消費・消費・消費
最近の僕はと言えば、低俗なポルノ動画に劣情を催したり、ソーシャルゲームに熱中したりと、既にあるものを消費するだけの日々を送っている。その習慣が僕を堕落させているのか、僕という人間の本質は初めからそこにあるのか。無気力で怠惰な日々を送り、「明日こそは」と意気込むものの、結局似たような今日を過ごしています。
精神的に解放的だと、却って束縛を望んでしまうのは、昨日のnoteにも書いたことでして。開かれた自由を享受しているだけの受動的な1日を過ごしていると、毒にも薬にもならない考えが頭を駆け巡ります。そうしている内にふと、「自分は消費しているだけではないか」「いや、命を浪費しているとさえ言えるのではないか」「それなら、生産とは何か」とかって考えてしまうのです。
生産。一口に言えば、「何かを産み出す」ことそのものです。でも、言葉通りの意味なら「生産」している人間なんて限られているとも思うのです。学生は何を産み出しているのか?社会人は何を産み出しているのか?目に見える物理的な何かを産み出すことを「生産」と言うのなら、それをしている人間なんて限定的じゃないですか?(2回目)
翻って、「消費」をしている自覚だけは絶えません。既成の動画コンテンツ、ゲーム、その他諸々。それらに興じている時間そのものを、自分の人生の時間から「消費」しているから、自分が消費者だという自覚があります。それをするだけだから、「それでいいのか?」と言う疑問が生まれているのですが。
消費をするだけの自分。生産をしない自分。それが惨めに思えてならないから、少しでも生産的でありたいとも思っていますが、じゃあ、「生産的」って何だろう、と言う疑問も生まれます。「的」という言葉が意味するのは、つまり、「〜のような」「〜する/させるような」といった意味合いがあるため、「生産的」とは、「生産させるような」「生産するような」と説明できると思います。
じゃあ、生産的なことって何だろう。生産的という言葉の意味を理解できたは良いものの、具体的に何をすれば「生産的である」のでしょうか?趣味はおしなべて非生産的な気がしてなりません。僕は本を読むことが好きですが、既成の作品や思想をなぞっているだけ。ギターを弾きますが、既成の楽曲を、楽譜通りに弾くだけ。こうしてnoteに書き留めているけれど、前進することはない。旅行も、キャンプも、プラモも、生産的ではないような気がしてならないのです。
浪費している自分でさえ本当の意味で心の底から愛せるようになったら、それは生産的であると言えるのでしょうか。愛はこの世で最も生産的な感情なのでしょうか。それなら自己否定は最も非生産的な感情なのでしょうか。
さて、「生産」と言う言葉を何回使ったでしょうか?
