エッセイ『なぜ死ぬのか?』
私は1ヶ月ぐらい前に「なぜ生きるのか?」という記事を書いた。
だが、「なぜ生きるのか?」を考えるには、「なぜ死ぬのか?」も考える必要があるのではないか?と思った。
最近、東大の生物学の教授の講演を聞いた。
その生物学的な「なぜ死ぬのか?」の話が、自分の中で妙にしっくりきたので、少し話してみたい。
簡単に説明すると、教授曰く、人は進化するために死ぬのだという。
この世に、死なない生物は存在しない。
どの生物も、変化し続けるために生きている。
もし生物が死ななければ、進化は止まる。
古い情報だけが残り、新しい環境に適応できなくなる。
つまり「死」は、生物学的には欠陥ではなく、システムなのだ。
すごく納得できた。
生まれてから得た情報をDNAに刻み、後世へ繋いでいく。
強い遺伝子だけではなく、環境への適応や変化も含めて、命は少しずつ更新されていく。
だが、この話を聞きながら、私は少し違うことも考えていた。
哲学は、逆方向からこの問題を見ている気がする。
生物学は「種」を見る。
哲学は「個」を見る。
生物学は、「人類はなぜ死ぬのか?」を考える。
哲学は、「私はなぜ死ぬのか?」を考える。
ここが面白い。
例えば、生物学的には、人はただの生命活動だ。
細胞が生まれ、老化し、やがて停止する。
だが哲学になると、急に話がおかしくなる。
「そもそも死とは何か?」
「死んだ後、自我は消えるのか?」
「“私”とは何なのか?」
「眠っている時の自分と、起きている時の自分は同じ存在なのか?」
急に答えのない迷路に入る。
ニーチェは「永劫回帰」という考えを出した。
この人生が永遠に繰り返されるとして、それでも今を肯定できるか?という問いだ。
ハイデガーは、人は「死を意識するからこそ、本当の意味で生きられる」と言った。
逆に荘子は、生と死をそこまで分けて考えていない。
形が変わるだけだ、ぐらいの感覚に近い。
東洋思想は、死を“終わり”として見ないことが多い気がする。
私はこの辺りを考えていると、生物学と哲学は、真逆の方向から同じ山を登っているように思えてくる。
生物学は、死を「必要な機能」と説明する。
哲学は、死を「意味」に変えようとする。
どちらが正しいのかはわからない。
だが、どちらも人間っぽい。
人は、ただ生きるだけでは満足できない。
意味を欲しがる。
なぜ愛するのか。
なぜ働くのか。
なぜ苦しむのか。
なぜ死ぬのか。
ずっと理由を探している。
でも、もしかすると自然界は、そこまで深く考えていないのかもしれない。
桜は、「なぜ散るのか?」を悩まない。
猫は、「生きる意味」を検索しない。
風も、「存在意義」について議論しない。
意味を求め続けること自体が、人間という生き物の特徴なのかもしれない。
そう考えると、哲学もまた進化なのだろう。
肉体ではなく、“考え方”の進化。
子供ができなくても、考えを他人に伝えることで意志を残すことはできる。
誰かの言葉に救われる。
誰かの作品に影響される。
昔読んだ本の一文が、十年後の自分を支えていることもある。
それはDNAではない。
だが確かに、何かは受け継がれている。
人間は、遺伝子だけで進化しているわけではない。
思想。
文化。
芸術。
宗教。
哲学。
そういう「見えない遺伝子」も、人から人へ受け渡されている。
そう考えると、「死」は終わりというより、受け渡しなのかもしれない。
もちろん、死ぬのは怖い。
大切な人を失うのも嫌だ。
だが、もし誰も死ななければ、世界は完成された情報で埋め尽くされる。
古い価値観が永遠に残り続ける。
新しい思想が入り込む隙間もなくなる。
だから人は死ぬ。
空席を作るために。
次の誰かが、新しい世界を見るために。
命も。
感情も。
言葉も。
悩みも。
全部抱えたまま、次の誰かへ渡していく。
生物学は、それを進化と呼ぶ。
哲学は、それを人生と呼ぶのかもしれない。
