掌の線 第二章 雷山
板の間に膝を突き、雑巾を走らせるたびに、節くれだった木肌が楠丸の掌を容赦なく削っていく。
日の出前の雷山は、深い霧の底に沈んでいた。千如寺の回廊は、吐く息が白く凍るほどの冷気に満ち、使い古された雑巾から滴る水は、楠丸の指先から感覚を奪い去っていく。
「……痛い、な」
ひび割れた指先から滲んだ血が、濡れた床に薄く赤い筋を引いた。楠丸は慌ててそれを拭き取る。この神聖な講堂の床を汚すことは、そのまま仏への不敬に繋がる。その恐怖が、肉体の痛みよりも先に楠丸を動かしていた。
楠丸は、自らの出自を知らない。
物心がつく前に、この山門の前に捨てられていたという。親の顔も、生まれ育った村の景色も、何一つ記憶にはない。ただ、師から「お前の前世が、いかに深い業を背負っていたことか」と聞かされるたびに、楠丸の胸には言いようのない暗い塊が居座るようになった。
当時の人々にとって、親に捨てられ、孤独な身の上であるということは、単なる不運ではなかった。それは、前世で犯した測り知れぬ罪の結果――「宿業」そのものだったのである。
「私は、何をしたのだ」
雑巾を走らせながら、楠丸は問い続ける。
人を殺したのか。親を裏切ったのか。あるいは、神仏を呪ったのか。
覚えのない罪の重さに押し潰されそうになり、楠丸はただひたすらに床を磨く。磨き続ければ、いつかこの魂の汚れも落ちるのではないか。そう信じることでしか、彼は自分を支えることができなかった。
「楠丸よ。手が止まっているぞ」
背後から、低く、重厚な声が響いた。
師の覺圓である。楠丸は反射的に頭を下げた。覺圓は、厳しい戒律で知られるこの寺にあって、一際抜きん出た学僧であったが、楠丸のような稚児に対しても、一切の容赦をしない男だった。
「申し訳ございません。……ただ、自分の業の深さを考えておりました。磨いても、磨いても、私は親も知らぬ忌むべき身。この床を汚しているのは、私の存在そのものではないかと思えてならぬのです」
覺圓は楠丸の横を通り過ぎ、西に開けた縁側の方へと歩みを止めた。
霧がわずかに晴れ、眼下には糸島平野が広がっている。遠く、入り江の向こうには、可也山が静かにそびえていた。当時の可也山は、今よりもずっと海に突き出し、周囲を泥深い干潟と海に囲まれた「孤島」のような風情を湛えていた。
「楠丸、あの山を見よ」
覺圓が指し示した先には、朝陽を浴びて、神々しいまでの緑を湛えた可也山があった。
「空海様がかつて、あの山を『蓮華の花』と仰ったという。蓮華は、美しい庭園の池に咲くのではない。足も取られるような、臭く、濁った泥の中に根を張って咲く。あの山もまた、この泥深い大地から立ち上がり、天に向かってその姿を誇っている」
「……蓮華、でございますか」
「左様。楠丸よ、お前は自分の親を知らぬことを、前世の罪だと言う。だが、見方を変えれば、それはお前を縛る縁(えん)が何一つないということだ。親への執着、家名への執着、それら一切から切り離されてこの地に在る。それは、濁世という泥の中にありながら、泥に染まらぬ花を咲かせるための、仏から与えられた試練ではないのか」
楠丸は顔を上げ、遠くの稜線を見つめた。
師の言葉は、慈悲というよりは、冷徹な理(ことわり)として楠丸の胸に刺さった。
「親がいないことを嘆く必要はない。お前は、お前という一粒の種として、この雷山の土の上に、今、確かに咲こうとしている。その命の営みそのものを、なぜ業などという言葉で汚そうとするのか」
楠丸は、自分の黒く汚れた掌を見つめた。
ひび割れ、血の滲んだ手。それは確かに、生きるために抗い、この大地の冷たさを引き受けてきた証だった。前世の自分が誰であったかなど、今の自分には関係のないことだ。ただ、この雑巾の重み、この床の冷たさ、そして今この瞬間、自分の肺に入ってくる清冽な空気。それだけが、確かな「自分」なのだ。
楠丸は、再び雑巾を握り直した。
先ほどまでの重苦しい不安が、完全に消えたわけではない。だが、床を磨く動作に、迷いが消えていた。一拭き、また一拭きと進むたびに、楠丸の心は、あの遠くに見える可也山のように、静かに凪いでいくのを感じた。
夕刻、一日の作務を終えた楠丸は、再び山を望んだ。
空海が見たというその山は、沈みゆく夕日を背負い、空と地の境界を鮮やかに切り取っている。
修行はまだ始まったばかりだ。自分が何者であるか、その答えが出る日は遠いかもしれない。だが、あの山のように、泥の中に立ちながらも、ただただ凛としてそこに在り続けること。それが、自分に与えられた唯一の道なのだと、楠丸は悟りつつあった。
冷たい風が山を下り、寺の鐘の音が平野へと吸い込まれていく。
楠丸は、汚れた雑巾を丁寧に洗い、固く絞った。
明日もまた、日は昇り、自分は床を磨くだろう。
無数の人々の祈りと、出口のない宿業、それらすべてを包み込みながら、その山は静寂の中に立っていた。
可也山は今日も美しい稜線で空と大地を分けている。
