見出し画像

「ガチ恋」は本当に無意味か?──安易で、安全で、安心な片想いのニーズとその管理。

この記事は、同人誌「モトクラシvol.1 「推す」と「推される」のはざまで」に載せた「灼ける身体と熱視線──ペンラ、マルシェ、二つの規範」という文章を改稿したものです。タイトルが違うのは、元のままだと内容がわからずアクセス数が減りそうだからです。内容は同じです。

「モトクラシvol.1」は先日の文学フリマ東京40にて頒布、ありがたいことに完売したため、このたび一部原稿を改稿のうえで第二版を発行しました。現在、Boothにて通販を行なっています。(→こちらから!)

その宣伝をしたい!ということで、今回の文章を無料公開しました。

なぜこれなのか。主宰のひとりである僕が書いているので使いやすい、というのもありますが、この文章は増刷にあたって大幅な改稿を行っています。そうなると、初版を買ってくださった方に拙いverのみを読ませることになり、ちょっと申し訳ない……ということで、公開しました。これで、初版を買ったからといって損をするということはないはずです。

くわえて、noteでは備考を書き加えています(雑な言及の補足説明など)。そちらもあわせてお読みいただければ、嬉しいですが……読み飛ばしても、まったく問題ありません。

時代を象徴するワードであるだけに、イメージで雑語りばかりされがちな「推し」や「推し文化」。今回の文章では、現場にも触れて実感を文章に反映するとともに、実存から一定の距離を取り……つまりは「若い書き手による、単なる「好きなもの擁護」」ではないものになることを目指しました。


それでは、どうぞ!


[灼ける身体と熱視線──ペンラ、マルシェ、二つの規範(改稿版)]

0.ステージライト

アイドルの身体は常にかれている。

いわゆる「炎上」で灼き尽くされるのが心なら、アイドルは常日頃からその身体を灼かれ続けている。これは比喩ではなく、実際の話だ。LEDライトと並んでライブハウスの天井から吊り下げられている白熱灯は白〝熱〟というだけあって、当然熱い。灯体とうたいに触れれば火傷は必至だし、照らされているだけでも熱がジリジリと体力を奪う。真夏の直射日光のように、その熱は肌荒れの要因となる。そして、今まさに灼かれているステージ上のアイドルに、ファンは輝かしさを感じる。

ステージライトだけではない。なにより、ファンが「推し」へと向ける熱視線や、フロアに渦巻く熱狂がアイドルたちの身体を照らし、燃やし、ときに励まし傷つける。光彩煌めき爆音の響くライブハウスで、両者の関係は非日常的な熱気を浴びながら形成されてゆく。「ライブアイドルとそのファン」という関係性は、どのように成立し、そこにはどのような可能性があるのか。そこで交わされる情熱的な「好き」は、どのようにして生まれ、管理されているのか。

現場の慣習やシステムに触れながら、その「熱さ」を確かめてゆきたい。

補足1
・この文章では、いわゆる「地下アイドル・ライブアイドル・女ドル」と呼ばれるジャンルの現場について考えています。つまり、テレビや雑誌等で活躍する「メディアアイドル」については、あまり念頭に置いていません。

・また、いわゆる「メン地下」についても同様です。近年、メディアアイドルのみならずライブアイドルについての研究も盛んに行われていますが、その対象は女性アイドルに偏っており、メン地下についての知見・考察は不足しています。とはいえ「前戯物販」「物販監視」といった女ドル現場にはあまり見られない事象は、考えてみると色々面白いはずです。もし詳しい方がいたらお話しさせて欲しい(X→@tkoase)。

1.ペンライト

私はあなたを見ているのだ──と伝えたい。

しかし、視線は目に見えない。ステージでファンからの熱視線を感じたとしても「あのひとが見ているのは私なのか、はたまた隣に立つメンバーなのか」を正しく判別することは難しい。ステージ上で立ち位置がほとんど変わらない/メンバーが少ないのであればともかく、あるファンが自身に視線を奪われていることを確信しても次の瞬間はその視線が他のメンバーのものになっていることなどざらにある。アイドルは「視線を奪い合う」技術のプロだ。ステージが終わるまで、この場の誰より視線を集めてみせる──そんな戦いに身を投じている推しに「少なくとも、私が見ているのはあなたですよ」と伝えるための道具。それがペンライトだ。

少しだけ遠回りをしよう。アイドル、特に本稿で念頭に置かれている「ライブアイドル」の多くは「メンバーカラー」を持っていて、このメンバーはオレンジ、隣の子はピンク、そのまた隣の子は赤……という具合に、ひとりひとりに固有の色が振り分けられている。現代のライブアイドル文化において、「アイドルになることは、特定の色が『私の色』になることだ」と言えるだろう──たとえば、これまで無数の色に埋もれていた「青」が「私の色」になる、というような──無色透明の何者でもなかった存在を「アイドル」たらしめるのは、そのような色にまつわる特殊な経験なのだ。逆にいえば、「私の色」を失ったときに、アイドルとしての彼女・彼は本当にいなくなってしまうのではないか、とさえ思う。脱退したメンバーのメンカラが、新メンバーのものになることがある。そのとき、かつてその色の持ち主だったアイドルは完全に消えてしまうような気がするのだ。

また、フロアで光るメンバーカラーの光量は、すなわち自身に視線を向けるファンの量を意味している。バロメーターとして機能する残酷な光。無味乾燥な数字以上に圧倒的な存在感をもって、その光は強く主張する。「あなたを見ているひとは、これだけいるのだ」あるいは「こんなにもいないのだ」と。

だから、ファンは各々推しのメンバーカラーを灯したペンラを携える。ペンラは、彼らの視線を可視化するのだ。推し色に輝かせたペンラをステージへ向けるとき、不可視だった熱視線は着色された光線として現れる。そうしてファンは「私がここにいるのは、あなたを見るためなんですよ」と伝えることができる。光る「私の色」を見たアイドルもまた「あの場所にいるあの人が見ているのはは、他でもない私なんだ」と確信する。

複数のアイドルが出演する対バンライブの受付では「お目当てはどこのグループですか?」と聞かれる。目当てとは、眼差しを向ける先のことだ。暗いライブハウスのなかで、あなたは一体誰に光を向けるつもりなのか、と問われている。
アイドルを「推す」限り、この問いはついてまわる。あなたの熱視線は、いったいどこへ向けられているのですか──それに答えるべく、ペンライトのスイッチを入れる。

補足2
・とはいえ、どんなライブアイドルの現場であろうとペンライトが振られているわけではありませんし、必ずしもメンバーカラーが振り分けられているわけでもありません。有名どころを挙げると、FNS歌謡祭に出演して話題になった「タイトル未定」などが、グループカラーはあれどメンバーカラーはありません。

2.マルシェ

「現場」は表現者と鑑賞者によってつくられるエンターテイメントの場であり、消費者と生産者によってまわるビジネスの場でもある。そして、それを支えるシステムは過度に搾取的だ──という指摘が、長年アイドル産業には向けられてきた。では、そんなシステムはなぜ成立しているのか。消費者は何に価値を見出しているのだろうか。なぜ、ファンは原価100円もしない写真や画像一枚を買うために、2,000円も3,000円も出すのか──それを考えていきたい。

……本題とはズレるが、「アイドルが映っているだけの写真一枚に2,000円も3,000円も」という批判は「写真」というものを軽んじてはいないだろうか。露出の多い衣装をまとった扇情的な写真も少なくない。そういったものが商品になると考えたとき、むしろ数千円という値段はあまりに安いようにも思う。人間の顔や身体をメディアに記録して売買する、というビジネスに「数千円は高い」と感じるのは、どこか感覚が麻痺しているのではないだろうか?

話を戻そう。「なぜファンは原価100円もしない写真や画像一枚を買うために、2,000円も3,000円も出すのか」。もちろん、そのくらいの値段がする場合はサインや会話の時間がセットでつくことも多い。それを目当てに買う……ということも当然あるが、もっと目に見えないもの、手に入ったのかどうかすら容易にはわからないものが高値で扱われていたりもする。

たとえば「マルシェ」と呼ばれるものがそうだ。「市場」を意味するフランス語だが、ライブアイドルの現場においては同名のオンラインショップと、そこに出品されている商品のことを指す。登録さえすれば誰でも自由にデジタルフォトブックやメッセージ付きデジタルフォト、ムービーやボイスなどを販売することができるのだ。

「虹のコンキスタドール」や「でんぱ組.inc」のような大手ライブアイドルから、まだそこまで知名度のないグループまで、多様な出品者がマルシェを利用しており、そこで売られる商品にはたとえば「アイドルから購入者宛のメッセージが書かれた限定5枚のデジタルフォト」がある。販売開始にあたって、運営から「23日の火曜22時から売りますよ!」と告知がなされ、メンバーも宣伝する。そして22時になったらファンは購入ページへと一斉アクセスし、運良く購入手続きを終了した5名がデジタルフォトを手にすることができる。掴み損なった者は涙をこらえ、ネカフェのネット環境が整ったゲーミングPCをつかってもダメか、と悔しがる。

なぜ、それほど欲しいのだろうか。

もちろん、「自分宛のメッセージが書かれる」というのは魅力的だ。サイン付きチェキとは価値が違う。しかし、本当の商品価値は目に見えないところにある。アイドル本人が購入した5名のファンにメッセージを書く以上、当然ながら誰が買ったのかわかる。それは、アイドルに「この人、限定商品を買ってくれたんだ」と喜んでもらえる『かもしれない』ということだ。この『かもしれない』という感覚を得る体験が、最も重要なのである。あの人にとって、少しでも特別な存在になれた『かもしれない』と思える──もちろん、実際のところは、わからない。「あ、またこの人だ。ありがと~」という軽いものかもしれないし(普通に考えたらそうだ)、あるいは「久しぶりに買ってくれたけど、なんでしばらく買わなかったんだろう……」という疑念を抱かれるかもしれない。そのあたりも、もちろん理解はしたうえで不確実なかもしれない夢を買っている。

補足3
・水着撮影をはじめとした、露出の高い被写体としての仕事について考えるのは難しいです。当然、自己表現として積極的にやりたいアイドルもいれば、強く抵抗感を覚えるアイドルもいます。とはいえ、「やりたい!」と本人が言っていたとしても、そのアイドルが14歳であればどうか。成人して後悔しないといえるか、後悔する彼女に「いや、自分の意思でやったんだろ」と自己責任論で切って捨てるべきではないでしょう。であれば、ときに本人の意思を無視してでもやらせない方が良いのかもしれない。たしかに、雑誌文化(グラビア)や撮影会・写真集文化をとおして、アイドルと水着は強く結びつけられてきました。けれども、「アイドルなんだから仕方ないだろ」となし崩しに決めてしまうのは問題です。本人の意思や運営の方針、ファンの期待をすりあわせて慎重に検討し、なかでも本人の意思を一番に尊重して決定されなくてはいけない。また、仮に本人がやりたいと言ったとしても年齢や状況次第では話が変わってくる……はずです。

3.レス

「特別な存在になれたかもしれない・・・・・・」という感覚とアイドル文化は切っても切り離せない。「自分は推しにとって特別なファンになれたかもしれない・・・・・・」「まぁ、そんなこともないか……」という、堂々めぐりに陥ったりするのも、アイドル文化の醍醐味だ。この「特別な存在になれたかもしれない・・・・・・」という感覚を、僕は「選ばれ感」と呼んでいる。ファンはアイドルとのコミュニケーションを重ねてゆくなかで、「選ばれ感」に一喜一憂するのだ。

また、アイドルも頻繁に選ぶ/選ばれることについて語る。「大勢のアイドルがいるなかから、私(たち)のことを選んでくれてありがとう」といった台詞はたびたび耳にするし、実際、アイドルは他のメンバーや他のグループと常に比較されながら活動しているのだ。自分を「選んで」くれていたはずのファンが最近来なくなったと思ったら、近い界隈で活動する別のアイドルを「選んで」楽しそうに推していることをSNSで知る、というようなことは珍しくない。

では、ファンはどのようにアイドルを「選ぶ」のか。理由は人の数だけあるだろうが、「選ばれ感」の有無は重要なはずだ。その感覚を生じさせる鍵が「レス」だろう。
たとえばアイドルがパフォーマンスをしていて、強い興味があるわけでもないが、それをなんとなく観ていたオタクがいたとする。アイドルが彼に指をさし、目を合わせて笑いかけた。笑いかけられたこと自体よりも、フロアに大勢いる観客のなかから「選ばれた」という感覚を得られたこと、それが重要なのだ。

「い、いま俺に向かって・・・・・・笑ってくれた……」

これが「レス」であり、同時に「選ばれ感」の生じた瞬間でもある。そうして、その相手を推すようになる。選ばれた(と感じた)から、選び返すのだ。

「レス」を支えるのは表情だ。アイドル業界には「表情管理」という用語があり、歌や踊りだけでなく、表情変化の緩急やシャッターチャンスをいかにつくるかといった表情のコントロール能力が要求される。どの歌詞を歌うときにどの笑顔を浮かべるべきか、シリアスな面持ちでギャップをつくるタイミングはどこが最も効果的か、こちらにカメラを向けているファンに気がついた瞬間、すかさず最高の表情で写ることができるか。そのように巧みに表情を管理するスキルが、パフォーマンスを支えている。

アイドルは自身の「表情管理」を通して、ファンの感情をコントロールしている。「表情管理」において「管理」下におかれているのは、アイドルとファンの両方なのである。一方は自律的に、他方は他律的に。

管理下におく、というと聞こえが悪いかもしれないが、自分の表情を操作して他者の感情をコントロールするのは日常的な振る舞いだ。理不尽に怒られながらも不満を顔に出さず神妙な顔をつくって相手の怒りをやり過ごしたり、落ち込んでいる相手を穏やかな顔で励ましてリラックスさせた経験があるひとも多いはずだ。

同じように、アイドルが「表情管理」によっててコントロールしている相手の感情は「好意」だ。好きになってもらう、ということに彼女ら/彼らのリソースの多くが割かれている。

こう書くと「アイドルはファンの恋愛感情につけ込んでいる、商売として褒められたものではない」と考えるひともいるかもしれない。しかし、ファンは好きなひとが欲しいのだ。だから「好きになっても良い」ということが、アイドルがファンに対して提供している最大のサービスなのだ。

アイドルとファンの関係は「疑似恋愛」と評され、「あたかも恋人のような関係性を演出している」と理解されることが多い。「恋人のできない人間が、アイドルと接することでその気分を味わっているのだろう」という揶揄があるが、あえてそれに乗っかって説明をすれば、求めているのは「恋人」ではなく「好きでいても良い相手」なのである。

たとえ、周囲に恋愛的な魅力を感じることのできる相手がいないひとや、あるいは周囲の他者に好意を向けることにリスクを感じてしまうひとであっても、アイドルは能動的にこちらを「好きにさせてくれる」し「好きでいることを許容」してくれる。安易に、安全に、安心して好きになれる存在。それがアイドルだ、といえる。

補足4
・実をいうと、この「3.レス」の終盤がこの文章の結論
であり、続く「4.レギュレーション」はおまけ、今後の課題へと繋げる予告のようなものです。

・この文章では、アイドルを「好きでいても良い相手」という役割を有償で引き受けてくれる存在だ、としています。また、そのあり方についてすくなくとも否定的に書いてはいません。現代の若者に認められるとされる、恋愛への消極的な傾向をリスク回避の現れとして理解する立場を取り、そのリスクを軽減したかたちで他者に恋愛感情を抱くことができる機会を創出するようなビジネスとしてアイドル産業を捉えています。けれども、そのような在り方を全面的に肯定できるか、といえばそうではないでしょう。まず、他者から強い感情を向けられることには、当然ながら危険や不安を伴います。さきほど「安易に、安全に、安心して好きになれる存在。それがアイドルだ」と締めました。しかし、アイドルにとって、アイドルという仕事は必ずしも「安易に、安全に、安心」なものではないことは言うまでもありません。もちろん、幸福やそれでしか得られない充実感はあるにせよ。

4.レギュレーション

好きだから何をやっても良い、というわけではない。一般的な人間関係であってもこれは当然の原則だが、ことアイドル現場において「レギュレーション」によってファンの言動は厳しくコントロールされている。現場以外での接近・交流は許されないし、ファンレターやプレゼントは運営によって中身を検閲されている。特典券を購入して会話する際にも「こういった話題は控えてください」と、あらかじめ決められている。こういったレギュレーションを無視すれば注意され、度を越した場合は出入り禁止を通告される。

しかし、好きな相手とのコミュニケーションに第三者が介入したり、あらかじめ「何をしてはいけないか」が明確になっているのは、関係性を良好に維持するうえではむしろ望ましいともいえる。レギュレーションに反すればレッドカードが、仮にレギュレーションに書かれていなくとも、たとえばアイドルに不安を抱かせるような言動が目に余ればイエローカードが出される。通常の人間関係に、こういった便利なシステムはない。もっと不透明で、なにをきっかけに破綻してしまうかわからない。

しかし、破綻の火種を事前に把握できればそれを回避、あるいは育たないうちに除去できる。そのためのレギュレーションだ。少なくともレギュレーションを遵守してさえいれば、アイドルはこちらの「好き」を許容してくれる──もちろん、これは内心でどのように感じているかを保証するものではないが。「許容してくれる」とは「否定せずにいてくれる」ということであり「好意的に受け止めてくれる」ことまでを意味するわけでは決してない、ということは留意しておきたい。

とはいえ、レギュレーションが存在しない一般的な関係性よりは余程わかりやすく、維持しやすい。コミュニケーションコストが低い、リスク回避がしやすい、と言っても良い。

「やってはいけないこと」があらかじめ明示され、それに従う限り相手を好きでいることが許容される空間──それがアイドル現場なのだ。そこでは比較的ローリスクに他者への好意を向けられるし、それを表明することができる。何枚ものラブレターを書き、どこが魅力的かを伝え、「絶対結婚しようなー!」と叫び続けることができる。

だが、アイドルを好きでいると「向こうは同じように好きになってくれることはないのに」「付き合えないのにそんなことして意味あるの?」といった反応が返ってくることもあるだろう。これは「互いの愛情がつりあっていなければ(≒両想いでなければ)幸せではない」という規範──これを「バランスド・ラブ・イデオロギー」(Balanced love Ideologie)と呼びたい──を前提とした発想だ。このイデオロギーは、互いに向け合う好意が同量であるような関係を理想とする。

それにのっとれば、確かにアイドルとファンの関係は理想的とはいえない。ファンがアイドルに100の愛情を向けたとしても、アイドルが同じように100の愛情を返すことはないからだ。大抵の場合、一人のアイドルには複数人のファンがおり、そして一人の人間が他者に割ける愛情のリソースには限界がある。仮にアイドルが、自分に100の愛情を向けたファン全員に、同じように100の愛情を返そうとすれば疲れ切ってしまうだろう。そのため愛情の量は必然的につりあわないが、その不均衡は不幸を意味しない。

誰かに100の愛情を向ける、ということ、そしてそれが許容されるだけで幸福や満足感を得ることはできるからだ。ファンとアイドルの関係性において、バランスド・ラブ・イデオロギーは半ば克服されている。むしろ、そのイデオロギーをファン-アイドルの関係性に持ち込もうとすれば苦しみが約束されている。いわゆる「ガチ恋・リアコ」の苦悩は、たいていここに起因しているはずだ。

このイデオロギーの克服は、いわゆる一般的な恋人関係をも、より自由で幸福なものにするだろう。当然ながら、たとえ恋人同士であっても、互いに同量の好意を向けあえるとは限らない。にも関わらず、現代の恋愛ではバランスド・ラブ・イデオロギーがあまりにも強力であるために、互いの好意がつりあっていないことが、ひどく不幸なことであるかのように感じられてしまう。たとえば、「私は恋人をこんなにも愛しているのに、恋人は私を同じように愛してはくれない」というような苦しみはその典型だ。従来、そのような苦しみはコミュニケーション不全や恋愛観の不一致によるものとみなされてきたが、そうではなく、バランスド・ラブ・イデオロギーを内面化していることが最も大きな原因なのではないか。

そこで、アイドル-ファンのような関係性──好意の量が不均衡なアンバランスド・ラブの実践を提案したい。繰り返すようだが、この関係性においては、一方は相手を好きになること、またそれを表明し伝えることで十分に幸福感を得る。もう一方はそれを許容するだけで良く、同じように好きでいる必要はない。互いに好意自体はあっても、その量がつりあうことは望まない。そのような状態を実現、維持することは困難だからだ。

好意が返ってくることへの希望も、それが叶わないことの失望も共に抱く必要はない。それを恐れることなく誰かを好きになったり、恋人関係を形成することはできる。ひとは誰かを好きになるだけで、十分幸福になれるからだ。極端な話、ひとは片想いさえできれば(くわえて、それを否定されなければ)それでかまわない。好きな相手から、同じように好かれることこそ理想であり幸福だ──というのは、社会的に構築された幻想であり、規範──レギュレーションに過ぎない。

そして、レギュレーションは改訂されゆくものだ。良い現場には常に新しい人々が流入し、パフォーマンスは日々進化する。フロアの熱気は高まり、求められるレギュレーションも変化してゆく。今は「現場」でしか成立していないアンバランスな関係性も、いずれ普遍的なものへと変わるかもしれない。そのような関係性がアイドル-ファンだけのものではなくなったとき、それは新たな「好き」のかたちが確立されたことを意味するだろう。

補足5
・オタクとアイドルの関係を理想化、あるいは定型化しすぎではないか、という疑問が残ります。 

・「「付き合ってるのに片想い」のような関係を苦痛に感じるのは、私たちが「そのような関係性は不幸だ」という思い込みに囚われているからに過ぎない。オタクを見ろ。アイドルのことをあんなに一方的に好きなのに幸せそうじゃないか。あれを普通の恋愛でもアリにしよう」……というのが、「4.レギュレーション」にて書いたことです。とはいえ、前半で書いたとおりアイドル-ファンの二者関係は常に金銭とレギュレーションが媒介しています。それが取り払われた状態で、そんな関係を取り結ぶことが可能でしょうか?

・アイドルの「現場」がいかなるシステムを構築し、そこでアイドルとファンはどのような相互関係にあるか──という問題を考えた先行世代の書き手に、社会学者の濱野智史がいます。いわゆる「ゼロ年代批評」と呼ばれる文章には、ゲームや映像作品を論じるコンテンツ批評、情報環境や権力と環境の関係を論じたアーキテクチャ論、郊外やショッピングモールを題にとって都市論などがありましたが、うち最も後続世代に引き継がれなかったのはアーキテクチャ論でしょう。本記事では「いわゆるゼロ年代批評的な固有名詞」を排しながら、アーキテクチャ論のエッセンス──つまりは面白さ──を引き継ぐことを試みました。そして「アーキテクチャ論を再興」するのであれば、やはりその題材は「アイドル文化」から始めたいですよね。

プロフィール

小阿瀬達基(本文)
編集者、腹話術師。HOTALOOPというアイドルのオタクで、愛瀬あおいというメンバーが好き。

靴紐(ヘッダーイラスト)
イラストレーター、動画編集者。「行動単位そこぬけ」所属。舞台演劇の宣伝美術制作や公演映像の撮影・編集のほか、演出、出演なども担う。


この文章が掲載された同人誌「モトクラシvol.1」は現在、紙版・電子版ともにBoothにて販売中です。

https://t-motokurashism.booth.pm/

それでは、よろしくお願いいたします……。


いいなと思ったら応援しよう!