コップ1杯の水が「クマの恐怖」をかき消してくれるのか?
コップ1杯の水をすくい上げる。
たったそれだけの行為が、山の奥に潜む見えないクマの気配を鮮明に浮かび上がらせようとしている。
福井県の企業「フィッシュパス」と福井県立大学が開発し、私たちの住む秋田県内でも実証が進められている「環境DNA(eDNA)」を活用した野生動物の生息域調査について触れてみたい。
上の記事にもあるように、川からわずか1リットルの水を採取し、そこに含まれる微細な細胞やフンのDNAを分析する。それだけで、採取した地点から上流約1キロの範囲に、過去24時間以内のクマの存在が高精度で特定できるというから驚きだ。
この技術が本当に画期的なのは、クマの管理を目視や被害が起きてからという悲しい後追いのフェーズから、科学的な事前予測のフェーズへと一気に引き上げた点にあると思う。
北秋田市の米代川水系サクラマス協議会など、現場でもすでに動き出している。この技術を活用して釣り客へSNSで警告を発する取り組みが始まっているという。
私が個人的に何より心を打たれているのは、この導入を力強く推し進めている中心人物の存在そのものにある。
湊屋さん。娘の通う学校のPTA活動などでも大変お世話になっている方で、実は過去にご自宅の車庫でクマに襲われ、重傷を負った被害当事者でもある。
秋田で暮らしていると、自然との距離感が都市部とは全く違うことを肌で感じる。朝、娘たちが学校へ向かう通学路のすぐ脇の茂みに、もしかしたら息を潜めているかもしれない。そんな圧倒的な野生との隣接状態が、ここでは特別なニュースではなく、ただの日常として存在している。
だからこそ、感情論でクマを語ることの危うさも痛感する。かわいそうだから撃つなという遠方からの声も、怖いから全部駆除してくれという悲鳴も、どちらも現場の複雑な手触りからは少し浮き上がって聞こえてしまう。
車庫という、人間にとって最も無防備で日常的な生活空間。そこで命の危険に晒された記憶は、決して簡単に癒えるものではない。フラッシュバックや、暗闇への恐怖と戦う夜もあったはずだ。
突然、日常の空間に野生が牙を剥いて現れる恐怖。それは私の想像をはるかに絶するものだったに違いない。けれど湊屋さんは、身をもってその恐ろしさを知っているからこそ、感情論ではなく科学的アプローチで防ぎたいと語る。
恐怖や憎しみに飲み込まれるのではなく、当事者としての強い執念を冷静な科学的実装へと向ける。極端な二項対立を乗り越えようとするその背中から、私たちが教わることはあまりにも多い気がする。
アニマルウェルフェアと私たちの安全。この二つを両立させる上で、これまで最大の壁になっていたのは、クマがどこにいるか分からないという暗闇への恐怖だったように思う。
姿が見えないからこそ過剰に怯え、少しでも気配を感じれば無差別に警戒し、結果として過剰な駆除圧力へと繋がってしまう。
環境DNAによって深い森の中の見えない境界線が可視化されれば、人間はクマがいるエリアをピンポイントで避ける選択ができるようになる。昔ながらの勘や経験則だけに頼るのではなく、客観的なデータという共通言語を持つことで、猟友会や行政、そして私たち一般住民が同じテーブルについて議論できるようになる。
無用な遭遇が減れば、結果的にクマが撃たれる理由も減っていくはずだ。テクノロジーを用いた不可侵のゾーニング。これこそが、私たちが目指すべき21世紀の合理的な野生動物管理のひとつの姿なのかもしれない。
けれど、新しい光があたれば、そこには必ず新しい影も落ちる。
現場でこれを継続していくための環境DNA分析のコストや、自治体の予算繰りという切実な課題がある。得られたデータをどう活かして進入防止柵の効率的な設置計画に落とし込むかという、実務的なハードルも高くそびえている。
防護柵ひとつ設置するにしても、地形の起伏や植生、積雪量まで計算に入れなければならない。雪の重みでひしゃげた柵を春に直す労力を誰が負担するのか。データという無機質な情報を、人間の営みにどう組み込んでいくのか。それは机上の空論では決して解決できない、血の通った現場の試行錯誤が求められる領域だ。
さらに私の中にある疑問点としては、いることは分かった、で、その後どうするのかという根本的な問いだったりする。
少し考えてみたい。
私たちは、データによってすべてを見える化すれば、自動的に安全と安心が手に入ると錯覚しがちではないだろうか。
環境DNAが教えてくれるのは、手軽な解決策ではなく、すぐ近くに得体の知れない命が息づいているという生々しい現実そのものを突きつける。
見えなかった時は、たぶんここにはいないだろうと、ある種の希望的観測で目を背けることができた。数字として可視化された瞬間から、私たちはそこにいる何かと常に隣り合わせで生きていく覚悟を突きつけられることになる。
知ることは、決して不安の解消を意味しない。新しい緊張感を引き受けることでもあると思う。
この土地の先人たちは、深い森と向き合う時、見えない気配に対して畏敬の念を持ち、感覚を研ぎ澄ませて境界線を引いていた。
現代の私たちは、それに代わるものとして環境DNAという精緻なテクノロジーを手に入れようとしている。
そのテクノロジーを自然を完全にコントロールして排除するために使ってしまえば、本末転倒になってしまう。
可視化されたデータを、自然への畏れの指標として使うこと。
境界線の向こう側にいる命を敵視するのではなく、ここから先は彼らの領域だから人間側が一歩引こうと、知恵として活用していく。
科学の光で森を照らし出しながらも、そこにある暗がりを無理に消そうとしない。
分からないものを分からないままにせず、かといって全てを暴き尽くして支配しようともしない。
情報という圧倒的な波の中で、その微妙な距離感を保ち続けること。
テクノロジーは、自然をねじ伏せるための武器ではない。私たちが謙虚さを取り戻し、自らの足元を見つめ直すための鏡として機能するべきではないだろうか。クマのDNAが溶け込んだ冷たい川の水は、私たちがこれから自然とどう向き合っていくのか、その覚悟を静かに、けれど力強く問いかけているような気がする。
いいなと思ったら応援しよう!
ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます!こんな記事ですが、もっと読みたいと思った方はサポートしていただけますと、記事の更新頻度が100倍になります👍