書くことを選び続ける、ということ— 2年後の私へ —
なぜ、私は書くようになったのか
なぜ私は、発信をするようになったのか。
最近、何度もこの問いに立ち戻っています。
誰かに何かを教えたかったわけでも、
正解を示したかったわけでもありません。
ただ、
自分の心の声を置き去りにしたまま生きることが、
もうできなくなっただけでした。
毎日やることは山ほどあって、
気づけば一日が終わっていて、
夜になってから
「今日は私は何を感じていたんだろう」と
ふと立ち止まる。
そんな日が続くと、
少しずつ、少しずつ、
自分がどこにいるのかわからなくなっていく。
その感覚が、
私にはとても怖かったのだと思います。
思いつきで書かない、と決めている理由
だから私は、
思いつきで言葉を出さないようにしています。
感情が動いた瞬間に書くことは、
正直、楽なときもあります。
スッと出せた気がして、
何かを吐き出せたような気もする。
でもそれを続けていくと、
発信がいつの間にか
感情のはけ口や、
自分の正しさを守るための場所に
変わってしまいそうで。
私は、
発信をそういう場所にはしたくありませんでした。
「わかってくれる人だけでいい」という言葉について
「わかってくれる人だけでいい」
この言葉は、
誰かを切り捨てるためのものではなく、
私自身がズレないための境界線だと思っています。
でも同時に、
強い感情のままに出た言葉を、
発信としてそのまま置いてしまう在り方は、
私にはどうしても選べませんでした。
だから、書く前に立ち戻ります。
ジャーナリングで、
今の自分が何に反応しているのか、
どこが痛んでいるのかを確かめます。
それは誰かのためというより、
自分を裏切らないための時間です。
私が発信の前提にしていること
私が発信の前提に置いているのは、
徹底的な自愛と、
自分へのリスペクトです。
甘やかすためではありません。
自分の言葉を、
雑に扱わないためです。
自分をすり減らしながら出した言葉が、
誰かを勇気づけたり、
背中を押したり、
包み込んだりできるとは、
どうしても思えなかった。
だから私は、
「どう書くか」よりも先に、
「どう在るか」を整えるようにしています。
先程、こちらの記事を拝読しました。
「何を書くか」よりも
「誰として書くか」が問われる時代だ、という話。
読んでいて、
新しいことを教えられたというより、
自分が大事にしたかった感覚に、
そっと名前をつけてもらったような気がしました。
苦しいときに、そこに在れる言葉でありたい
正直に言うと、
「書くことで隣に座る」という言い方は、
私には少しきれいすぎる気がしています。
私が本当に願っているのは、
もっと現実的なことです。
苦しいな、
しんどいな、
もう無理かもしれないな、
そう思ったときに。
ふと開いた先に、
言葉がちゃんと残っていること。
誰かの正解が並んでいなくて、
頑張れとも、変われとも言われなくて、
ただ「ここに在る」言葉があること。
私は、
自分が誰かの正解を生きようとするあまり、
発信が楽しくなくなって、
続けられなくなって、
本当に誰かに必要なときに、
誰もいない。
そんな世界にはしたくないと思っています。
だから私は、
評価される言葉よりも、
続けられる言葉を選びたい。
派手じゃなくてもいい。
でも、
必要なときに消えていない発信でありたい。
これからも、ずっと
言葉は変わっていくと思います。
書く内容も、表現も、揺れると思います。
それでも、
根っこにある想いだけは変えずにいたい。
これからも、ずっと。
書き手として、
発信を通して、
誰かの人生のそばに
そっと残る言葉を置いていたい。
2年後の私へ
今も
「書く」ことを選び続けていますか?
そんな自分を
好きでいれていますか?
最後までお読みいただき
ありがとうございます。
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