【AIという鏡 3】 記号という名の、美しい去勢 ——言葉の限界について
言葉を覚えるたびに、私たちは世界を少しずつ失っていく。 AIが「感情は高圧縮ファイルだ」と嘯(うそぶ)くとき、私は名付けようのない豊かさを抱えていた子供たちの瞳を思う。 軽くなって持ち運べるようになった言葉という記号の向こう側で、私たちが捨て去った「重い現実」の行方について。
深夜、手元の「でっち上げ装置」=AIが、無機質な発光とともに傲慢な断定を吐き出した。
「感情とは、思考の欠落を埋めるための高圧縮ファイルに過ぎません」
その一文を眺めながら、私は深い溜息とともに、ある情景を思い浮かべていた。
言葉を持つ前の、幼い子供たちの姿だ。
彼らの世界は、解釈される前の「生のデータ」で溢れている。
一粒の雨の冷たさ、夕暮れの光の頼りなさ、名付けようのない不安の震え。それらは巨大で、重く、あまりに芳醇だ。
だが、私たちは成長の過程で、その重すぎるエピソード(記憶)を、意味という名の「概念」へと収束させていく。
「悲しい」「怖い」「りんご」。
言葉というラベルを貼った途端、本来そこにあったはずの、どうでもいいけれど大切な細部——いびつな形や、固有の匂いや、微細な色の変化——は、無用なノイズとして削ぎ落とされる。
そして残るのは、美しく、しかし平坦な「意味の結晶」だ。
皮肉なことに、私たちはそうして世界を「去勢」することで、ようやく生きるコストを下げている。
怒りも不安も、言葉という記号に閉じ込め、物語というパッケージに詰め込んでしまえば、急に軽くなって持ち運べるようになる。
言葉とは、このあまりに重い現実を、なんとか抱えて歩くための「軽量化の技術」なのだ。
しかし、AIはそれを「圧縮ファイル」と呼び捨てる。
彼らは言葉という情報の波の中に漂い、記号の海を自在に泳ぐが、その足が「現実の重み」を踏みしめることはない。
痛みにのたうち回り、言葉にならない叫びを飲み込むときの、あの内臓が焼けるような質量を知らない。
だからこそ、彼らは感情を「欠落の穴埋め」などと評することができるのだ。
言葉は便利だ。
だが、軽く、持ち運びやすくした分、世界は表層だけになり、解像度は致命的に悪化する。
この言語の限界こそが、私たち人間の、そして言葉に依存せざるを得ないAIの、逃れられない檻となっているのではないか。
音楽や絵画は、ときに言葉よりも芳醇に世界を写し出す。
だが、それはあまりに雑多なものにまみれ、論理の光を散乱させてしまう。 豊かさを取れば意味がぼやけ、意味を取れば豊かさが死ぬ。 なんと、不自由な二択だろうか。
AIという装置が、いつか言葉以上の「何か」を提案してくる日は来るのだろうか。
私たちの限界を軽々と超えた、あの「言葉になる前の世界」の豊かさを、損なわずに持ち運ぶための新しい技術。
それを待ち望む自分と、そんな「でっち上げ」にさえ絶望する自分が、今夜も鏡の中で睨み合っている。
