ダークファンタジー『振り返れば二郎』
「ふあーぁ……」
私はゆっくりと目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む朝の光が、白っぽく天井を照らしている。昨日飲んだ缶ビールと、どこか甘ったるい柔軟剤の匂いが、まだ部屋の中に薄く残っていた。
枕元に置いていたスマホへ手を伸ばしかけて、途中でやめる。休みの日ぐらい、時間なんて見たくなかった。
私はまだ眠い目を擦りながら、いつものように横を向いた。
そこには彼氏の賢人ではなく、知らないおっさんが寝ていた。
「……え?」
一瞬、頭が真っ白になる。
(え、何このおっさん)
私は反射的に毛布を胸元まで引き寄せた。心臓が一気に跳ね上がる。
無精髭。少したるんだ頬。寝癖で潰れた髪。
よく見ると、どことなく佐藤二郎に似ていた。
しかも、かなり疲れている日の佐藤二郎だった。
私はベッドから飛び降りようとしたが、途中で動きを止めた。
はだけた毛布から見える佐藤二郎風のおっさんが着ているスウェットは、間違いなく賢人の物だったからだ。
去年、一緒にアウトレットへ行った時に買った、胸元によくわからない英字が書かれたグレーのスウェット。洗濯しすぎて袖口が少し伸びているところまで一致している。
(いやいやいや……待って)
私は恐る恐る部屋を見回した。
見慣れたローテーブル。
脱ぎっぱなしの賢人のデニム。
床に転がったゲームのコントローラー。
ベランダに干しっぱなしの黒いタオル。
どう見ても、賢人の部屋だった。
そうこうしているうちに、おっさんもゆっくり目を覚ました。
「……ん、おはよ、美香」
その声は、間違いなく賢人の声だった。
私は硬直した。
(なんで、イケメンの賢人が、いきなり佐藤二郎風な顔面に……)
賢人は何も気づいていないように、眠そうに目を擦っている。
その仕草までいつも通りだった。
私はこのことを賢人に伝えるべきか迷った。
だが、どう説明すればいいのかもわからない。
「あなた今、佐藤二郎みたいな顔になってるよ」
そんなことを朝一番で言われた人間は、たぶん一生その日を忘れない。
私は混乱を押し殺し、とりあえず平静を装った。
「……おはよう、賢人」
いつもなら、寝起きのチューぐらいしたいところだった。
賢人は朝にやたら甘えてくるタイプで、目が合うとすぐ「おはようのやつは?」と言ってくる。
その少し眠そうな声が、私は嫌いじゃなかった。
だが今、目の前にいるのは佐藤二郎風のおっさんである。
中身は賢人。
声も賢人。
仕草もたぶん賢人。
なのに顔だけが、どうしても二郎だった。
私は唇をきゅっと結び、毛布を握りしめた。
無理だ。
どう考えても、佐藤二郎風のおっさんとキスはできない。
賢人はそんな私の様子を不思議そうに見ていた。
「どうした?」
「……いや、ちょっと寝起き悪いだけ」
「珍しいな」
そう言って賢人は軽く笑った。
その笑い方もいつも通りだった。
だが、顔が二郎なので全部おかしい。
私は考えてもしょうがない、と無理やり自分に言い聞かせた。
どうせ寝ぼけているのだろう。そのうち元に戻る。きっと戻る。
そう信じて、私はベッドを出た。
フローリングは朝の冷気を吸って少し冷たい。
キッチンへ向かい、いつものようにコーヒーの準備をする。
コポコポ、とコーヒーメーカーが音を立て始める。
その音を聞いていると、少しだけ落ち着いた。
賢人はコーヒーを淹れている間、ベランダで煙草を吸っていた。
ガラス越しに見える後ろ姿は、いつもの賢人だった。
少し猫背気味で、片手をポケットに入れながら煙を吐く姿。
だが振り返ると、やはり二郎だった。
私はマグカップを二つ持ってベランダへ出た。
朝の空気は少し冷たく、遠くで電車の走る音が聞こえる。
「はい、コーヒー」
「サンキュ」
賢人は煙草を指に挟んだまま、いつもの吸い方をした。
手のひらを全部、口と頬につけるようにして吸う、あのキザな吸い方だ。
イケメンの賢人だから成立していた吸い方。
正直、最初見た時は「ドラマの主人公かよ」と思った。
でも顔が良いので腹が立たなかった。
しかし今は違う。
佐藤二郎風のおっさんが、妙に気取った顔で煙草を吸っている。
ものすごく腹が立つ。
私は思わず眉間を押さえた。
(なんだろう、この感じ……)
面白いのに腹立つ。
腹立つのにちょっと面白い。
賢人は煙を吐きながら、こちらを見た。
「美香、なんか今日いつもと様子違うな」
「……別に」
「ほんとか?」
そう言って賢人は、いつものように私の頭を撫でようとしてきた。
その瞬間だった。
私は反射的に、その手を力強く払いのけていた。
パシッ、と乾いた音が鳴る。
「触んじゃねーよ。二郎が」
しまった、と思った時にはもう遅かった。
賢人は固まっていた。
私は自分の口を押さえた。
(あ、まずい。本能で行動してしまった)
中身は賢人なのに。
ちゃんと賢人なのに。
なのに、顔面が二郎すぎた。
私達は少し気まずい雰囲気のまま朝食を済ませ、外出の準備をした。
テーブルの上には、半分だけ食べられたトーストと、冷めかけたスクランブルエッグ。
賢人はいつも通り新聞アプリを眺めながらコーヒーを飲んでいる。
だが顔は二郎だった。
そのせいで、知的な雰囲気が全部「昼のワイドショーのコメンテーター感」になっていた。
私はなるべく賢人の顔を見ないようにしながら、サラダを口へ運んだ。
今日は私の誕生日だった。
本当なら、もっと浮かれていたはずの日。
銀座へ買い物に行って、夜は少し高いレストランで食事をする予定だった。
だが現在、彼氏が佐藤二郎風になっている。
感情が追いつかない。
賢人は洗面所で歯を磨いていた。
電動歯ブラシの振動音が、やけに静かな部屋に響いている。
鏡越しに見える横顔は、どう見ても二郎だった。
なのに本人は、自分の顔の変化にまったく気づいていない様子だった。
(ってことは……)
私はぼんやり考える。
(私からだけ、こう見えてるって可能性もあるのか……?)
もしそうなら、かなり嫌だ。
脳のバグとして最悪の部類である。
私はモヤモヤしたまま、賢人が乗っているレクサスの助手席へ乗り込んだ。
車内には、賢人がいつも使っているウッド系の香水の匂いが残っている。
シートに深く座ると、柔らかい革が沈み込んだ。
賢人は運転席に座ると、慣れた手つきでエンジンをかけた。
低く静かなエンジン音。
そして賢人は、颯爽とサングラスをかけた。
私は思わず天を仰いだ。
いつもなら、その仕草も映画みたいでかっこよかった。
信号待ちの横顔なんて、たまに見惚れるぐらいには。
だが今は違う。
佐藤二郎が、似合ってないサングラスをかけているだけだった。
しかも本人はキマってると思っている。
少しイラッとした。
賢人――いや、もう二郎でいい気がしてきた――は、いつも聞いているジャズを車内に流した。
軽快なピアノの音。
それに合わせ、二郎は口笛を吹きながらハンドルを指で叩いてリズムを取っている。
私は窓の外を見ながら、小さく舌打ちした。
「ん?どうした?」
「別に」
「今日テンション低くない?」
低いよ。
彼氏が急に二郎化してるから。
私は喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
楽しくないドライブだった。
途中、サービスエリアでコーヒーを買った時も、店員が二郎を見て一瞬だけ「ん?」という顔をしていた。
たぶん「誰かに似てる」と思ったのだろう。
そのたび私は少しだけ安心した。
私だけじゃない。
世界も少しは二郎を感じている。
一時間ほどすると、銀座へ着いた。
休日の銀座は人が多く、ブランド店のガラスには綺麗な服やバッグが並んでいた。
今日は賢人から「好きな物買っていい」と言われていた。
ウィンドウショッピングをしながら歩いていると、ガラスに二郎が映る。
そのたび私は少しがっかりした。
隣にいてほしかったのは、長身で、髪をかき上げる仕草が妙に似合う、いつもの賢人だった。
なのに今は、どのショーウィンドウにも二郎が映る。
ヴィトンに入っても二郎。
腕時計コーナーでも二郎。
エスカレーターの鏡にも二郎。
だんだん笑えてきた。
私は前から欲しかったヴィトンのバッグを買ってもらった。
「ありがとう」
そう言って顔を上げると、そこには嬉しそうな二郎がいた。
複雑だった。
陽が暮れる頃には、街のネオンがガラスに反射していた。
二郎が予約していた夜景の綺麗なレストランで食事を済ませる。
窓際の席。
遠くに見える東京タワー。
ワイングラスを傾ける二郎。
雰囲気は完璧なのに、全部がズレていた。
賢人は時折、物憂げな表情を見せる。
いつもの賢人なら、その表情に少しドキッとしていたと思う。
だが今は違う。
何をしても二郎だった。
帰り道、私は疲れて助手席で眠ってしまった。
車の振動が心地よく、意識がゆっくり沈んでいく。
そして車が止まった感覚で、私は目を覚ました。
眠い目を擦る。
そこには、賢人がいた。
いつもの賢人だった。
整った横顔。
少し眠そうな目。
見慣れた顔。
「賢人――!」
私は思わず叫び、そのまま抱きついた。
賢人は少し驚いた顔をした。
「どうした?何かあったのか?」
低く落ち着いた声。
私はその声を聞いた瞬間、涙が溢れた。
私は賢人の中身ではなく、外見を愛していたのだ。
そのことを、痛いほど痛感した。
どれだけ優しくても。
どれだけ中身が同じでも。
顔が二郎になるだけで、私はこんなにも態度を変えてしまう。
賢人の胸に顔を埋めながら、私は静かに泣いた。
しばらくして落ち着くと、私は賢人の顔を確認した。
(うん……間違いない)
ちゃんと賢人だ。
私は安心して、小さく笑った。
だがその時だった。
ふとバックミラーに映り込んだ賢人を見る。
そこには、佐藤二郎が・・・
