掌の線 第三章 前原
街道を埋め尽くす砂埃は、一刻として止むことがなかった。
おもよは茶屋の店先で、使い古された布を何度も机に走らせていた。どれほど磨いても、次の瞬間には白く細かな土埃が薄く積もっていく。机をなぞる指先に伝わる、この微かな「ざらつき」こそが、今の前原の正体だった。
文禄の役が始まって以来、この宿場町は異様な熱気に浮かされていた。
肥前名護屋の陣城を目指す軍勢は、街道を濁流のように西へと流れ続けている。金銀をあしらった派手な兜や、虎の皮を纏った槍。だが、おもよの目を釘付けにしたのは、それら煌びやかな武士たちの背後に続く、地味で、膨大な数の影だった。
それは軍勢の糧食を運び、馬の世話をし、道なき道を切り拓くための「陣夫(じんぷ)」と呼ばれる男たちだった。
「おもよ、手が止まっとるよ! ほら、水を瓶に足しておかんね」
奥から母親の焦ったような声が飛ぶ。おもよは「わかっとうよ」と短く返し、井戸から汲み上げたばかりの水桶を抱えた。
店先に並べられた水桶には、すでに砂が混じり、水面が濁っていた。
ザッ、ザッ、と草鞋が乾いた土を蹴る音が、絶え間ない地鳴りのように響く。時折、鎧の小札(こざね)が触れ合う乾いた音や、馬の激しい鼻息が混じるが、それ以上に耳に付くのは、重い行李を背負わされた男たちの、肺を絞り出すような喘ぎ声だった。
行列の端、泥にまみれた陣夫たちの中に、その顔はあった。
隣村の幼馴染、作次郎だった。
おもよの心臓が、喉元まで跳ね上がった。作次郎は、自分の背丈ほどもある大きな荷を背負わされ、肩の皮が剥けて赤黒く染まっている。
「作ちゃん」
おもよの声は、通り過ぎる無数の足音にかき消された。作次郎は立ち止まらなかった。立ち止まれば、背後の流れを止め、槍の柄で打たれることを知っている。
彼はただ、おもよの視線に気づくと、一瞬だけ足を緩め、渇いた唇を震わせた。
「……おもよ」
それだけだった。言葉を重ねる余裕など、彼には残っていなかった。
おもよは咄嗟に、手桶の水を差し出した。作次郎は足を止めぬまま、差し出された手桶に顔を埋めるようにして水を一口啜った。溢れた水が泥だらけの胸元を濡らし、一筋の清らかな線を引いたが、それもすぐに砂埃に覆われていった。
作次郎は一度も振り返らなかった。
重い荷を揺らし、ただ前を行く男の背中を追って、西へ、西へと歩いていく。
おもよは、差し出したままの手桶を握りしめ、遠ざかる作次郎の背中を見つめ続けた。自分たちは戦をしない。刀も持たない。だが、自分たちの愛した者たちの体は、まるで使い捨ての薪のように、あの巨大な軍勢という火の中に投げ込まれていく。
おもよは、泣き出しそうになるのをこらえ、激しく机を拭き始めた。
磨いてやる。作次郎がいつ帰ってきてもいいように。この机だけは、あの砂埃に汚させはしない。だが、拭えば拭うほど、新たな土が積もっていく。まるで、誰かの野望という抗いようのない力で、自分たちのささやかな未来が少しずつ埋め立てられていくのを止められないように。
ふと顔を上げた。
騒がしい喧騒の向こう、遥か西の空に、可也山がそびえていた。
あの山は、作次郎が今まさに踏みしめている苦しみも、おもよの胸の張り裂けそうな想いも、すべて知っているはずだ。かつてこの街道を通り過ぎた無数の命を、ただ黙って見届けてきたのだから。
山は、ただそこに立っている。
天下が入れ替わろうと、海を渡った者たちが帰らぬ人になろうと、あの稜線だけは一寸も揺らがない。その不変の姿が、今のおもよには、冷酷な突き放しのようでもあり、同時に「いつかすべては過ぎ去るのだ」という、唯一の救いのようにも感じられた。
やがて、軍勢の終わりが見えないまま、日は西に傾き始めた。
長い、長い山の影が街道に伸び、不気味な軍勢も、絶望に暮れる人々も、すべてを闇の底へと等しく沈めていく。
おもよは、泥に汚れた布をぎゅっと絞り、最後にもう一度だけ机を拭った。
激動の時代の只中にありながら、決して揺らぐことのないその巨大な影は、今夜もまた、人々のささやかな願いを飲み込みながら、静かに空と大地を分かとうとしていた。
可也山は今日も美しい稜線で空と大地を分けている。
