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ショート・ショート|てんとう虫が止まった日


――幸運は、音もなくやってくる。

(最後まで読んでいただき、音楽も聴いていただけたら嬉しいです。)

朝、洗濯物を干そうと思って、ベランダの窓を開けた。

まだ少しだけ冷たい空気が、部屋の中へ流れ込んでくる。
夜の気配を残した床に、朝の光が細く伸びていた。

洗濯かごを抱え、いつものようにベランダへ出ようとした、
そのときだった。

肩に、何か小さなものがふわりと止まった。

最初は、糸くずかと思った。
それとも、どこかから飛んできた小さな葉っぱかもしれない。

けれど、そっと顔を向けると、
そこにいたのは、てんとう虫だった。

赤い背中に、黒い小さな点。
丸くて、軽くて、今にも風にさらわれてしまいそうな小さな命。

それなのに、そのてんとう虫は、
まるで最初からそこを目指してきたかのように、
私の肩の上で静かに止まっていた。

私は動くのをやめた。

洗濯物を干さなければいけない。
朝の時間は、いつだって短い。
やることは、今日もいくつも待っている。

それでも、その小さな訪問者を見ていると、
急がなくてもいいような気がした。

ほんの数秒。
けれど、その数秒だけ、
世界の速度が少しだけゆるんだ。

てんとう虫は、何も言わなかった。

励ますわけでもなく、
慰めるわけでもなく、
何かを教えようとするわけでもなかった。

ただ、そこにいた。

その静けさが、なぜか心地よかった。

最近の私は、少し急ぎすぎていたのかもしれない。

洗濯物を干して、
食器を片づけて、
部屋の空気を入れ替えて、
今日の用事を頭の中で並べていく。

そんな何気ない朝の支度に追われながら、
朝の光や、風の温度や、
肩に止まるほど小さな命に気づく余裕を、
どこかへ置いてきていたのかもしれない。

てんとう虫は、ゆっくりと羽をひらいた。

赤い背中の下から、
薄い羽が、朝の光を少しだけ受け止める。

そして、何事もなかったように、空へ飛んでいった。

本当に、あっという間だった。

けれど、そのあと私は、
少しだけ笑っていた。

洗濯物を一枚ずつ広げながら、
風に揺れるシャツを見ていた。

昨日と同じ朝。
いつもと変わらないベランダ。
特別な知らせも、奇跡のような出来事もない。

それでも、さっきまでより、
今日という日が、少しやさしく見えた。

幸運は、
もっと大きな音を立ててやってくるものだと思っていた。

誰かからのうれしい知らせ。
思いがけない成功。
人生が大きく変わるような出来事。

でも、本当は違うのかもしれない。

幸運は、
朝のベランダで、
ふわりと肩に止まるくらい静かにやってくる。

気づかなければ、
そのまま通り過ぎてしまうほど小さく。

けれど、気づくことができたなら、
その日を少しだけ前向きにしてくれる。

空へ飛んでいったてんとう虫を見送りながら、
私は小さく息を吸った。

ベランダの向こうには、
洗いたてのシャツのように、淡い青の空が広がっていた。

「今日も、きっと大丈夫」

そう思えた朝だった。





(  完  )

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