきた人を見ると、少し嬉しくなる。
主導権が、こちらに移る気がするからだ。
だから私は、できるだけ遅刻しない。
私は彼女をフォローし、
自分と同じようなアウターを着ていることを話し、
場を温めた。
事前にフル稼働させていたエアコンも、ちゃんと効いている。
動作確認、完了。
検査は5分にも満たなかった。
彼女にバス停までの道を示し、
また役所の窓口で会う段取りとなる。
敷居の高い京都と、
少し距離が近づいた気がした。
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今、ようやく自分のプロジェクトに着手している。
コロナ禍の最中に手に入れた、自宅近くの土地のことだ。
社会全体が足踏みをしていた時期、
個人的には、静かに抱え込むように取得した土地でもある。
前の章にも書いたが、
今のところ、この土地は宿泊施設にするつもりでいる。
あくまで「今のところ」だ。
用途を決め切らないまま進むことに、
今回は、ある種の意味を見出している。
京都や北海道ほど、制約は厳しくない。
条例も、景観も、周辺環境も、比較的おとなしい。
ただし、決定的に違うのは、
自分が施主であるという点だ。
資金も思想も、自分。
判断も決断も、自分。
そして残された責任も、すべて引き受ける。
誰のせいにもできない。
デザイナーのせいにも、
工事業者のせいにもできない。
行政を恨むことも、
制度に文句を言うことも、
最後には自分に返ってくる。
すべては回り道をして、
最後には自分に戻ってくる。
そういうプロジェクトを、
キャリア25年目にして、
初めて引き受けようとしている。
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本来なら、
土地を購入した翌年あたりに、
すぐ着手する予定だった。
だが、資金の都合で、
なかなか踏み出せなかった。
2社、3社、
見積もりは取ったが、
思うような金額には、ならなかった。
削れるところは削り、
削れないところは残す。
その境界を、何度も行き来した。
その間、
何案も考え、
何度も図面を引き直した。
いつの間にか、
「建てること」よりも、
「考えること」そのものが、
楽しくなっていた。
背後では、
妻が無言の圧を放っていた。
キッチンの手を止め、
こちらを見ている時間が長くなった。
視線の向きだけで、
時間が経っていることがわかる。
だが、それを真正面から
受け止める気にはなれなかった。
設計という仕事のなかで、
十分すぎるほどの圧力を、
かわし、受け流し、
時には正面から受け止めてきた。
家庭内の視線くらいでは、
正直、揺らがなかった。
それよりも気になったのは、
敷地の北側にある、
中学校のグラウンドのイチョウの木だった。
唯一の拠り所のように、
勝手に思い込んでいたその木が、
ここ4〜5年で、
少し元気をなくしたように見えた。
枯れてはいない。
だが、以前のような力強さは、
確かに感じられない。
秋になっても、
いつもより葉が少ない気がする。
もしこの木が失われたら、
私は何を頼りに設計すればいいのだろう。
図面の外側にあったはずの支点が、
ひとつ、消えるような気がした。
無重力の空間で、
手探りを続けるような感覚。
そんな不安が、
設計の背景に、薄く漂っていた。
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敷地は、
寂れた商店街にほど近い一角にある。
左右には小さな住宅が迫り、
南北は道路に挟まれている。
北側には幅20mの道路と、
中学校のグラウンド。
視線はよく通る。
抜けは、意外なほどある。
東西からの採光は期待できないが、
南北方向には光が入る。
いわゆる、
ウナギの寝床のような土地だ。
制約が明快なぶん、
考え方も、ある意味で単純になる。
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建物は、
全体を白っぽくまとめるつもりでいる。
余計な主張は、
できるだけ抑えたい。
宿泊客がいないときは、
瞑想のための場所にしてもいい。
あるいは、逃げ場所。
プライバシー確保のため、
アルミのルーバーも使う予定だ。
閉じるためというより、
距離をつくるための装置に近い。
1階は、
店舗にも転用できるよう、
比較的自由な間取りにする。
南側の日当たりのよい場所には和室を設け、
宿泊時は客室として、
店舗利用の際は、
休憩や簡単な商談の場として使う。
用途が変わっても、
居場所としての質だけは、
落としたくない。
1階から直階段で2階へ上がる。
2階は、
ほぼワンルームに近い構成になる。
南から光を取り込み、
北側には眺望をつくる。
長手方向に、
ゆるやかな開放感を持たせたい。
視線が、
自然と前後に流れる空間。
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当初は、
2.5階分ほどの高さを想定していた。
だが、
予算と構造の問題で、
その案は断念した。
理想と現実が、
はっきりと分かれる瞬間だった。
今の案は、
正確に言えば、10案目くらいになる。
多分、もっと多い。
ようやく、
無理のないところに落ち着いた。
そんな感覚がある。
妥協ではない。
執着を手放した結果、
見えてきた形だ。
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この建物は、
1棟貸しの宿泊施設として使う予定だ。
家族や友人同士、
4〜6人ほどが泊まれる規模。
延べ床面積は約54㎡。
決して大きくはない。
自宅から歩いて30秒ほどの距離なので、
管理の面では、
気持ちが少し楽だ。
飲食店が少ないのが唯一の難点だが、
買い出しをしてもらい、
自炊してもらう。
そういう滞在の仕方も、悪くない。
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もしかしたら将来、
この建物の2階で、
近所のおじいちゃんやおばあちゃん相手に、
ピラティスのプライベートレッスンをしている
自分がいるかもしれない。
そんな、
わずかな希望や妄想を残したまま、
この小さな土地と向き合っている。
ピラティスも、建築も、
結局は自分に問いを投げ返してくる。
その問いに、
今はまだ、向き合っている。
