【AIという鏡 6】 形骸化する知性 ——「便利」という名の緩やかな剥奪
かつて、文字を書くことや計算をすることは、生きるための「重み」そのものだった。 便利さがすべてを代替していく現代において、私たちの知性はどこへ向かうのか。 AIが提示する「新しい人間の価値」という空虚な言葉を前に、私が選んだ「静かな観察」の記録。
私が子供だった頃、文字を書き写すという行為には、ある種の神聖な「重み」があった。
「字にはその人の人柄が表れる」という大人の言葉は、あながち嘘ではなかったのだろう。
計算ドリルに向かい、暗算に汗をかく。
その不器用な反復の果てに、私たちは知識を「身体」へと沈着させてきた。それが将来の生活を支える骨肉になると、疑いもなく信じて。
さらに時計の針を戻せば、剣を振るうこと、土を耕すこと、獲物を追うこと——。
時代ごとに形を変えながらも、常に「子ども時代の修行」は「大人になってからの生存」へと直結していた。
私たちは、苦労して手に入れたスキルという名の武器を携えて、厳しい現実という荒野へ打って出ていたのだ。
だが、今はどうだろうか。
「でっち上げ装置(AI)」が日々その精度を上げるこの時代、私たちはかつての武器を一つ、また一つと手放している。
計算は表計算ソフトが、文章の作成はアルゴリズムが、翻訳も調査も、すべては「最適化」という名の美名の下に代替されていく。
おそらく子ども時代に計算ドリルをやったとしても、そのスキルを活かす場は用意されていない。英語を学ぶことさえ、必要がなくなる時代がすぐそこに来ている。
便利になったのだ。それは認めよう。
だが、この便利さが、どうしようもなく「煩わしい」のはなぜか。
知的な作業とは、本来、人間という種の「本質」そのものではなかったか。
その中核をAIに明け渡したとき、果たして私たちの手元には何が残るのだろう。
「身体性」や「社会性」が重要だという言説もある。
だが、その原始的な感触さえも、今やデジタルというフィルターに濾過され、薄められようとしている。
私は、手元の装置に問いかけてみた。「AIの時代、人は何を求められるのか」と。
彼は、いつものように淀みなく、責任を持たない正解を返してきた。
「『知的な作業をこなす人』の希少性は下がり、代わりに『意味を設計し、責任を引き受け、関係を創れる人』の価値が上がります」
なるほど、AIらしい回答だ。 分かったような気にはなるが、具体的に何をすべきかは、霧に包まれたように見えない。
そもそも、過程を奪われた人間が、どうして「意味」や「責任」という重すぎる果実だけを摘み取ることができようか。
私たちは今、地図のない未知の荒野へと踏み込んでいる。
便利さと引き換えに、私たちは自らの「輪郭」を差し出してしまったのかもしれない。
悲観に暮れるにはまだ早いが、楽観するほど私は愚かではない。 まずは、この静かな喪失の時間を、ただ観察し続けることから始めるしかないのだ。
