掌の線 第四章 箱島
加布里湾の岩塊の上に建つ料亭の廊下は、冬の夜の底のように冷たく、そしてどこまでも黒かった。
おりょうは、膝をついて、力任せに雑巾を走らせていた。使い古された布がキシキシと音を立てる。その音を聞くたびに、胸の奥に溜まった澱(おり)が、苦い味となって喉元までせり上がってくる。
「……福岡なら、こんなことしなくてよかったのに」
恨み言が、白い息とともに闇に消える。
半年前、唐津の浜崎にある貧しい漁村を出る時、紹介の男は確かに言ったのだ。「これからは福岡の時代だ。お前のような器量よしは、都会のモダンな店で揉まれた方がいい」と。おりょうは胸を躍らせた。まだ見ぬ蓄音機、カステイラ、そして断髪のモダンガールが闊歩する中洲や天神。自分もいつか、更紗の着物を着て、カフェの丸椅子に座るのだと信じて疑わなかった。
だが、汽車を降りて歩かされた先は、福岡市街どころか、故郷と同じような潮の香りが漂う糸島の端っこ、加布里であった。箱島という、海に突き出した巨大な岩の上にへばりつくように建つ料亭。そこがおりょうの新しい「城」だった。
「おりょう、まだ終わらないのかい。手が遊んでいるよ」
背後から、衣擦れの音とともに、女将の低い声がした。鈴を転がすような、けれど逃げ場のない冷徹な響き。おりょうは慌てて背筋を丸め、再び雑巾を動かした。
「女将さん、もう十分でしょう。誰もこんな足元なんて見てませんよ。みんなお酒を飲んで、歌を歌って、どんちゃん騒ぎしてるだけじゃないですか」
都会へ行けなかった悔しさが、言葉の端々に棘となって滲む。女将は怒る風でもなく、ただ廊下の端に立ち、漆黒の板の間を見つめている。
「誰も見ていない、ねえ。あんたの目は、福岡の活動写真でも追っているのかい。この島に来て半年、あんたはこの廊下の本当の顔を一度でも見たことがあるのかい」
「顔だなんて。ただの古い木板じゃないですか」
「そうかい。それじゃあ、あんたはまだ、この料亭がなぜ『箱島』にあるのか、その理由を知らないんだね」
女将のしつけは苛烈を極めた。着物の裾さばき一つ、膳を置く指先の角度一つまで、少しでも隙があれば容赦のない叱責が飛ぶ。おりょうは時折、わざと乱暴に雑巾を絞り、福岡への未練をぶつけるように廊下を拭き上げた。
宴が引けた後の深夜。客たちの笑い声も、三味線の残響も海風にかき消され、ただ波の音だけが岩肌を叩く時間。女将は、おりょうを月明かりが差し込む長い回廊の入り口へと呼び寄せた。
「ほら、そこへ跪いてごらん。一番低いところまで頭を下げるんだ」
おりょうは不審に思いながらも、言われるがままに、今しがた自分が磨き上げたばかりの冷たい床に顔を近づけた。
鼻先に、磨き上げたばかりの蝋の匂いと、古い木の香りが漂う。
「もっと下げな。這いつくばるんだよ。地べたを這う者にしか見えない宝があるんだ」
おりょうが、雑巾がけをする時よりもさらに低く、床に額を寄せるようにしたその瞬間だった。
「……っ!」
言葉を失った。
暗いと思っていた廊下の奥。漆黒の海のように磨き抜かれた床の果てに、夜の闇を裂いて、真っ逆さまの山の姿が鮮やかに浮かび上がっていた。
外の夜空にある本物の可也山よりも、その漆の中に映る「逆さ富士」は、鋭く、清らかで、吸い込まれそうなほどに深い藍色を湛えていた。それは、実体を持たない幻影のはずなのに、何よりも重々しく、そこに存在していた。
「これは……」
「客人はね、座敷に座って酒を飲む。だから、この景色には気づかない。立ったまま歩く私たちも、普段は見落とす。だがね、おりょう」
女将の声が、静かに頭の上から降ってくる。
「これはね、毎日這いつくばって、汗を流して、この床を磨き上げた女たちだけが、一日の終わりに拝めるご褒美さ。あんたが今日、手を抜かずに磨いたから、山が降りてきてくれたんだよ。都会のカフェに、自分たちの血と汗で呼び寄せる山があるかい?」
おりょうは、床に映るその幻のような稜線から目を離せなかった。
福岡の蓄音機も、カステイラも、ここにはない。だが、誰にも知られず、この料亭で働く女たちだけが独占している、磨き抜いた「黒」の中にだけ現れる聖域。
おりょうの掌のひび割れも、都会への行き場のない未練も、その冷たい床に映る山の美しさに吸い込まれて消えていくようだった。
「この山はね、見る人の心で姿を変えるんだ。不満を抱えて拭けば曇り、覚悟を決めて磨けばこうして鏡になる。おりょう。あんたがここを去る時、その景色を次の子に胸を張って見せてあげられる、そんな女になりな」
女将はそれだけ言うと、満足げに微笑み、闇の向こうへ去っていった。
おりょうは、一人で廊下に這いつくばったまま、逆さまの可也山を見つめ続けた。
かつて、この地で重油にまみれて機体を磨いた男がいたことも、泥だらけの雑巾を絞った稚児がいたことも、おりょうは知らない。だが、彼女が今、汗を拭いながら見つめているこの稜線は、間違いなく彼らが仰ぎ見たものと同じ形をしていた。
自分が磨いたから、山が来た。
その確かな手応えが、彼女の冷え切っていた胸を、じんわりと温めていく。
都会へ行けなかった少女の「拗ね」は、いつの間にか、この山を一番近くで見守っているという密やかな誇りへと変わっていた。
静まり返った箱島に、潮が満ちる音が響く。
浮かれた時代の足音も、一人の少女の小さな背伸びも、その稜線はすべて等しく受け入れ、静かに横たわっていた。
可也山は今日も美しい稜線で空と大地を分けている。
