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究極の瞑想法としての「なるがまま舞踏」

心の「あるがまま」を重視する瞑想法は、瞑想法の中での一つの究極の形でしょう。
前稿の「雑念から創造を引き出す瞑想法」は、「あるがまま瞑想」を基本としながらも、創造的な変化を重視するものなので、「なるがまま瞑想」と言えるかもしれません。

ですが、これらも含めて、瞑想というのは、たいてい「心」を問題にするだけで、ほとんどの場合、「体」を置いてきぼりにしています。

「体」を使うヨガはありますが、これは型が決まったもので、基本的には「心」へ進む前段階的な位置づけです。
プラーナを制御、活性化する瞑想はありますが、プラーナは肉体ではありません。

ですが、本来、「心」と「体」は一体です。
密教的に言えば、「身口意」で、「声」も含めて一体です。

瞑想は、「心」の解放と、「体」の解放、そして、「声」の解放が一体であるべきだ、と私は考えています。

密教は「身・口・意(体・声・心)」の3つを対象にした瞑想を行いますが、象徴主義を十分には超えていません。
ゾクチェンや禅は、象徴主義を超えましたが、これは「意(心)」のみであって、「身(体)」、「口(声)」は置いてきぼりにしています。

*空海や修験道の「無相の三密」のように、一部では三密での象徴主義の乗り越えが主張されていますが、具体的な実践法についてはほとんど語られていません。

本当の意味で3つの解放を目指す実践が当稿のテーマ、「なるがまま舞踏(フリー・ダンス)」です。
私は、これを瞑想法の一種として考えています。

合わせて、「なるがまま動作(フリー・ムーヴ)」、「なるがまま発声(フリー・ヴォイス)」についても考案します。

また、付論として、舞踏に関するいくつかのテーマを扱います。

*「ありのまま舞踏」は、モダン・ダンス、コンテンポラリー・ダンスの一種と考えることができるのかもしれませんが、私は舞踏の分野にはあまり詳しくないので、これらのダンス論には踏み込みません。
ですが、田中泯のハイパー・ダンスとは、通底する部分があるのかもしれません。
*当稿では、「舞踏」、「舞踊」、「踊り」、「ダンス」といった言葉の意味を使い分けません。




なるがまま舞踏


「体」を「なるがまま」に動かすことを、「なるがまま舞踏(フリーダンス)」と呼びましょう。
これは、究極の舞踏の形でもあり、瞑想法でもあると思っています。

「なるがまま舞踏」は、完全な即興舞踏で、何も意図することなしに、一切の型なしに、あらかじめ決まった何かを表現することもなく行う、自由な舞踏です。

また、「舞踏」という言葉がイメージするような、リズムは必要ありませんし、必ずしも早く動く必要もないし、大きく動く必要もありません。
止まってもいいし、動いていないかのように微細な動きでもいいし、ナメクジのようにゆっくり動いても構いません。

「体」を「なるがまま」にすることは、「体」に自然に現れてくる潜在的な動き、形になる前の動きを、そのまま表現して展開することです。
あらゆる意図した動きをやめ、「体」が動きたいように動きます。

これは、既存のすべての動きからも、繰り返しからも自由になることであり、「舞踏」という概念からも自由になります。

「私」という意識も、「私の体」という意識も、「手」や「足」といった意識もなく、「踊る」という意識も、「動く」という意識も、「表現」するという意識もなくして動きます。


身体の動きを規定するもの


日常の「体」の動きは、目的意識や言語によって型取られています。
つまり、社会的に規定されています。
これらのものが、「体」の中に入って、一体化しています。

例えば、人が目の前のコップを取ろうとして体を動かす時、その動きは、本能的に決められた動きでも、自然な動きでもありません。

意識せずとも、そこには、「私」という自我意識があり、「手」という概念があり、「コップ」という概念があり、「取る」という目的意識があります。
動きは、こういったたくさんの言葉によって規定されています。

急いでいるなら、素早く動きますが、これはそこには思考が介在してのことです。

また、コップを取る動きは、過去に何度も同様の行為を繰り返してきた結果でもあります。
そして、他の人間が同様の行為をしたのを見てきた結果でもあり、それらをモデルにした動きです。

また、意識せずとも、女性なら女らしく動き、男性なら男らしく動きます。
これらは社会や自我意識に規定されています。

このように、人間の「体」の動きには、社会が、言葉が、思考が、過去の記憶が、自己イメージが、内在化して、それを型取っています。

意識のあり方と、体の動き方は、表裏一体のものです。
「なるがまま瞑想」は、型取られた心の動きを排除して解放するものですが、「なるがまま舞踏」では、同様に型どられた体の動きを排除して解放するものです。


実践のコツ


実際に、「なるがまま舞踏」を行う場合のコツについて書いてみます。

最初は、適当に、意図して何らかの動き出しを行い、徐々に、その続きを、意図しない、即興的なものにしていきます。

それをしばらく行っているうちに、意識の層が変わってきて、一種の変性意識状態のスイッチが入ります。
そして、まったく無意識に、「体」から自然に動きが生まれ続けるようになります。

ですが、「体」があまりにも淀みなく動き、惰性的に、定型的に、反復的になったと感じると、その流れを一旦、切断して、意識を切り替えて、またすぐに始めます。

これは、「なるがまま瞑想」で、思考に陥ったことを自覚すると、自然にそこから抜け出すことに対応します。


また、なるだけ、日常的な身体感覚を手放します。

大まかに言って、「体」は、硬い骨の体、柔らかい肉の体、そして、液体の体からできています。
また、「気(プラーナ、エーテル)」の体もあります。

ですが、「ありのまま舞踏」の時には、「体」をあまり分析的に考えず、例えば、漠然と、様々な密度の、多層的な、波動とイメージするのも良いでしょう。
また、「体」を、五体のつながりだと考えず、球体から随時、突起状の形(手足)が現れるようにイメージするのも良いでしょう。

もちろん、人間という意識は捨てます。
一時的に、何らかの動物や爬虫類のようになったとしても、そのイメージに憑依されることなく、キマイラのように多様化して解体しましょう。

また、自分の内部を表現するという意識は捨てます。
逆に、自分というものの存在を忘れ、周りの環境と一体化して、その場所が自分を表現しているというような感覚です。


もちろん、「なるがまま」の体の動きと連動して、「なるがまま」の心が動きます。
これは、形になる前の感情であり、フィーリング、情動です。

また、自分が見ている景色、感じている環境も、微妙に変化します。

こういった心や感覚の変化にも意識を向け、体の動きと相互作用をさせ合います。


始めて踊った時、あるいは久し振りに踊った時には、日頃、抑えている何らかの感情や力が表出され、一種の抑圧され、蓄積されたものが、関を切ったように解放される場合があります。

こういったものは、出せば良いのですが、本当の「なるがまま舞踏」はその後から始まります。


なるがまま動作


「なるがまま舞踏(フリー・ダンス)」がうまくできない人は、「なるがまま動作(フリー・ムーヴ)」を試してみるのが良いかもしれません。

静坐瞑想や歩行瞑想を、体の動きに応用したものです。
「立禅」や「動禅」と言った言葉がありますが、これとは違います。

まず、楽に直立します。
最初は閉眼の方が良いでしょう。

そして、体の中に意識を向けて、潜在的な動きを感じます。
あくまでも、感覚です。

頭から足まで、順に意識を移動させて、これを行うのも良いでしょう。
リラックスする時や、ヴィパッサナーの時に行うこともある「ボディスキャン」の応用です。

そして、その潜在的な動きを、実際の体の動きにします。
動き終わったと感じたら、また、直立に戻ります。

次に、歩行しながら同じ要領で行います。
歩行しながら、体の中の潜在的な動きに意識を向けて、それを歩行の動きに加えていきます。
そして終われば、普通の歩行の動きに戻ります。

歩行を動きのアンカーにしているわけですが、この場合、動きの合成が行われるので、こちらの方が複雑です。
ですが、これは「なるがまま舞踏」の日常化につながります。

どちらの場合も、動きがどんどん起こって、「なるがまま舞踏」に移行するなら、移行しても構いません。


なるがまま発声


密教では「身口意」の三密加持というように、「心」と「体」だけでなく、「言葉」や「声」の実践も同時に重視します。

「音舞」という言葉があるように、「体」の動きと「音楽」や「歌」は一体です。

ですから、「なるがまま舞踏」では、自由に、即興的に、無意味に、「声」を出しても構いません。
つまり、「なるがまま発声(フリー・ヴォイス)」を加えた「なるがまま音舞」になるのです。

「なるがまま発声」のもとになるのは、「なるがまま舞踏」と同じく、形を持った感情になる前の、不定形の情動です。

それは、言葉になる前の声、感嘆詞よりも、ずっと深くにある声です。
叫びのように、誰か向かって発するものでも、目的のあるものでもありません。

そして、歌になる前の声、スキャットよりも、ずっと深くにある声です。

「体」が、自然に、無形で、無意味な、「声」を発するのです。

木々が風に吹かれてサラサラと音をたてるのと同じようなものだと、イメージするのもいいと思っています。


日常での常態化


「なるがまま瞑想」の最終目的は、瞑想の日常化、常態化でした。
ですから、「なるがまま舞踏」の目標も、その日常化です。

つまり、「心」と「体」、そして「声」の開放された動きを、日常の中で解放する、ということです。

と言っても、しょっちゅう、ところ構わずに踊るということではありません。

「なるがまま舞踏」を行っていると、日常の身の動きにも、微妙な変化が出てくるはずです。
それが自覚できなくても。

ちなみに、私は、「体」の中の「気」をコントロールすることができますが、会って間もない人から、いきなり、「あなたは気をコントロールすることができますね。手の動きで分かります。気が通っていますから」、と言われたことがあります。

「体」の中の「気」を動かしていると、自然に「体」の動きに、「気」の流体的な動きが加わるようになるのです。

これと同じで、「なるがまま舞踏」を行っていると、「体」の動きが、微妙に変わります。
一つの動きの中に、多数の動きが共存しているような動きです。


形になる前の「心」の動きを意識し、それを「なるがまま」にすることは、同時に、形になる前の「体」の動きを意識し、それを「なるがまま」にすることです。

日常でもそれを心掛ければ、「体」の動きは、言葉に型取られた単純な動きではなくなります。
それから外れる、微細に逸脱した動きが含まれるようになります。

こうして、普段の普通の「体」の動きの中に、少しずつ、「なるがまま」の動きを混ぜていくことができます。

時には、行為そのものを、目的意識と共に変更することも起こるでしょう。

もちろん、人前では、要注意人物と思われないように、気をつけてくださいね。


付論1 夢見の術の動作 と なるがまま舞踏


 フォーカシングやプロセス指向心理療法では、無意識のメッセージが、夢と同様に、意図していない無意識的な動作として現れていると考えます。
そして、それに意識を向けて、対話したり、イメージを展開したりします。

ですが、私は、必ずしもその必要はないかもしれないと思っています。

フォーカシングやプロセス指向心理療法では、夢は解釈しなくても、意識的に体験すると人格が変わると言います。

ですから、無意識のメッセージとしての動作も、意識化して動作をすれば、それだけでも人格が変わるのではないでしょうか。

その場で、言語化したり、イメージ化したりしなくても、いずれそれは、言葉やイメージは現れるでしょう。


付論2 始まりの神聖舞踏


人がいつ、どのような理由で踊り始めたのかは、分かりません。
ですが、想像するに、神霊との交流として、踊り始めたのではないでしょうか?
これを「始まりの神聖舞踏」と表現しましょう。

最初は、無意識に踊り出したのだと思います。
人はそれを、神霊の憑依、あるいは、神霊のメッセージのように感じたでしょう。

そして、神霊を呼ぶために踊るようになり、やがては、神霊に扮した者が踊るようにもなり、神霊に捧げるためにも踊るようになったのでしょう。

ですから、祭りは舞踏として始まったのでしょう。
舞踏には、歌や音楽が加わり、神話が加わり、様々な儀礼を構成しました。

そして、神聖舞踏から、芸能としての音楽、舞踏、演劇が生まれました。


「始まりの神聖舞踏」は、人が神霊になることです。
神秘主義的な神人合一の体験は、この舞踏として始まったのでしょう。

神聖舞踏では、聖なる時空、原初の時空、真実の世界を体験します。
宇宙論的に言えば、神として踊ることは、世界の創造であり、破壊です。

インドでは、世界の創造、維持、破壊は、シヴァやカーリーの踊りとして表現されます。

他方で、人として踊ることは、死して再生することです。
地上の自分を神への供犠にし、神によって再生されるのです。


トランス状態に入るための踊りは、踊りというより、飛び跳ねたり、足を踏んだり、回転するような「動き」でしょう。
そして、トランス状態に入った時は、痙攣のような「動き」が加わります。

そして、神霊を憑依された、神霊としての踊りは、その神霊の力の発現です。

神霊が踊るのは、神霊が非日常的なエネルギーに溢れた者であり、踊りはその表現であり、その力を回りのにもたらすためです。

足踏みは大地、肉体に力を与え、跳躍は成長を促し、回転は力の放射を示します。
踊りの手振りは、力の放射と回帰、上昇と下降を表現します。

「始まりの神聖舞踏」は、即興的で、日常の動きとは異なる動きだったでしょう。

神霊は、よくキマイラ的な姿で想像されましたが、それは、何ものでもあり、何ものでもない潜在的なすべての可能性です。
「始まりの神聖舞踏」も、そのようなものだったのかもしれません。


付論3 動物舞踏


狩猟文化では、狩人が動物を狩る前に、その動物の舞踏を踊ることがあります。

その理由の一つは、動物を真似て、動物になることで、神秘的(呪術的)なつながりをえて、狩りを成功させるためです。

また、舞踏でその動物の一生を賛美し、その生を拡張するためです。
これは、動物の霊に対する返礼です。
舞踏は、生を表現し、拡張するものなのです。


狩猟文化の狩りの舞踏に限らず、世界中の人々は、様々な目的で、動物を真似た「動物舞踏」を行ってきました。

例えば、古代ギリシャでは、豚(イノシシ)、熊、ライオン、狼、豹、雄鹿、キツネ、ヤギ、馬、フクロウ、雄鶏、ツバメ、ヘビ、トカゲ、魚などの動物舞踏がありました。(「古代ギリシャの舞踊文化」L・B・ローウラー(未来社))

一つには、動物を真似ることでその動物の神秘的な力を得ることができると考えたからでしょう。

また、特定の動物は、特定の神の使いや化身と考えられ、その動物は奉納されたり、守られたりしました。
そして、祭儀の際には、その動物の舞踏が奉納されることがありました。

また、トーテミズムの文化では、特定の氏族の祖先はトーテム動物でした。
そのトーテム動物の舞踏を踊ることは、先祖霊との交流でした。


北南米などのシャーマニズム社会では、人はそれぞれにパワー・アニマル(守護動物)を持っていると考えます。
パワー・アニマルは、その人の生命力の源泉となる存在です。

人は、時々、そのパワー・アニマルのダンスを踊らなければ、パワー・アニマルは去ってしまいます。(「シャーマンへの道」マイケル・ハーナー(平河出版社))

このダンスは、振りの決まったものではありません。

それは、パワー・アニマルの力の発現であり、それを踊ることで、その存在を確認し、つながりを確かなものにします。


付論4 後期密教と舞踏


三密加持の「身口意」の「身」は、基本的には、手印です。
それは、手先の形でしかなく、特定の仏などの象徴として体系化されたものです。

ですが、力動性を重視する後期密教の時代になると、尊格が踊る姿で表されるようになりました。
基本的に、ダンシング・シヴァ(=ナタラジャ(舞踏王)=ナテーシヴァラ(舞踏自在神))と同じ姿勢です。

また、音舞を伴う饗宴的儀礼も行われるようになりました。

ですが、踊りの型が曼荼羅の部族と結びつけられて体系化されるようなことはありませんでした。

つまり、舞踏が教説化されたり、行法となることはありませんでした。


ですが、現代のゾクチェンの師のナムカイ・ノルブは、重要な実践として「ヴァジュラ・ダンス」というダンスを編み出しました。

これは集団で曼荼羅の上で行われ、身口意の調和をもたらす一種の瞑想とされます。

詳細は下記をご覧ください。


*タイトル画像は、ダンシング・シヴァ  from wkiipedia

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