岡本太郎的「伝統」感に乾杯!
私は岡本太郎さんが好きなんです。何でかって?だって何もかもがぶっ飛びだもん。破壊的なんだけど、あの人は何もかもが温かいんです。包み込んでくれる優しさがある。何物もとりこぼさない。もちろん太郎さんの描くアートも好きだけど、あの人が書いた本も面白いんですね。何冊か読んでますけれど、今回は太郎さんの書いた「誰だって芸術家」をご紹介します。
※あのタローマンがついに映画化…
私は“日本人”として生まれましたけど、いわゆる日本の「伝統芸能」ですね、例えば雅楽とか、歌舞伎、人形浄瑠璃、能、まるでダメなんですね。こういう古くからの日本の「美」を理解出来ない私は、人間としてアウトなんだろうかと昔からちょっと気になっていたんです。そしたら太郎さん。そんな悩める私を救ってくれたんですね。
日本のように伝統についてうるさくいうくせに、その本質を見誤っている文化国は珍しいんじゃないだろうか。
偏見のひとつは、伝統とは過去の出来事だと思いこんでいることだ。だから、とうぜん古めかしい。
こむずかしい知識を身につけたインテリとか、しぶい着物など着て能楽堂へでも出入りしている高尚な人だけに関係した問題で、満員電車でもみくちゃにされて通勤したり、喫茶店で恋人と待ち合せたり、そのへんをぞろぞろ歩いている一般人とは全く無縁という感じである。
日本の伝統はつまり骨董品的な意味で古い人たちに珍重され、高く買われている。一方に、またその故にこそ若い世代には敬遠され、軽蔑されている。つねになまなましく生きるべき伝統が不幸にもゆがめられているのだ。
太郎さんは、どうやら「伝統」は常にブラッシュアップされなければならない、と考えているようです。そのままを真空パックしたような物を後生大事にするのではなく、私たちの現在の視点を加味しながら、「正しい眼で過去と未来をにらみ合わせ、己の責任においてそれを引き受けるところのみに生きる」とも書いています。歌舞伎は、時事ネタを取り入れながら常に観客との間合いを意識して変化し続けいるようなので、その意味では太郎さん的「伝統」に位置付けられるかもしれませんね。他の日本の伝統芸能はどうなんでしょうね。
太郎さんは、日本の伝統は明治維新で一旦シャッフルされたと考えているようです。つまり、それまで和服が基本だった日本人が、明治以降は背広を着てステッキを持ち、町を闊歩するようになった。廃仏毀釈によって、仏像が多く姿を消した一方、ギリシャ・ローマ時代の彫像が多く日本に渡来。葛飾北斎、写楽や喜多川歌麿のような浮世絵の世界観が、一気に西洋絵画のそれに塗り替わってしまった…。
文学だって、源氏物語が日本の誇りだとか、新古今だとかいうが、だれがそれをほんとうに熱愛し、感動し、それによって人格形成をされるのだろうか。
それよりもスタンダール、ヴァレリー、ドストエフスキー、サルトルでも、フォークナーでもかまわない。多少のインテリなら、若い日、むしろそういうものに夢中になり、自分の魂がひらかれ、性格が形づくられ、創作意欲がうまれる、そういう経験を持たなかった者はいないだろう。音楽でも、ベートーヴェンやショパンよりも第何世常盤津文字兵衛のほうがピンとくるなんていう若者は珍しい。
仰る通りですね。確かに、源氏物語には敬意を持って尊重はしますけど、私個人にとってそれが人格形成の主体になっていることはないです。私の場合はフロイトであり、円谷英二や富野由悠季、モーツァルトですね。ああそうだ、水木一郎アニキも欠かせない。こうした明治以降に日本で醸されたコンテンツによって人格が形成されたわけで、源氏物語を始めとする日本の過去の所産は、知識や経験の一環ではあっても、それで大きく人格が左右されたとは思わない。そう考えると、太郎さんの書いていることに説得力を感じますね。しかし、太郎さんは別に過去の所産の良し悪しを論じているのではなく、単純に「事実」を述べているに過ぎないのです。
どうしても日本の伝統というと、奈良の大仏だとか、茶の湯、能、源氏物語というような、もう現実的には効力を失っている、今日の生活とは無関係なものばかりを考えなければならないのだろう。そういう狭い意味の日本の過去だけが我々の伝統じゃないのだ。
私が生まれて初めて聴いた音楽は、恐らく母親が歌った子守歌だったはず。しかし、物心つく頃に私が手にした音楽は、水木一郎アニキや堀江美都子さんが歌う「アニソン」だった。こうした音楽を全身に浴びながら、小学生になるとドボルザークの「新世界」に感化され、クラシック音楽の世界へと足を踏み入れる。もうあれから40年以上の月日が流れた。考えてみると、私にとっての「伝統」とは、アニソンでありクラシック音楽。だからこそ、私は今それっぽい楽曲制作を人生の柱の一つにしているのだと思います。本来、伝統とはこのように、人間の人生を大きく揺るがす物だと太郎さんは言っているんですね。だからそれは日本国内で限定されない、もっとグローバルな意味で、アクティブであり進歩的であり、決して古来からの物をそのままにしておくものではない、と説いています。
ですから、日本人だからといって、別に雅楽が理解出来ないからダメということはないと太郎さんは私に「赦し」を与えてくれたわけです。雅楽じゃなくてベートーヴェンだってモーツァルトだって一向に構わないと。
われわれは日本人である。千利休のような審美眼を持ち、奥の細道みたいな気分になり、モノノアワレを打ち出し、ユーゲンな味をこめ、そういう土台にのっとって、ひろく世界に通じるような仕事をしようという考えだ。
私の体には、間違いなく先祖伝来のDNAが刻まれているんですね。だから、先祖が感じただろうモノノアワレやユーゲンな世界観は、やっぱり私にもそれなりに遺伝しているでしょう。世の中に多くの作家やアーティストが存在しますが、そこから生み出されたものが、やがて伝統として残る。そんな感じなのかも知れませんね。伝統は全く揺れ動かない物ではなく、むしろフレキシブルな存在なのかも知れません。
私の好きなクラシック音楽にも、太郎さんの論理は通じるだろうと思います。全く昔から変わらない物をそのまま演奏する、のではなく、指揮者や演奏家の解釈を入れながら常に「変化」させて新しい物を生み出す。一見変わっていないように見えても、漸次的に変化している世界。確かに、20世紀においてシェーンベルクが十二音音楽を創始し、ドラスティックに変わってしまったことにより、「いったん幕を閉じてしまった」(吉松隆)かも知れませんが、そうした変化もファンは柔軟に受け入れ、崩壊することなく現在も楽しまれています。
「いまさらこんな古典的なフレーズを作っても意味がない」とある人に言われたこともありますが、太郎さん的発想で切り返すならば、アニソンやベートーヴェン、モーツァルトを土台にして生みだされた私のフレーズは、漸次的に変化した伝統的なモノであり、決して過去に取り残された因習的なモノではないのです。ですから、意味がないと切り捨てたこの手の発想こそが、伝統をはき違えた固定観点ということになります。
ですから、日本古来からの伝統芸能は、私にとって知識であり、経験の一環を成すものに過ぎないのです。
岡本太郎さんに私は救われたというお話でした。
「Zのテーマ」
作詞:小池一雄 作曲・編曲:渡辺宙明 歌:水木一郎
私の「伝統」は確実にこの人たちによって形成されました。ああ、アニキよ永遠なれ…
恐々謹言
参考文献:岡本太郎著「誰だって芸術家」(SB新書)
