見出し画像

私はもう、真ん中にいなくていいーー命のバトンが渡った日。私は家で待っていた。


「今週、計画出産になります。
お母さんは、お家で待っていてください。 頑張ってきますね」

そうお嫁さんからLINEが来たのは、夏の太陽が痛いくらいの日。
いよいよ、産まれるのね、と私までドキドキしていた。

家にいてと言われても。。
近くの駅までこっそり行きたいけどお嫁さんになんて思われるかな。

本当は、私も病院に行って 息子とお嫁さんと一緒に、その時を迎えたかった。

初めての孫の誕生。
落ち着かないし、 何かあったらすぐに駆けつけたい。

息子が立ち会う出産だと聞いて、それでも母心は落ち着かなくて。

息子の昼ご飯の用意は?
休憩する時変わってあげたい。
足りないものはないかな?

できることがあるなら、何でもしたい。そんな気持ちでその日を迎えた。

でも、私が実際に当日したのは——病院近くの駅にも行かずに、離れた自宅で、その時を待つこと。

花の水やりや、部屋を整えること。いつものルーティーンをいつも通りに過ごした。

若いふたりにとっての、 新しい家族の誕生を静かに見守ることにした。

「そばにいてあげたい」
「何かしてあげたい」

そう思う一方で、
「今は、私が入っていくところじゃない」そんな気持ちもあった。

私達が子供を産んだ頃は、産院に両親が駆けつけてロビーでその時を待つ、なんてこともあった。でも今はほぼ、夫以外は病院に入ることは許可されない時代。

少し前の私なら、 この感覚を「寂しい」と感じていたかもしれない。 家族の中心から、 一歩外に出たような疎外感。 もう私は必要ないのかな、なんて思ったかもしれない。


卒母とは、真ん中を譲ること


でも実際に、待つことをしてみると、不思議と今回は寂しくなかった。
むしろ、 ああ、私は本当に役目を果たしたんだな。
そんな気持ちがした。

息子はもう、 私が守る子どもではない。大切な人と家庭をつくり、次は自分たちが、新しい命を迎えようとしている。

私はもう、その真ん中にいなくていい。

駆けつけたい気持ちは、母として息子を助けたいと思う愛情。でも、それはもう、必要ないとわかった。

卒母とは、真ん中を譲ることなのかもしれない。

待つことは、任せても大丈夫という信頼の気持ち。そして、何よりお嫁さんを、赤ちゃんを信頼した。きっと大丈夫。

今日という日を迎えられた息子も誇らしくさえ感じた。

これから始まる育児も、 できるだけ口出しせず、 二人に任せたい。 そう思っている。

そしてついにその日の夜。 無事に女の子が生まれた。

息子からのLINEの知らせに、安堵と、よく頑張ったねとお嫁さんへの感謝と、何か私の中で本当に終わったという感覚があった。

母もこんな気持ちだったかも


そしてこの時に浮かんだのが、 母もこんな気持ちで、 親になっていく私達を見守ってくれていたんだろうな、ということ。

これまで私が伝えてきたのは、 子離れの寂しさとの向き合い方や、 実母との関係から自由になることだ。

でも今回の経験をとおして、 「卒母」について伝えたいことが、 また少し広がった気がしている。

それは——

私達は母として、 確かに命のバトンを繋いできたのだということ。
そして、もう私達は真ん中にいなくてもいいということ。

私は母になってから、 子育てでの苦労、あの時こうすればよかったという後悔、こんなことをしてしまったという罪悪感。そんな思いで押しつぶされそうになった時もあった。

でも、大人になった子供達から返ってくるもの。

それは、母として生きてきた時間は、後悔や罪悪感も含めて、丸ごと全部、これでよかったんだ。そう思える瞬間なのかもしれない。

そして、その時はじめて、 産んで、育ててくれた母に。子育てを手伝ってくれた義母に。心の底から、感謝できる。 そんな気がする。

子離れの辛さを乗り越えた先の、そのまた先に、こんな景色が待っているなんて、正直、思いもしなかった。

母って素晴らしい!
そう思いませんか?


いいなと思ったら応援しよう!