カステラ
ここ松山町の片隅に、小さなカステラ屋がある。
店の前を通ると、甘い香りが広がる。
店主は還暦を過ぎた、
斉木優(さえき・まさる)。
二人の娘は嫁に行き、
東京で暮らしている。
孫はまだよちよち歩きの男の子が三人。
陸軍大尉御用達の優のカステラ屋は、
戦火の中でも細々と営みを続けていた。
今朝も早くから仕込みに忙しい。
裏手のニワトリ小屋へ行き、
産み落とされたばかりの卵を一つずつ籠に入れる。
「今日もたくさんありがとね」
三年前に妻を亡くしてから、
優は一人で店を切り盛りしている。
卵を割り、生地を混ぜる。
貴重な砂糖を加え、ゆっくり、ゆっくりと混ぜていく。
窯に火を入れると、
やがて店いっぱいに甘い香りが漂い始めた。
「よし」
優は満足そうに頷いた。
戦争が始まってからというもの、
何もかもが手に入りにくくなった。
それでも優は、この店だけは閉めなかった。
妻と二人で始めた店だった。
そして優には、もう一つ理由があった。
いつか東京に店を出す。
それが優の夢だった。
戦争が終われば、
東京にいる娘たちの近くに小さな店を構える。
三人の孫にも、
自分の焼いたカステラを腹いっぱい食べさせてやる。
「じいちゃんのカステラは日本一ぞ」
そう言ってやるつもりだった。
東京の娘から届いた手紙は、店の奥に大切にしまってある。
『お父さん、こちらはみんな元気です。
子どもたちも大きくなりました。
いつか、お父さんのカステラを食べさせてあげたいです』
優は何度読んだか分からないその手紙を、今日も取り出した。
「もうちょっと待っとれ」
誰もいない店で呟く。
「戦争が終わったら、
じいちゃんが東京まで焼きに行くけん」
手紙を丁寧に畳み、元の場所へ戻した。
そして、再び仕事に戻る。
昭和二十年八月九日。
長崎の空は晴れていた。
いつもと変わらない夏の朝だった。
蝉が鳴いている。
遠くから人の声が聞こえる。
優は額の汗を手ぬぐいで拭いながら、
窯を覗いた。
いい焼き色だ。
もうすぐ焼き上がる。
しばらくして、
優は窯からカステラを取り出した。
ふっくらと膨らんだ生地。
香ばしい焼き色。
「よし。今日もよう焼けた」
優は笑った。
店いっぱいの甘い香り。
午前十一時二分。
突然、窓の外が光った。
優が最後に見たものは、
焼き上がったばかりのカステラだった。
――それから長い年月が流れた。
一人の男が長崎を訪れた。
東京からやって来たその男は、
かつて優が抱くことのできなかった三人の孫のうちの一人だった。
幼かった彼に祖父の記憶はない。
知っているのは、母から何度も聞かされた話だけ。
「おじいちゃんはね、
長崎でカステラ屋さんをしていたのよ」
「おいしかった?」
幼い頃、そう尋ねたことがある。
母は決まって笑った。
「そりゃあ、おいしかったわよ。
お父さんのカステラが一番だった」
祖父が
東京に店を出す夢を持っていたことも、
大人になってから聞いた。
しかし、その夢は叶わなかった。
店も窯も道具も、
そして
カステラの作り方を書き残したものも、
あの日、すべて失われた。
男は
祖父の店があったという場所に立った。
そこにはもう、
当時を思わせるものは何もない。
男は長い間、その場所を見つめていた。
やがて決心した。
「じいちゃん。俺が店をやるよ」
男は長崎に小さなカステラ屋を開いた。
何度も失敗した。
膨らまなかったり、焦がしたり、
甘すぎたり。
それでも焼き続けた。
ようやく
納得できるものが出来上がった日、
男は一切れを母に送った。
数日後、電話が鳴った。
「食べたよ」
「どうだった?」
男は少し緊張した。
「じいちゃんの味に似てた?」
電話の向こうで、
母はしばらく黙っていた。
「……違うね」
「そっか」
男は笑った。
少しだけ残念だった。
すると母が続けた。
「でも、おいしいよ」
その声は笑っていた。
「これは、あんたの味やね」
男は何も言わなかった。
ただ、店の奥にある窯を見つめた。
翌朝。
いつものように店を開ける。
卵を割り、生地を混ぜ、窯に入れる。
やがてカステラが焼き上がった。
店の前を、
小さな男の子と母親が通りかかる。
男の子が立ち止まった。
「お母さん、いい匂い」
母親も足を止める。
「カステラ屋さんよ」
店の中でその声を聞いた男は、
焼き上がったカステラを窯から取り出した。
ふわりと湯気が上がる。
甘い香りが店いっぱいに広がり、
開け放した戸口から外へ流れていく。
祖父の味を再現することは、
もう永遠にできない。
あの日、すべて失われてしまったから。
けれど――
昭和二十年八月九日。
斉木優が最後に包まれていたものも、
きっと……。
こんな甘い香りだった。
