正論のナイフを置く、言語も肉体もない世界へ
言語化すればするほど、書けば書くほど、
自分がモノ化していく。
モノ化しちゃうの止められない。
それが気持ちよくて。
正論というナイフを投げるのをやめれるか?
今はそうしないと前に進めない、強くなれない気がしている、だからしている。そうやって、言語化の鎧で、自分を囲んで、檻の中に閉じこもって、強くなった気でいる。それが知性化の呪いだ。
もっとお母さんに愛されたかった、抱きしめられたかった、置いてかないでほしかった、ひとりにしないでほしかった、愛して欲しかった、がんばって生きてる私を、がんばってるねって、ただ、だれかに褒めてほしかった。
お父さんに、お父さんでいてほしかった。
家族なんて、ただの演じ合う記号でしかなくて、役割分担なんて仮面でしかないなんて、そうやって、強がって、ほんとは、役割とか記号から解放された、だれでもない、ただの私として、愛されたい、ってだけで、それを、ほんとは隠さなくていい。そうして、ただの何者でもない私を愛してくれたら、また、気持ちよく役割にもどれるものを。
ただ、愛されたい抱きしめられたいだけなのに、自分も他人も記号化して、モノ化して、そうすることで、私はいったいだれに復讐しようとしてるんだろう。
自分か、親か、あるいは
満たされなかった幼い過去の自分か?
社会のせいにしてる。
言語は、なんで、言語はこの世界にある?なんのために言語はある?私を守ってくれて強くしてくれるためにある?
けど、言語は、私を、どんどん孤独にしてく。言語がない世界にいきたい。言語もモノも役割もない脱ぎ捨てた裸になった世界で、ただ、本能のまま、溶け合いたい。けど、肉体がある限り、いくら交わろうとしても、男と女っていう記号でしかなくて、どこまでいっても。おっぱいがついてるし、ちんこがついてる。
からだ 谷川俊太郎
男が男のからだのかたちしてしか
生きることのできないのはくやしい
かたちのないこころだけであったなら
もっと自在にあなたと交われるものを
だがことばよりくちづけで伝えたいと
そう思うときのこころのときめきは
からだなしでは得ることができない
いつか滅ぶこのからだなしでは
こころがどこをさまよっていようと
こころがいくつに裂けていようと
女がただひとつのからだのかたちして
いま私のかたわらにいるのはかなしい
私がいつも抱えている、肉体という「檻」への絶望。
男が男のからだのかたちしてしか
生きることのできないのはくやしい
この一節を読んだとき、心臓を直接掴まれた気がした。
心には形なんてなくて、本当はどこまでも無限に広がっていけるはずなのに、この肉体は「男」とか「女」っていう特定の「かたち」に私を固定して放さない。
心は男なのに、身体は女。そんな違和感の中で、自分という存在がただの「記号」に成り下がっていくような、あの削られるような苦しみ。
もし、心が形のない霧みたいなものだったなら、誰かと境界線なく混ざり合えるのに。でも、実際には「皮膚」という厚い壁があるせいで、僕たちはどこまでいっても、たったひとりの「個」として隔てられてしまう。
その逃げ場のない孤独を、谷川さんは「くやしい」なんていう、短くて、でも、痛切な言葉で突きつけてくる。
だがことばよりくちづけで伝えたいと
そう思うときのこころのときめきは
からだなしでは得ることができない
でも、詩はそこで終わらない。
言葉なんて所詮は記号だ。頭でこねくり回して理解するだけの、乾いたツールに過ぎない。
だけど「くちづけ」や「触れ合い」は違う。肉体を通した、ごまかしのきかないダイレクトな体験。
どれだけ魂が自由を叫んだところで、心臓のドクドクいう音や、指先の微かな震え、肌のじわっとした温もり……。そんな「生きて震えている実感」だけは、いつか滅びてしまうこの不自由な器がなきゃ、絶対に味わうことができない。
「からだ」は魂を閉じ込める檻であると同時に、この世界で誰かと触れ合うための唯一のインターフェースでもある。
なんて美しくて、冷たくて、残酷な事実なんだろう。。。
最後の一節は、この詩の中で一番深い。
女がただひとつのからだのかたちして
いま私のかたわらにいるのはかなしい
ここで使われている「かなしい」は、単なる悲哀ではい。古語の「愛(かな)し(=愛おしくてたまらない)」というニュアンスも含んだ、「根源的な寂寥感」だ。
目の前の愛する人が、宇宙に、ただ一つの「女というからだのかたち」を持って存在している。それは、彼女が「自分とは別の人間である」という動かしようのない事実の証明である。
どんなに愛していても、彼女の痛みを自分のものとして感じることはできないし、彼女の肉体と完全に一つになることもできない。その埋めようのない距離感を認めざるを得ないことが、美しくも「かなしい」のだ。
肉体という形を持っている限り、永遠に叶わない」ことを残酷に描きつつ、同時に「だからこそ、今ここで触れ合う瞬間に命が燃えるのだ」と僕たちの生を全肯定している。
言語化っていう知性で神に近づこうとすれば、心はさらに引き裂かれて、孤独はどんどん深まっていく。
かといって、肉体っていう感覚に戻れば、今度は「男・女」という記号の檻が僕を待ち構えている。
この詩が僕の心をほどいてくれるのは、「その板挟みになって悶えることこそが、人間が生きているということなんだよ」と、僕の「くやしさ」や「かなしみ」をそのまま肯定してくれているからかもしれない。
この詩がすきだ。 私が私で、僕が僕でいい、
男とか女とか、そういうのに囚われたくない、ってそうじゃない世界で、ひとつになりたいって私の願望を具現化してくれたような、
心見透かされたような詞。
心がほどけていく。
言葉もいらない、肉体もいらない、役割のない、世界に生きたい。
それが、そのエネルギーの発露の仕方が、
自己をモノ化して破壊するか、正論で、他者を攻撃するか、言語化して極限まで研ぎ澄まさせて精神をフワっとさせるあの脳内の瞬間なのか。けど、言語はやっぱりどこまでいっても言語だから、哲学者や思想家は、言語で神になろうとするけど、言語で神にはなれないんだよ。言語で神になろうとすること自体、愚弄だし、自惚れだし、西洋的すぎる。
自然とか宇宙っていう大きなものをもっと想像すればいい、日本人は、八百万の神みたいに、天とか山とか空とか火とか、畏怖すべき大きな自然とかに思いを馳せてきた。西洋人は、自然を管理してコントロールしようとするし、神も、どこかモノ化してる。自然科学とかもそうだよね。だから日本には、哲学があまり浸透しなくて、西洋哲学が発達したのは、そういう自然に対する捉え方の違いが根底にある。
哲学やればやるほど、思想やればやるほど、言語の檻にこもればこもるほど、神を信じれなくなるのだ。自分すらもコントロールしようとするから。神っていう、自分を超越した、得体の知れないものに、身を預けることが、できなくなってるんだ。
だから、私は、教会で、神様の庭で、
自然に触れる造園を10年くらい続けてる。
自然に触れて、澄んだ空気の御神域で、
御守護神様の存在を、肌で感じる。
そうすることで、私の鎖とか鎧みたいな、
かちかちに固まってた神経が、
緩やかに、光に包まれるように、
あったかいものに包まれて、ほどけていく。
言語をつかえば、繋がれる気がして、本物に触れられる気がするけど、触っても触っても、そこには実態が無くて、形がなくて、幽霊で、やっぱりどこまでいっても、救われなかった僕たちがいるだけなんだ。
使えば、愛される気がするし、救われた気がする、だけど、言語を使えば使うほど孤独になってくし、けど、そうしないと強くなれないし、前に進めないんだ、僕たちは。
がんじがらめで、苦しいね。
けど、神に守られた世界には、
言語なんて槍や鎧はいらないんだよ。
心も、身体も、ほどけて、
あったかい、ただ、じんわり
大きな安心感の中に包まれて、
満たされてく、
心がどんどん透き通って、
細胞一つ一つが呼吸して、
息を吹き返して、
癒されてくような、自然とか宇宙に
魂が親元にただいまって帰るような。
そういう感覚。
そういっても、やっぱり、
そこに居るのが居心地がいいんだね君は。
私が私を闇から引きずり出すみたいに。
私がだれかの手をひっぱって引きずり出せるような、救える存在になりたい。
それが言語の檻にガチガチにかためられた
牢屋の中に君がいるなら、私はいったい
どうやって、檻を破ればいいんだろう。
深淵をのぞきこむときに、自分もまたその深淵に呑み込まれてる、みたいな話、ニーチェの言葉にあったけど、
闇から救おうとして、気づけば自分も闇に呑み込まれてるようじゃ、いつまで経っても救えない。
けっきょく、闇にいる自分が好きなんだ、
だから、闇に引きずり込まれそうな人や
状況を選ぶ。不幸の再演してるだけで、
ほんとは愛されなかった自分を焼き直ししてるだけだ。やってること、お母さんにお菓子かってもらえなくて、スーパーの床で駄々こねてる3歳児となにも変わらないね。
赤ちゃんとか小さい頃って、お母さんとか、
神に守られてたのに、言語を手にしたとたん、自意識とか、欲とか、そういうのに翻弄されて、気随気儘に、感情に支配されて、神に見放されたんだ。
罪深いな。
もっと、世界は単純なのに。
世界を複雑にしてるのは、私たちだ。
私の好きな曲、
溶け合って、意識が、超越できる。
これ聞いて、身体を横にして預けてみよう。
今日はもう、ただ、思考のなかを
垂れ流して、ありのままの感情を、
ただ、あるがまま、解き放って、
みつめて、
今日だけは、そっと
正論のナイフを、置いてみる。
