【#17】 もしも僕がラジオをやっていたのならこんな曲を流すだろう 2025年10月27日(月)放送回
これは何?
これは、
大して話すことは無いけど、
流したい曲はある僕たちがお送りするラジオ
『もしも僕がラジオをやっていたならこんな曲を流すだろう』です。
このラジオの画期的で既存のラジオと大きく違うのは文字媒体であるという点です。
このラジオでは今日聞いた曲や
今日誰かにオススメしたかった曲を集めて流します。
今回だけは少し話したいことがあるので、長々と話します。
嬉しいニュースがまずこれ

期待を込め、熱賛ー
ヤングマガジン月間賞8月期でTOP賞と松本先生のお墨付き?の松本賞を頂きました。
本当に嬉しい。
同時にホッとしてます。
今回話すのは、この嬉しいニュースに至るまでの色々です。
そもそも何故漫画なのか?
僕のことを高校生くらいから知っている人は、
僕が何者か説明するときに、
おそらくバンドマンやら、DTMerなど、音楽に関する人だと説明すると思います。
僕は高校から軽音部に所属し、大学は芸術教育学科の音楽コースに進学しました。
その大学を中退してからはネットに音源をアップロードしていました。
さらに就職した先も音楽雑誌の編集部でした。
音楽漬け。
ローンを組んでまで楽器を買ったりもしてました。
とまあ音楽こそが自分のアイデンティティであり、
特技であり趣味であり、また自信の根拠でした。
しかし、その自信というものは同時に劣等感としても存在しました。
投稿を始めたキッカケは20歳の誕生日。
音楽やCGを作っている友だちが、自作のピクセルアート動画に自作の曲をBGMとして使っていて、20歳までの集大成として投稿していました。
同年代の中では特別尊敬していた友だちが投稿したそれは、
感動と恐怖の両方がありました。
感動、もちろんクオリティの高さに感動しました。
恐怖、これは、「僕はこんな風に自分の人生を説明する事は出来るのか?」というものでした。
僕はその時点で作曲や弾き語りはしていましたが、作品を人に見せられるクオリティに仕上げたり、自分の人生の集大成というようなものを作ったことが無かったのです。
朝から晩までマイクラをして、たまに弾き語り動画を録るだけ。
音楽家、とはとても呼べないレベルの活動でした。
友だちの誕生日が6月で、僕の誕生日が8月だったので、この2ヶ月で何かを完成させよう。そう考えました。
結果はというと、
普通に作れませんでした。
曲は作れたけど、納得出来るようなものではありませんでした。
死ぬほど悔しくて、焦りました。
僕の人生はこれからもずっと、何も完成させないで終わる気がしました。
コロナ渦もあり、閉塞的な環境の中、その焦りは凄まじかったのを覚えています。
何者でもないまま20歳になり、何も自慢できる事が無い。
楽器が好きなだけの人。
それから2ヶ月くらいずっと何かを作ろうとしては上手くいきませんでした。
それでも作ろうと迷走し続けた結果、
とある作品が完成します。
https://www.youtube.com/watch?v=hegEpDpdVpY
有栖川コドク「ウヅ」
不気味な映像と、
支離滅裂でありながら意味がありそうな歌詞。
当初の目的は、
deep webから発掘された変な動画みたいなものを作ることでした。
曲のタイトルは本当に無意味で、とにかく再生されるキッカケになれば何でもいいという感じで付けたのを覚えています。
ユーザー名も、投稿した当初はたしか設定していなくて、
ユーザー名もウヅだったと思います。
その後、キッカケは忘れてしまいましたが
頭にポンと浮かんだ「有栖川コドク」と名乗ることにしました。
今思うとアイカツの有栖川おとめの語感とほとんど同じなので、無意識の裏にはアイカツがあります。
ニコニコ動画には有栖川コドク以前にも何度か投稿したことがあるのですが、どんなに頑張っても13回再生とかそんなもんで、コメントなんか貰った事がありませんでした。
ウヅに関しては、とりあえず目に付けば再生されるという自信があったので、
ニコニ広告を使って初速をブーストしました。
すると今まで見たことのない、夢の1000回再生を突破し、コメントが付きました。

その後も奇跡が続き、
この曲をキッカケとして有栖川コドクは動き出しました。
1曲目からファンアートを貰ったり、とにかく革命的な出来事の連続でした。

今見るとびっくりするくらい急激に再生されてる。
当時、1万再生なんて夢のまた夢でした。
飽きられちゃまずいと思い、そこからは月に2曲ペースで曲とMVを制作し投稿していました。とにかく飽きられるのが怖かった。
そこから作曲に思想というか、自分の考えを反映させるという事に苦労しつつ、言葉の弾みだけで曲を作ることを封印し、
できるだけ人の心に残るように、そして自分の今までの弱さと決別しようと思って作った曲がこれです。
有栖川コドク「伽藍東京」
この曲はアルバムのタイトルにしたくらい思い入れがあります。
ものすごい焦りの中、
本当にご飯を食べる時間も惜しんで、
移動する時間にもノートパソコンで作業をして仕上げました。
映像も夜中に歩道橋で自分で撮影してつくりました。
とにかく時間が過ぎていくのが怖くて、何かを作らないとという脅迫的な生活の中で完成したこの曲は僕といろいろな人を繋いでくれるキッカケになりました。
この曲周辺で出会った人たちは今でも友だちです。
本当に作ってよかった。
僕の中に眠ってた内なる怒りや劣等感、攻撃性、全てを出し切ってしまったという恐怖すらありました。
もう曲が作れないかもしれない。
そう思いました。
でも、動き続けてる限りそんなことありませんでした。
作ろうとする意思そのものに囚われ、苦しみ、限界を迎えた先で曲ができました。
空が明るくなるまで外を練り歩いたり、
こんな苦しい思いをするくらいならもう前回の出し切った曲を遺書として死んでしまおうかと思うほど追い詰められて作りました。
苦しみの集大成。
寝てる時も起きてる時も悪夢みたいでした。
それがそのまま曲になり、僕をまた救いました。
この曲にファンアートを描いてくれた人が居て、
本当に心の底から嬉しくて、
この曲もまた新しい友だちが出来るキッカケになりました。
このあたりから僕は音楽が人生の中心で、
僕を助けるのも苦しめるのも全て音楽だと思っていました。
しかし、確かに助けるのは音楽で間違いなかったのですが、
苦しめる要因が増えました。
コロナ禍、
様々な憶測や陰謀が渦巻いていました。
家族が取り返しのつかないレベルで陰謀論に飲み込まれ、
僕の安心できるはずだった家は地獄と化しました。
更に当時付き合っていた人の棘のある言葉や、
僕そのものを否定するような言葉に
トドメを刺される直前まで追い詰められました。
家にも恋人にも安心出来るところが無くなりました。
僕の味方は僕と曲を聞いてくれる人だけになりました。
でもリスナーは曲を上げなければ離れていきます。
「作り続けなきゃ飽きられる」
「家族がおかしくなってしまった」
「将来の全てが不安」
「恋愛も何もかも上手くいかない」
時間が止まってくれればいいのにと心の底から思いました。
もう死んでしまおうと何度も思いました。
もしくはコロナがもっと猛威をふるって全員死んだらいいと思っていました。
そんな状況に、僕なりに対抗する手段はもちろん音楽しかありませんでした。
有栖川コドク「されど悪魔の掌の上」
こんな曲ができました。
諦めの境地。
全てまっさらになればいい。
会話が意味を為さないのなら、音楽で伝えるしか無い。
僕の生き様を、心の声をここに残して死のうと思いました。
このあたりに作った曲に悪魔というタイトルが使われたり、
やけに終末的な、ヤケクソな感じがあるのは僕が限界だったからです。
しきりにじゃあねと繰り返すのも全てそれです。
悪魔シリーズの2曲目は
ほんの少し調子が良かったのか、疲れ切ってしまったのか、
寄り添うことを辞めて、突き放すような曲になりました。
心が折れそうになり、
怒りの炎すら灯らなくなった自分を鼓舞するような、
そんな怒りの声がこの曲です。
でもそこから色々あり、僕は限界になりました。
恋愛を通じて分かる大人の気持ち悪さ、強烈な違和感。
大人になるということへの拒絶。
自分の将来について考えるのが怖くなりました。
上手くいくだろうなというルートも存在しました。
でもそれは僕の中で死んでいるのと同じくらい嫌な大人のなり方でした。
どこにも味方がいない。
誰も助けちゃくれない。
そう思って遺書を書こうと思いました。
またこれかと思うかもしれませんが、
当時は本気でした。
ただそれを言葉として吐き出すのはあまりにも品がないと思い、
最後の反抗心で曲を作りました。
首をくくる前、
最後に作った曲がこれです。
この曲を完成させてから数日後、
僕は人生で初めて首を吊りました。
結果は失敗。
誰に止められたわけでもありません。
ドアノブにベルトをかけて、首を括り座り込む形で体重をかけました。
すーっと意識が無くなる感覚がして、
頭と背中が冷たく感じました。
そこで急に怖くなり、
命の軽さを理解しました。
悩んでいる事が全てどうでもよくなりました。
こんなに簡単に捨てられるのなら、
本当に好き勝手してから、どうしようもなくなったときの切り札にしようと思い、以来死にたいという気持ちが湧くことは無くなりました。
逆に、自分はもう命を捨ててしまったという感覚だけが残りました。
もうどう生きようが、どう死のうが関係ない。
何をするのも怖くない。、と無敵になりました。
分かりやすく金遣いが無茶苦茶荒くなり、
人生設計という言葉も吹き飛びました。
(今もその延長線を歩いているので、中々ヤバい)
そんな中
新しく出来た恋人は僕の人生を変えました。
心の底からの安心をくれました。
ただただ生きていること全てが楽しくて、
そこからしばらくは恋愛の曲つくりました。
これは僕の恋愛観の集大成だと思います。
この曲の中に全部込めました。
多分これ以上の恋愛に関する曲は作れないと思います。
これ以降の楽曲は、
かなり手癖だけで作っているような、
中身になる主張が無い曲ばかりに思えます。
初期衝動を失い、曲を作るという意思も薄れていきました。
曲なんぞ作らずとも人生は素晴らしい。
そう思えたときから創作は趣味に成り下がりました。
人生そのものだった創作が必要不可欠では無くなりました。
しばらくは。
そう、
しばらくすると自分の自信の根拠が怪しくなりました。
曲が作れるという自分の唯一の強みがなくなってしまい、
誇れる特技が無くなりました。
時期で言えば就活が始まり、
音楽を適当にやりつつ、立ち行かなくなったら死のうという生き方から、少しづつまともな道に戻りつつありました。
そんな中で作った曲。
この曲を作ったことで改めて僕は創作がしたいんだと気が付きました。
僕は自分の創作物が認められて、それに感想をもらったりするのが好きなんだと気が付きました。
気がついたのはいいものの、
僕は気づいたら社会人になっていました。
あえて社会人になっていたと表現するのは、
責任感も実感も無く、時の経過と共に社会人という立場になっただけだから。
学校の用意した説明会に参加し、素直に手続きを踏んで、
得意の口の上手さだけで面接を突破し社会人になりました。
いわば嘘つきです。
反射神経ゲームの要領で、相手の欲しい言葉を出すだけ。
本当にノリだけで社会人になりました。
1日座ってパソコン触ってるだけで30万円も貰えました。
何の手応えもありませんでした。
でも、何となく適当に生きることにも慣れていました。
お金もらえるし…みたいな。
多分思いのほか簡単に物事が運ぶことで、
完全に社会を舐めていたと思います。
ごっこ遊びしてりゃ将来の不安なんて無くなるんだなって思ってました。
そんな時、
僕の大好きなバンド、NEEのGt.Voの「くぅ」が25歳の若さで亡くなりました。
一度受け入れたはずの「人が死ぬ」という呆気なさが、
今更強烈に降り掛かってきました。
あんな大天才が夢半ばで死んでしまうという事が、
今まで眠ってた創作者としての僕を蘇らせました。
何よりも「成し遂げず死ぬ」というのが怖いと思いました。
僕はそれなりに自分の活動に納得していた、つもりでしたが、
心の底ではもっと売れたい、知られたいという気持ちを隠していました。
僕はもっとやれる。
まあでもそこそこ伸びてる曲もあるし…
みたいな感じになっていました。
とはいえ、音楽に関する活動にはもうやり切ってしまったという感覚がありました。
ずっと夢だったバンドでのライブも叶え、もう満足していました。
それに加えて、音楽雑誌の会社にいるうちに、
音楽そのものへの拒絶反応がありました。
これはなんでなんだろう。
不思議と音楽、機材、どんどん熱は冷めてました。
そこでふっと湧いた夢。
「漫画家」
ちょっと文字数多すぎるので、続きは明日書きます。
今日のプレイリストは、
僕を支えた応援歌たちです。
