モーさんの中国の歴史散歩 Part7:意外と身近な「北宋」の話
「宋」がいっぱい
歴史上、「宋」(そう)という国は複数存在します。何でそんなことになったのかと言いますと、まあ、宋というのが土地の名前だからです。ちなみに、私が知っている宋の国を列挙しますとこんな感じです。
①春秋時代の宋:とっても昔に存在した小国。大抵はこの国の人たちは笑い話のネタにされます。
②南北朝時代の宋:南北朝という名前の本家は中国です。
③唐の後釜として建国された北宋:とってもいい人が建国しました。何となく日本と関係があります。
④北宋が一旦滅んで出来た南宋:実はこの宋がとっても日本と関係が深いのです…。
とまあ、私が知っている宋の国はざっとこの4つになります。北宋と南宋は共に趙氏が建国していて、中の人たちは単に「宋」と言っているだけなのですが、学問上は通常別々の国として解釈されています。
今回、私がお話ししようと思うのは、趙匡胤が建国した北宋です。(南宋についてはまたいつかお話します)彼は非常に良い人なんですが、今回は彼についてではなく、彼が建国した国について書きます。北宋は日本とそれなりに関係のある間柄ですので、皆さんもこの国について知っておいても損はないと思います。飲み会で話のネタくらいにはなるかも知れませんが、真面目にネタに出してしまうと「ダサい」と言ってスルーされるのがオチかも知れませんね。まあ、人間のちょっとした探求心を満たすと思って、詰まらない私の話にしばしお付き合い下さい。
北宋は案外身近な国
「は?北宋だって。案外身近って言われても、そんなん知らんがな」
ちょっと待って下さい。そんなアナタも「機動戦士ガンダム」はご存じですよね?「オヤジにもぶたれたことないのに!」でお馴染みのアムロ・レイさんが登場する有名なアレです。そう言えば古谷さん、最近まで大変でしたね。身から出た錆とは言えね。まあ、それはおいて置いて、そのガンダムにですね、実はこんなシーンがあるんです。ちょっとご覧ください。
アムロの敵であるジオンの指揮官であるマ・クベ、まあこの人は冷血漢でとにかく小憎たらしい人なんですが、その彼が白い壺を指で弾いて何と言っているのか?はい、そうですね。
「北宋だな」
と言っているのです。彼は部下の生死には全く興味はないが、美術品には目が無いようです。果たしてこの壺が本当に北宋様式であるのかどうか、鑑定士ではない私にはさっぱり分かりません。(多分違うと思います)しかし、確かに北宋の白磁(白い陶器)はいまだにその美しさから高く評価されています。それにしても、日本の子供向けアニメに北宋なんていう世界史の専門用語をぶち込む辺り、仕事に手を抜かない富野由悠季監督だけはあります。当時、ガンダムはそのあまりの渋さに子供たちが着いて行けず、視聴率や玩具の売れ行きが芳しくなく、中途で打ち切られるという悲劇を味わいます。因みに、当時ガンダムを放送していたのは名古屋テレビです。ですので、ガンダムの故郷は名古屋なんですね。ガンダムのメモリアルイヤーには、等身大ガンダムを設置するなら、大阪万博ではなく本当は名古屋駅前が一番相応しいのですが、何故か名古屋には一体も無いんです。まあ、代わりにこんなスゴイ人形があるんですけどね。
※名鉄セブンが無くなるとどうなるんだろう…
しかし、ガンダムはそんな幕切れを迎えたにも関わらず、皆さんもご存じの通り、その後人気が爆上がりし、現在は大変な隆盛を誇っています。これも富野さんが子供向けだからと言って、決して手抜きしなかったことが幸いしています。何でも目先を考えて行動してしまうと、その場だけでの盛り上がりで終わってしまいます。富野さんのように、「物事の本質」を見据えた行動が、最終的な勝利を呼ぶのです。私たちも人生において、是非富野さんのスタンスを取り入れたいですね。
何と商魂逞しいバンダイナムコは、著名な陶磁器メーカーであるノリタケと共同で壺を開発し、販売していたようです。(現在は販売停止)
※かなりの高額ですが…
しかも、私の尊敬するオタクである岡田斗司夫氏によると、この壺がどうやら小道具としてあのNHK大河ドラマに出演していたというのです!
岡田氏によると、頼朝(演:小栗旬)が宋の高名な職人(陶器の)に会うためのアイテムとしてこの壺を用意していたようです。北宋で作られた壺ということでね。それを私(頼朝)は持ってます。中国大好きってことを頼朝はアピールしようと思ったようですが…。この壺の存在を知ってる人にはたまらないシーンです。NHKも中々やりますね。
これは聞いた話なんで裏取りはしていないのですが、どうやら歴代中国王朝で役人の給料が一番高かった王朝は北宋なんだとか。とにかくお金持ちの国だったと言うことですね。確かに、北宋の初期は名君が並び立ったこともあり、治安もすこぶる良くて商業活動が盛んでした。人間、生命の安全が保障されると、仕事にいそしみますよね。身体の不安が払しょくされない内は、落ち着いて仕事が出来ません。経済を活性化させるには、先ず民草のあらゆる不安を取り除くことが重要でしょうね。不安のない社会が、白磁のような美しい陶器を生み出す源になっていたのでしょう。心の余裕が無いと、こうした芸術作品は生まれにくいですからね。
日本と中国の貿易?
北宋と日本の関係で有名なのが、何と言っても平清盛による「日宋貿易」ですね。皆さんも歴史の授業で勉強されたでしょう。いわゆる“大輪田泊”、つまり現在の神戸港のはしりを作ったのが清盛です。彼はここを拠点に貿易の利を得ていたのです。その意味で、清盛は神戸の発展の基礎を築いた人と言えそうです。この貿易は、中華皇帝と天皇との対等な貿易ではなく、僧籍に入った清盛が宋の担当者と行うという形を取っています。この辺、ちょっと複雑な事情があるので、メチャクチャ噛み砕いて説明しますね。専門家の方、どうぞお許しください。異議のある方はご自身のnoteでそうぞ。
当時の中国では、中華皇帝は「世界で一番偉い人」と考えられていました。日本でも、天皇は一番偉い人と考えられています。もし、対等に貿易するとなってしまえば、中華皇帝と天皇とどっちが偉い問題が起こります。決着がつきそうもない問題です。両方偉い、ということに出来れば良いのですが、なかなかそうもいきません。そこでその家臣たちがやります、という体にすれば、お互いの国の面子が保たれるというわけですね。あともう一つ理由があります。昔の中国は基本的に貿易を認めません。儒教を奉じる中華皇帝が卑しい商売をすることは無いのです。儒教はお金を稼ぐことを良しとはしていません。(あくまでも建前です)確か、キリスト教もそんな感じだと思います。ユダヤ人が商魂たくましいのは、キリスト教徒が嫌がってやらなかった金融業に積極的にトライしたからだ、と聞いたことがあります。
しかし、貿易をしないと他国の物品が流通せず国内は潤いません。じゃあどうするのか。「朝貢」の見返りとして、皇帝が物品を下げ渡す形を取るんです。朝貢とは、他国が皇帝のご機嫌伺いに来る際に贈り物を持って来ることです。皇帝はその返礼として、何倍もの物品を返します。「朕は太っ腹なんだぞ」というアピールですね。明らかに中国にとっては輸出超過で赤字です。基本的に物々交換なので出す方が多いのです。しかし中華皇帝にとって、自身の「徳」を他国に示すよい機会なのです。朝貢する側にとっては、中国から莫大な富を得られるわけですから実に美味しい話なのです。ところが、天皇が中華皇帝に朝貢することは出来ません。それでは天皇の方が「格下」と思われてしまいます。ですから清盛が代わって貿易をやるわけです。日本はこうして遣唐使が廃止になってから、久しぶりに大陸と交易を再開することになります。
清盛に関しては“かむろ”を洛中に放つなど、かなり強引な政治を行った人ですから毀誉褒貶あるわけですが、少なくとも源頼朝への橋渡しをした人として、日本史には欠かせない人物だと思います。あの当時、貴族の下で実際に民草に接していたのは武士たちでした。彼らは民情に通じていたのです。貴族にとって、毎日宮中で歌を詠むことが「政治」でした。なにせ当時の日本は「言霊」の国なので、口に出したことが現実になると信じられていましたから。なので「こうなれば良いなあ」と歌に詠めばそれが現実になると思われていたんですね。また出世争いという「政局」に明け暮れ、疫病が起きても、その対処はほぼ武士たちにお任せでした。一方、「疫病が早く収まってくれたら良いなあ」そんな歌を詠んで、言霊によって疫病が鎮まることを願っていたのが貴族です。そんな状況が長く続けば、当然武士たちに政治への意欲と野望が生まれても何ら不思議はありません。清盛はそうした武士たちの合意形成を上手く成し遂げました。日本史上初めて武士による政治を行うに至ります。しかしやがて平氏は公家化し堕落します。平氏以外の武士たちの平氏への怒りや不満の受け皿になったのが頼朝でした。彼は江戸時代に続く「幕府」という概念を日本にもたらした革命児でした。徳川家康が頼朝を尊敬していたと言いますが、幕府の生みの親は頼朝ですからね。才人は先人から多くを学び、自らの人生に活かすのです。それが歴史の効用の一つでもあります。
「芸術家」によって滅んだ北宋
北宋は遼や西夏、金などと言った異民族によく攻められた国でした。最終的にとどめを刺したのは金です。北宋はそんな異民族にどう対処していたのか?北宋は歴代王朝の中でもとりわけ軍隊の弱い国でした。なぜか?それは初代皇帝趙匡胤(ちょうきょういん)の方針だったからです。彼は大変に賢く、また人徳に優れた皇帝でした。唐が節度使という軍人の権限が強大化したことによって滅んだ教訓に鑑みて、宋では軍人ではなく、文人を重視する政策をとったのです。ですので、北宋は文化的な発展が著しかったんですね。商業が発展したのもそういうこともあったかもしれません。趙匡胤は、家臣たちを言論を理由に死刑にしないことを決めていたようです。皇帝だけが見ることの許される碑文にそう書いてあったそうです。例え皇帝に反対意見を述べたとしても、流罪にはなっても死罪になることはありませんでした。家臣たちはその碑文を見ることはありませんが、薄々はそういう暗黙のルールがあることは知っていたでしょう。こうした気風は後の南宋にも引き継がれます。しかし、何事もやり過ぎはよく有りません。家臣たちの論争が激しさを増し政治が混乱する事態も招きます。(新法と旧法派の争い)軍隊が脆弱ですので、異民族が攻めて来てもロクに撃退出来ないのです。じゃあどうするか?そうです。お金で解決するんです。「これだけ納めますので攻めて来ないでね」というわけです。そんなことをしても、北宋はお金がありますので、何とか国を保つことが出来たんですね。ところがです。偶然にも最悪の皇帝が即位したことにより、あっさりと滅んでしまうんです。美術に詳しい方ならご存じでしょう。そうです。芸術家皇帝徽宗(きそう)の誕生です。
※国を亡ぼすために生まれた男…
彼は元々皇帝になれる人ではありませんでした。ところが兄の哲宗(てつそう)が嗣子のないまま25歳で崩御したため、弟であった彼が即位したのです。最初こそ政治に意欲を見せ名君の片りんを見せたかと思いきや、途中で飽きてきたのでしょう。大好きだった書画にうつつをぬかすようになります。彼の画才はまさに天才的な物で、日本にある彼の書いた「桃鳩図」は国宝に指定されています。優れた芸術家だったんですね。彼は芸術活動の資金を稼ぐべく、民衆に重税を課します。その裏で暗躍したのが、「水滸伝」で有名な蔡京(さいけい)や宦官の童貫(どうかん)たちでした。徽宗にとって、彼らは金のなる木として無くてはならない人物でした。しかし民衆にとっては殺しても飽き足らない存在だったでしょうね。北宋は徽宗が登場するまでは、異民族にちょっかいを出されていても、繁栄の極みだったと言えます。ところがこの人が皇帝になると、まるでバブルが弾けた日本のようになってしまったんですね。国のお金を彼がどんどん吸い上げて行ったような感じです。ただでさえ北宋は軍隊が弱い。おまけに金にも困るようになる。とどうなるか?はいそうですね。滅亡します。金ズルではなくなってしまったので、金の太宗に都を攻められて一発アウトです。なんと徽宗をはじめとする王室の面々が金に拉致されてしまいます。この事件を世に靖康の変(せいこうのへん)と言います。北宋はこうして滅亡しますが、趙氏の一族が奇跡的に生き残り、南へ逃れ南宋を建国します。この南宋はまた日本と関係があるんですが、それはまたの機会に書くことにします。
今回は少し長くなったので、この辺りでお暇します。
恐々謹言
