掌の線 第一章 船越
横田一等整備兵曹は、瑞雲のフロートにこびりついた乾いた塩を、ぼろ布で力任せに擦り落としていた。
海水を被り、灼熱の太陽にさらされた機体は、放っておけばすぐに錆に食われる。金属同士がこすれる「キィッ」という乾いた音が、静かな入り江に響いた。横田は、手のひらに食い込むボルトの感触と、鼻を突く重油の匂いの中にいた。彼にとっての戦争は、華々しい空中戦ではなく、この油まみれの指先と、言うことを聞かない古いレンチとの格闘だった。
「よう、横田。精が出るな」
頭上から声がした。杉本士長が、飛行帽を首にかけたまま風防の縁に腰掛けている。横田と同じ二十歳の、まだ少年のような幼さが残る顔だ。
「杉本か。お前、さっきの着水、少し乱暴だったぞ。フロートの支柱にガタがきてる」
「悪かったよ。だが、あの高度から降りてくるとよ、どうも感覚が狂うんだ」
杉本は煙草をくわえ、火をつけずに可也山を指差した。
「なあ、横田。空の上から見ると、あの山はただの緑の塊じゃない。海に突き出した、巨大な道標だ。小倉の方へ行く時も、長崎の方へ回る時も、俺たちはあいつの形を追いかけて飛ぶ。山が見えると、『ああ、今日も帰ってこれた』って、腹の底から安心するんだ」
杉本は笑い、まだ火のついていない煙草を耳に挟んだ。
「お前も一度、翼に乗ってみりゃいい。地べたでレンチを回してるだけじゃ、この山の本当のデカさはわからんぞ」
「俺は地べたがいいよ。山は、ここから見上げるくらいがちょうどいい」
横田はぶっきらぼうに応じ、再びフロートの下に潜り込んだ。
横田にとって、可也山は「不動の基準」だった。
整備が煮詰まった時、ふと顔を上げれば、そこにはいつも同じ形の稜線があった。船越の基地を包み込むような、巨大な、動かぬ壁。それがそこにあるだけで、明日もまた、同じように整備をし、杉本が文句を言いながら帰ってくるのだと信じられた。
その日の夕刻も、横田はいつものように波止場に立っていた。
杉本を乗せた瑞雲は、定刻に哨戒へと飛び立っていった。エンジンは絶好調だった。横田が完璧に調整した。あとは、可也山の裾野をなぞるようにして帰還する銀色の機体を待つだけだ。
太陽が沈み、可也山のシルエットが深い紺色に染まっていく。
横田は、油で汚れた自分の掌を見つめた。爪の間に入り込んだ黒い重油の匂いは、どんなに洗っても落ちない。この匂いこそが、自分がここで生き、機体を送り出している証だった。
潮が満ち始め、波の音が少しずつ大きくなっていく。
遠くで、小さな波紋が岩を打つ音がした。
横田は、いつまでも静かな空を見上げていた。杉本が語った「道標」は、今もそこに毅然とそびえている。だが、その指標を頼りに戻るべき音は、どこまで待っても聞こえてこなかった。
夜の帳が、静かに糸島の海を塗り潰していく。
横田は、手に持っていたぼろ布を強く握りしめた。
杉本が愛した空も、自分が踏みしめるこの湿った大地も、闇の中では等しく静寂に沈んでいる。山は、その境目にただ沈黙して立っていた。
可也山は今日も美しい稜線で空と大地を分けている。
