絶望の中を悠々と歩け
森の奥深く、沢が細い流れとなって岩肌を縫うあたり。そこに、倒れてなお苔を纏い、新たな命を芽吹かせる巨木がある。
朽ちていくその姿は、敗北ではない。それはただ、姿を変え、森の循環に還っていく過程なのだ。秋が深まり、冷たい雨がその苔を濡らすのを眺めていると、かつて自分を支えてくれた言葉が、まるで枯れ葉のように色褪せて思えることがある。
「犀の角のようにただ独り歩め」
この言葉を、私は長いこと、精神的な自立を説くものだと解釈してきた。他人の評価や社会の尺度に惑わされず、己の信じる道を、己の足で歩くこと。その決断の責任を、たった独りで引き受ける覚悟。それは、確かに厳しい生き方であり、ある種の強さを必要とするのだろう。
だが、本当にそれだけなのだろうか。この森吉の麓で、土に触れ、天候に一喜一憂する暮らしを続けるうち、その解釈に、ある種の「傲慢さ」が潜んでいるのではないかと疑うようになった。
己の足で歩く、という。だが、その「己」とは、一体何なのだ。私が「私」だと思っているものは、親から受け継いだ血肉であり、先人たちが築いた言葉であり、この村の人々との関わりの中で形作られた役割の集合体ではないのか。私が下す決断もまた、これまで読んだ本や、誰かから聞いた話の断片が、無意識のうちに影響しているに違いない。純粋な「己」など、どこにも存在しないのではないか。
私たちは、自分という名の鎧を、幾重にも着込んで生きている。「父」という鎧、「山の案内人」という鎧、「村の一員」という鎧。それらは私を守り、社会における立ち位置を与えてくれる。しかし、その鎧があまりに重く、硬くなってしまうと、私たちは鎧そのものが自分なのだと錯覚してしまう。
去年、丹精込めて育てた畑が、たった一夜の嵐で、すべて泥に埋まったことがある。ひとつ上の田んぼが決壊して、家の軒下にまで泥が流れ込んできたのだ。呆然と立ち尽くす私を襲ったのは、悲しみよりも先に、烈しい怒りだった。天に対する、理不尽な暴力に対する、どうしようもない怒りだ。なぜ、私の畑が。なぜ、私がこんな目に。その怒りの根源を、今になって考えてみる。
あれは、畑を「私のもの」だと信じ込んでいたからなのだ。私が手をかけ、心を尽くした、私の努力の結晶。その、私が作り上げた自己の一部が、自然の気まぐれによって、いとも容易く破壊された。だから、腹が立ったのだ。
もし、ブッダが言う「独り」が、その鎧を一枚、また一枚と脱ぎ捨てていく過程のことを指すとしたら、どうだろう。
それは、社会からの孤立を意味するのではない。むしろ、人々との関わりの中で、自分が何者でもないことを知っていく旅なのだ。
犀の角が、ただ一本、天に向かって真っ直ぐに伸びているように。それは、他を威嚇するための武器ではない。あらゆる装飾を削ぎ落とした、命の芯そのものの姿なのだ。
他者からの賞賛という鎧を脱ぐ。自分の知識や経験という鎧を脱ぐ。正しさという名の、最も厄介な鎧を脱ぐ。そして最後には、「私」という最後の鎧さえも。
だからこそ、それは恐ろしいことだ。何者でもなくなるということは、寄る辺のない、広大な虚空に、たった独りで放り出されるようなものだから。これほどの絶望があるだろうか。
だが、すべてを失ったその場所から、はじめて見えるものがある。
嵐が過ぎ去った畑は、もはや「私のもの」ではなかった。それはただ、雨を含み、次の命を育む準備のできた、森の一部としての土くれだった。私が怒る必要など、どこにもなかったのだ。
「犀の角のようにただ独り歩め」とは、強くなれ、ということではないのかもしれない。
むしろ、弱くなれ、ということではないか。
傷つき、打ちのめされ、積み上げてきたものを容赦なく奪われる経験を通して、自分が何者でもないことを受け入れよ、と。
その絶望の感覚こそが、他者への本当の優しさにつながるのだと、私は思う。自分がいかに弱く、不完全で、愚かであるかを知った者だけが、他人の弱さや愚かさを、静かに受け入れることができる。断罪も、評価もせず、ただ、その存在を許せるようになる。
私たちは、何者かになるために生きているのではない。何者でもない自分に還るために、この命の時間を使っているのかもしれない。
朽ちていく巨木が、静かに森に還っていくように。その過程に、悲しみも喜びもない。ただ、厳かな事実があるだけだ。
冷たい雨が、また降り始めた。この雨が、私の鎧の隙間にも染み込んでくる。その冷たさが、今はなぜか、少しだけ心地よい。さあ、私もゆっくりと、森に還っていくことにしよう。この、どうしようもない絶望を道連れにして。
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