僕の母(全て実話)
薬物中毒だった母親は、僕が小学3年生の時に新しい男を作って出ていった。
彼女曰く、「子供たちと離れるよりも、男と別れる方が辛い」とのこと。
彼女が出ていく数日前、彼女がまだ僕の母である時間に二人家で過ごしていた。
昼下がり世界は全く無音で、僕ら二人は居間で何も考えず洗濯物を畳んでいた。
その時、唐突な地震がきた。そこまで揺れは強くないが長い時間揺れた地震だ。
母は10歳の僕の手を引いてデッキへ出た。
彼女は後ろから僕に覆いかぶさると、想定される落下物から僕をぎゅっと守り続けた。
たった一人の母に祝ってほしかった2分の1成人式が終わったばかりの僕を捨てて、男を選んだ人間の行動に激しく混乱した。
地面は1分程度揺れ続けた。1分程度、僕はその腕の中で、その人の子供だった。
地震が収まり家の中へ戻る。
テレビをつけた。早速地震の緊急速報だ。
僕の住んでいる場所は震度3だった。
そして冬の日の朝
『ごめんね、ママはね、もう出ていかなくちゃいけないの』
と泣いていた。
どういう種類の涙なのか僕にはわからなかった。
あなたのお腹を沢山痛めてしまったけれど、あなたの元へ生まれ落ちたあなたにとってたった一人の息子を置いていかなくてはいけないところがあるなんて到底思えなかった。
僕は学校に登校する前にストーブで足を温めていた。
雪国の朝は家を出る前にどれだけ、体を温めていけるかが重要だからだ。
僕はストーブの前に居たのに全身が凍ったかのように冷たくなるのを感じて、両親を問い詰めたが事態はもう決定してしまったらしかった。
母はゆっくりと立ち上がって出ていこうとした。
僕は彼女に最後のお願いをした。
彼女は困ったように笑って了承した。
僕は階段を駆け上がり2階の自分の部屋へ行くと、勉強机の引き出しにしまってある、一冊の本と同じ場所に入っている折り紙を取り出して母のもとへ駆けた。
僕は母にそれを渡した。
「折り紙の本」と「折り紙」を。
ずっと前に親戚の誰かに貰った本だったけれど、これがまた小学生には中々に不親切な本で、50ページくらいあるのだけれど僕が当時自力で折れたのはせいぜい25ページくらいだった。
幼く、元から頭の良くない僕の魂胆はこうだった。
『母は折り紙を折ってくれると約束した、だからとても難しい折り紙を指定すれば、母はそれを折ることができず、この家を出ていかない』
本と折り紙を受け取り
「わかった」と母
僕はもう一度母から折り紙の本を奪い取り、本来は前からペラペラ捲っていくところを後ろから捲った。
「ロケット!ロケット作って!」
「いいよ」と母。
母の母、つまり祖母は熱心なキリシタンで毎週土曜日と日曜日は、教会に通っていた。
全くをもって本意ではなかったけれど、毎週土曜日に祖母は僕を迎えに来て教会に連れていく。
牧師が来るまでの間、横に伸びた何列も連なるベンチに座った信者たちは口々に聞いたこともない言語でイエスキリストに祈っていた。
祖母も祈り続けた。
まるで僕を教会に連れて来たことなんて忘れてしまったかのように。
信じられないかもしれないけれど、2時間とかそのくらいの時間、みんな何かを祈っている。
僕はずっとステンドグラスから差し込む光を見ていた。
そのうちに牧師が来て、聖書を開いて話が始まる。
ベンチで祈っていた人達も一斉に本を開いた。
みんな同じくらいぼろぼろの本だった。
やがてピアノ担当者がピアノを弾き賛美歌を歌う。
僕は学校で習っていない歌なんてほとんど知らないから、口パクをしながら
ピアノを弾いている人を見ていた。
5曲くらい連続で歌うのだけれど、その間ピアノを弾き続けていた。
その人の横顔とか姿勢とか、ステンドグラスから差し込む光の包まれ方とか、なぜか美しいなと思った。
もしかしたら、ああいうところに神様はいるのかもしれないとも思った。
これもまた、ある冬の日のこと。
雪が積もっていた。
道路も雪で混んでいて、いつもより教会へ遅れそうだった。
でも僕は渋滞が好きだった。
何故かというと、祖母の車はマニュアル車だったし、僕はギアチェンジの音が心地よくて好きだったからだ。
信号待ち、祖母が口を開く
「今日はね、貴方の特別な日になるからね、生まれ変われるよ、おばあちゃんは幸せ」
祖母が幸せなら何よりだ、と思った。
祖母が幸せな気持ちにならないのなら、
僕は一秒だって教会に行きたくなかった。
せっかくの土曜日に教会で重い聖書をもって開くよりも、わからない歌を口パクで歌っているフリをするよりも、神の肉と血といわれ、パンとぶどうジュースを口にするよりも、僕は友達と公園で遊びたかった。
ようやく渋滞から解放され、閑静な住宅街を縫っていくように進むと教会へついた。
祖母はずっと微笑んでいた。
僕はなぜか教会の裏に連れていかれ、小さな倉庫みたいな場所へ案内された。
祖母は倉庫には入ってこなかった。
中には普段教会でお祈りしている人たちが数人いて
僕に白い頭から被るだけの透け透けの服を渡して、
今着ている服はすべて脱いで、裸の上にこれを着てねとやさしく言った。
みんな微笑んでいた。
言われた通り着替えると今度は外に連れていかれた。
まだ雪がしんしんと降っていて、これは一日をかけてまた積もっていくなというような感じだった。
大人たちに手を引かれ、倉庫の後ろへいくとプールがあった。
そこにはもっと多くの大人がいてその中心に牧師さんがいた。
みんな微笑んでいた。
僕は寒かった。
僕は裸に一枚の中、突然始まった牧師の祈りと、それを復唱する大人たちに囲まれて混乱していた。
祈り終わると、
牧師は優しくこう言った。
「今神様にまた一人貴方の子供になる子がいますって伝えたからね、今から言う事をちゃんとしてね」
僕はゆっくりと、真冬のプールに一歩ずつ一歩ずつ足を踏み入れて行った。
神様の子供になるとか、そんなのは全く理解できなかったけれど、言われた通りにする他なかった。
なぜ人を幸せにするはずの神様が、こんな真冬の日に子供を水の中に沈めたがるのか、やはり賢くない僕にはわからなかった。
腰までつかり、胸までつかった。
牧師は言っていた。
「頭まで使って10秒数えなさい、そしたら貴方も神の子よ」
雪が水面に吸い込まれて幾つも消えていった。
僕は頭まで水に浸かり、10秒数えた。
命のない世界だった。
頭を出すとプールを囲んだ大人たちが全員笑顔で拍手をしていた。
祖母は誇らしげに僕を見つめていた。
もしかしたら、あまりの嬉しさに泣いていたのかもしれない。
帰りの車で祖母は僕の濡れた頭を撫でながらこう言った。
「貴方はもう神様の子供だから、辛いときや困ったときは必ず助けてくださるよ、そういうときは学校のトイレでもどこでも心の中でも口に出してでも
『イエスキリスト様、僕を助けてください』っていうんだよ」
僕はその日キリストの洗礼を受けた。
「できたよ、ロケット」
僕の母が器用なのか、大人には簡単な本だったのか、今となってはわからない。
今手元にあったところで、もう一度開こうという気持ちにはなれないだろう。
小学生だった僕が何日も粘って作ろうとしてついには完成しなかったロケットがものの5分でできてしまった。
まずい、と思った。母が出て行ってしまう。
僕はページをめくった
「怪獣!怪獣もほしかったんだ」
「いいよ、見せて」
それも5分で作ってしまった。
それからも色々頼んで折ってもらった。
最終的にはロケットを5個くらいとか怪獣も6匹とかになった。
それでも、僕は何かを折ってもらおうと頼み続けた。
必死だったのだと思う。
いい加減父親が見ていられなかったのか、
「学校の時間だぞ」と強い口調で告げてきた。
僕は無視して母に
「ロケット!ロケットがいい」というが
母ももう首を振った。
「学校へ行け」と父は怒鳴った。
僕はランドセルを背負って学校へ行った。
誰とも話さなかった。
学校では担任の先生が、放課後に僕を呼び出して、泣きながら抱きしめてくれた。
「私のことを母親だと思ってくれていいから、なんでも言ってほしい、大丈夫だよ」
僕は縦にも横にも首を振れなかった。
家に帰る前に、僕はトイレに向かった。
学校はほとんどの生徒が帰っていて静かだったように思う。
「イエスキリスト様、助けてください、ママがどこかへいってしまいます、そんなの嫌です」
帰りは朝よりも雪が降っていて寒かった。
風も強く、なんども交差点がホワイトアウトして信号も見えなかった。
僕は帰りながらもイエスキリストに祈りながら帰った。
母はその日以降、帰ってこなかった。
