その日の指先に、私は恋をする。
その日は、季節先取りの暑さであり、私は喉が渇いていた。いつもならば、コンビニでブラックの珈琲を颯爽と買い、ウインクをしながら煙草も吸わないのに、喫煙所の側に近付いていき、女性が美味しそうに煙草を吸っているのを見届けることを、自分の幸せの一つとしているのだが、どうしても我慢が出来なかったこの日の私は、自動販売機の前にいた。
仮にもしここがコンビニで、喫煙所に女性がいるのならば、その日は私にとってのラッキーデイだ。私はずっとそう思って生きている。
女性が煙草を吸う指先は、とても弛緩している。それは日常の緊張がほどけたリラックスの魔法なのか、他人の目を気にすることなく余計な力が抜けて指本来の美しさが際立ち、本来隠しているはずの女性の秘密が透けて見えてくるように確認出来るからだ。
あれは、完全に許している。
普段、なかなか見れるものではない女性の決定的な瞬間の一つだと思っている。本来女性とは秘密の上に秘密を重ねた美しさで出来ていて、それを一枚ずつ脱がす度に美しさがさらに増していくと理解している。
人に完全に心を許し、その心の洋服を脱がすには、下手をすれば一生分の時間がかかってしまうことを知っている。本気で挑まない限り、女性の本当の美しさとは、一生見ることは叶わないのだ。
それが、煙草という魔法の道具を持った途端に、その瞬間は無防備にその心の裸の姿が見られるのだから、これは奇跡の瞬間で大発明だと思っている。これと、同等なことが言えるのは、お酒を飲んだ後の指先だと知っている。ただ、アルコールが作用している指先には、誘われることを前提とした魅惑な指先も存在するので、それはまた、別のはなしになってきてしまう。アルコールが入ると多くの失敗談が出てくるのはそのせいだ。
だからきっと、煙草を発明した人はロマンチックだ。
そんな瞬間の連続と、煙を見上げながら、自然と溢れてしまう、ほんの少しの笑みを浮かべる女性の眼差しを見るのが好きだった。そして、時にその眼差しの奥に、悲しみを帯びた笑みを認めた時などは、言葉では形容しがたい見惚れる美しさになる。
そんな甘さを女性は私に存分に与えてくれるので、私は珈琲はブラックしか飲めなくなった。実はまだ誰も公にはしていないが、世の中の男性で、珈琲はブラックが好きだという理由はこれが一番の理由になる。
私は遂に世界に公開してしまった。
女性こそが甘美なのだ。
これこそが私がコンビニでブラックの珈琲を好んで買う理由なのである。そして、これだけ私が珈琲を飲みながら煙草を吸う女性をセットで見るのが好きなのに、この日はコンビニが近くに存在せず、自動販売機で珈琲を買うことを余儀なくされたのだった。
そばに誰もいない自動販売機で、ブラックの珈琲缶をただただ買う。その行為が、私にとってどれだけの悲しみに満ちた時間なのかは、ここまで語ったのだから、読者には充分に分かっていただけると思う。
私は、横断歩道の前の自動販売機の前にいた。
珈琲を買うことを決めた私は、このブラックの珈琲缶を、いつ、どのタイミングで買うのが一番正しいのかを逡巡していた。
物事には何でも正解が存在する。知らず知らずの正解より、私は求めた先の正解を望む。私はブラックの珈琲缶を買う完璧なタイミングを求めていた。
その間にも横断歩道は、何度も青と赤を繰り返し明滅していた。
私が行き着いた答えは、出来れば私が買うところを女性に見て貰いたいという答えだった。
なぜならば私は、普段コンビニで喫煙をする女性に癒されている。ならば、そのチャンスすら無いこの場所ならば今度は、私が普段の感謝の恩返しに、女性に感動を与える側になるべきではないかと考えていた。
もしかしたら、男性がブラックの缶珈琲を買う姿を見るのが好きな女性がいるのかも知れない。
そう考えると、私の目の前の自動販売機のボタンの明滅は、ベストなタイミングで押してくれと輝きを増したように見えていた。
前方から、一人の女性がようやくやってきた。ふわふわとした素材の淡いクリーム色のスカートに、薄手の黒いトレーナーを着て、その上にブラウンの春ジャケットを着込んでいる。古本屋や、カフェ巡りが好きそうな素敵な女性だ。
女性の年齢を気にしたことがないので、パッと見は分からないが、私にはかなりタイプの女性に見えた。
私の世の中には、かなりタイプの女性か、少しタイプの女性しかいない。
贅沢な世の中だ。
私は、どちらいうと、少しタイプの女性を、自分のかなりタイプの女性に、誘導していき、「気付いたらあなた好みになっていたわ」と言わせてみたいタイプだ。
そういう意味で、最初からかなりタイプの女性は、手強いと知っている。なぜならこの女性は、すでに誰かにとってのかなりタイプの女性だからだ。
ただし、こんなチャンスは、二度と起きないことも知っていた。かなりタイプの女性が、この横断歩道の前の自動販売機に来るころ、信号は、ちょうど明滅し、赤になるタイミングだと計算した。
そのためだけに、私は何度も信号の明滅を見ていたから正確に判断出来た。このかなりタイプの女性になら、私がブラックの珈琲缶を買うところを見て貰いたいと素直に思えた。
私は、かなりタイプの女性が横断歩道で止まるような減速を見せたのを確認してから、注意を惹くように、指先を滑らかに動かしてボタンを押した。
かなりタイプの女性は、私の滑らか指先サインに誘導されて、私の指先を見ている。私はそれを確信していた。これで、恩返しが出来ると思っていた。
その瞬間、自動販売機が当たりを知らせた。
一瞬何が起こったのか分からなかったのだが、自動販売機は、今まで見せたことのない表情で明滅している。
これは、私達の予祝かと感じた。
「当たった」
私が無意識で言葉に出したおかげで、かなりタイプの女性は、完全に私に向けて意識を集中した。私はこの瞬間に、これは信号が青になるまでの時間と、自動販売機の当たりの時間が解除になってしまうまでの、時間的シンクロを同時に感じていた。つまり一生で今しか、私達二人の共通の時間は存在しないと確信した。
ここまで、ほんの数秒なのだが、私の頭の中はフル回転していた。
「何か飲みます?珈琲飲みたかっただけなんで」
私史上、一番違和感なく、かなりタイプの女性にウインクしながら、話し掛けることが出来た台詞になる。
「え。じゃ、わたしも同じ珈琲で」
かなりタイプの女性は、断る素振りも見せずに、私に誘導された質問に素直に答えていた。彼女自身も、この時間は二度と訪れないと知っていたのだろう。
私は、もう一度同じボタンを押そうと思ったのだが、今度はかなりタイプの女性にボタンを押して貰った。その指は、押すことを知っている指であり、ボタンも押されることを知っているボタンに見えて、お互いに喜びあい、どこかが繋がったように明滅していた。
私は、かなりタイプの女性と肌が触れそうな距離にいて、この距離に近付けたのなら、白い春ジャケットの下が、黒いタンクトップだったら、その素肌を知れてもっと嬉しかったのになと感じていた。
かなりタイプの女性は、珈琲をしっかり取り出し、優しく指先を意識して握りしめながら、信号が青になるのを待っていた。やがて信号は青になり、かなりタイプの女性は、私の方を振り返り、その日一番の笑顔で、私にこう囁いた。
「お兄さん、きっと良いことありますよ」
「もう、あったよ」とは伝えずに、彼女が横断歩道を渡りきるのを見届けてから、私は心の中で「じゃ、一緒に飲みますか?」と語りかけていた。
横断歩道は、とっくに赤だった。
私は、進むのを止めた自分を褒めながら、私にしか出来ない方法で、自分の道を進もうと歩き始めた。
すぐに、友人へ向けてこの興奮を全世界に向けて発信した。
私の世界は、こうして回っている。
そして、あわよくばこの記事を読み、私があの時のあなたのかなりタイプな女性です。と、見つかることを願っている。
マイトン‼今自販で当たってお姉さんに一本あげたのよ‼「お兄さん、きっと良いことありますよ」って言われた。そんな返しある?「じゃ、一緒に飲みますか?」て心の中で盛大にカッコつけて囁いた。届かない声しか喋れなかった。ドキドキ止まらない。
— コニシ 木の子 (@kdcmoto2) May 1, 2025
なんのはなしですか
この日以来、二十数年禁煙していた煙草を解禁することにした。
今度は私が魅せる番だ。
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