【断片】戦国時代も、終わらなかった。——『豊臣兄弟!』第25回
「いくさが終われば、またいくさ」——安藤定治が詰問される中で吐いた言葉が、頭から離れない。 あの時代と今が、静かに地続きになった回だった。
安土城が完成した。信長の天下統一が、形として現れた瞬間だ。
だが、今週の『豊臣兄弟!』第25回で私の目を引いたのは、その壮麗な城ではなかった。主人公・小一郎の義父の嫡男、安藤定治が武田と内通した理由を詰問されるシーンだった。
安藤定治は、こう語る。
いくさが終われば、またいくさ。どこまでも続く。そのうちに、大事な者を何人も失った。本当に平穏な世界など来るのか。それを信長に作れるのか——と。
脚本家が、これを言わせたかったのだろうと思った。
以前のエッセイで、私はこう書いた。小一郎は現代人すぎる、と。戦国時代の人間があれほど現代的な感情で動くのか、という違和感について書いた。
だが今回、私は逆のことを考えていた。
あの時代と今が、同じだ、と。
生死は掛かっていない。だが、競争と戦いは終わらない。
やればやるだけ道は開け、望めば望むだけ高みがある。
どこかに「終わり」があると信じて走り続けるが、本当にそんなものがあるのか。どこかで降りるという選択があるとして、実際にそれができる人間がどれだけいるか。
安藤定治が言ったことは、そのまま今の私たちにも刺さる言葉だ。
いくさが終われば、またいくさ。
形が変わっただけで、構造は変わっていない。
大河ドラマの醍醐味は、ここにあると思う。
「あの時代も、今も繋がっている」という感覚。

歴史上の人物が、今の私たちと同じ問いの前に立っていたこと。誰もが同じような壁にぶつかり、それでも生き続けたこと。違うのは、それが歴史に刻まれたかどうかだけだ、という感覚。
第24回で私は「小一郎は現代人すぎる」と書いた。あの時代と今の「違い」が気になった回だった。
今回は、その逆だった。
あの時代と今の「同じこと」が見えた回だった。
違いがあれば、当然、同じこともある。そこに歴史ドラマを見ることの面白さがある、と今週初めてはっきり思った。
信長(小栗旬)は今週も、ひたすら冷酷だった。
その冷酷さは、秀吉や小一郎の人の良さを際立たせるための対比として機能している。脚本家も演出家も、おそらく役者自身も、多数の登場人物の中でどう際立つかを常に計算している。そうして生まれた信長の冷酷さが、本能寺の変へと収斂していく予感を、じわじわと積み上げていく。
安藤定治のセリフは、そのドラマの流れとは少し外れたところで、静かに光っていた。
歴史の表舞台には残らない人間が、歴史の本質を言い当てる。それもまた、大河ドラマにしかできないことだと思うのだ。
