第11回 信じる自由、信じない自由
くらしの中の日本国憲法
戦後80年・昭和100年 <特別企画>
第11回
日々の暮らしの中に、憲法のまなざしを。
前回は、心の中までは誰にも支配されない、という話をしました。
何を考えるか。
何を疑問に思うか。
何を大切にして生きるか。
どのような良心に従って、自分の人生を歩むか。
そうした心の中の領域は、人が人として生きるために、とても大切な場所です。
憲法19条は、思想及び良心の自由を守っています。
では、その心の中の自由と深くつながるものとして、もう一つ、憲法が大切にしているものがあります。
それが、信教の自由です。
日本国憲法20条には、こう書かれています。
「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。」
信教とは、宗教を信じること、信仰を持つことに関わる言葉です。
神仏を信じること。
祈ること。
教えに従って生きようとすること。
祭りや儀式に参加すること。
自分の心の支えとして、何かを大切にすること。
そうしたものは、人の内面に深く関わっています。
人は、何を信じるかによって、生き方を考えることがあります。
苦しいときに、何に支えられるか。
大切な人を失ったときに、どのように受け止めるか。
自分の命を、どのように考えるか。
他の人と、どのように向き合うか。
善いこと、悪いこと、正しいことを、どのように考えるか。
宗教や信仰は、ただの知識や習慣ではありません。
その人の生き方や、心の奥深くに関わることがあります。
だからこそ、国が、
「この宗教を信じなさい」
「この宗教を信じてはいけません」
「信仰を持ちなさい」
「信仰を捨てなさい」
「この祈り方だけが正しいです」
と決めてよいものではありません。
何を信じるか。
あるいは、何も信じないか。
それは、その人の心の深いところにある自由です。
信教の自由とは、宗教を信じる自由だけではありません。
宗教を信じない自由も含まれます。
特定の宗教を選ぶ自由。
別の宗教へ変わる自由。
どの宗教にも属さない自由。
信仰について、人に強制されない自由。
信仰を理由に、不当に差別されない自由。
そうした自由を含んでいます。
ここは、とても大切です。
憲法が守っているのは、「信じる人」だけではありません。
信じない人も守っています。
ある宗教を信じる人も。
別の宗教を信じる人も。
どの宗教も信じない人も。
まだ分からないと思っている人も。
それぞれが、一人の人間として大切にされなければなりません。
第10回で見た、思想及び良心の自由と同じです。
人の心の中に、国が土足で入ってはいけない。
その考え方は、信教の自由にもつながっています。
また、憲法20条は、ただ信仰の自由を認めるだけではありません。
国と宗教との関係についても、重要な一線を引いています。
憲法20条には、次のような内容も定められています。
「いかなる宗教団体も、国から特権を受けてはならない。」
「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。」
「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」
少し難しい言い方ですが、これは、国が特定の宗教と結びつきすぎてはいけない、ということです。
これを、政教分離といいます。
政教分離とは、政治と宗教をまったく無関係にしなさい、という単純な意味ではありません。
人の暮らしの中には、宗教や信仰に関わる行事や文化があります。
寺や神社があります。
教会があります。
祭りがあります。
葬儀や法要があります。
地域の歴史や文化と結びついた行事もあります。
それらが社会の中に存在すること自体を、憲法が否定しているわけではありません。
大切なのは、国が特定の宗教を特別扱いしたり、国民に特定の信仰を押しつけたりしないことです。
国が、ある宗教を「正しいもの」として特別に扱う。
国が、ある宗教団体に特別な利益を与える。
国が、特定の宗教の教えを国民に広めようとする。
国が、信仰を持つことや持たないことによって、国民を違う扱いにする。
そうなってしまえば、信教の自由は弱くなります。
なぜなら、国には大きな力があるからです。
国が特定の宗教に近づきすぎると、その宗教を信じていない人は、居心地の悪さを感じるかもしれません。
自分はこの国の中で、少し外に置かれているのではないか。
自分の信仰や、信じないという立場は、大切にされていないのではないか。
そう感じる人が出てくるかもしれません。
また、国や政治の権威が、特定の宗教に重なることで、その宗教が特別に正しいもの、国に認められたもののように見えてしまうことがあります。
政治家の名前。
国の施設。
公的な行事。
行政との近さ。
権力を持つ人との関係。
そうしたものが宗教団体の信用のように使われると、人は断りにくくなることがあります。
本当は疑問があるのに、国や政治と近いものだから大丈夫なのだろうと思ってしまう。
本当は負担が重いのに、断ることが悪いことのように感じてしまう。
本当は家族が苦しんでいるのに、信仰や献金や活動を続けなければならないと思い込まされてしまう。
そのようにして、人の暮らしや家庭が傷ついていくことがあります。
だから、政教分離は、単なる形式の問題ではありません。
国や政治の権威が、特定の宗教の信用として使われ、その宗教を結果として援助し、助長し、促進するように働くことを防ぐための仕組みでもあります。
国と宗教が近づきすぎることで、宗教の側が国の権威をまとい、人の心や生活に強い力を持ってしまうことを防ぐための仕組みでもあります。
信教の自由を守るためには、国が特定の宗教に肩入れしないことが大切です。
それは、宗教を軽く見るためではありません。
むしろ、信仰が人の心に深く関わる大切なものだからこそ、国の力から距離を置く必要があるのです。
宗教は、国に命令されて信じるものではありません。
信仰は、権力によって整えられるものでもありません。
祈りは、国が決めるものではありません。
だからこそ、国が特定の宗教と結びつきすぎないようにする。
それが、政教分離の大切な意味です。
このことは、戦前の日本の反省とも関係しています。
戦前の日本では、国家と宗教的なものとの結びつきが強くなり、国民の心のあり方にも大きな影響を与えました。
国のためにどう考えるべきか。
何を敬うべきか。
どのような心を持つべきか。
そうしたことが、「国の方針と結びついていった時代」がありました。
国のために命を捧げることが尊いものとされ、その死が宗教的な意味づけと結びつけられることがありました。
特定の場所や儀式に敬意を示すことが、国を大切にすることと重ねられることもありました。
そこに従わない人が、国を大切にしていない人、反国家的な人のように見られる空気が生まれることもありました。
そうなると、信仰や儀式は、個人の心の問題だけではなくなります。
国が、人々の心の向きまでそろえようとする力になってしまいます。
もちろん、今の社会とその時代は同じではありません。
けれど、国が人の信仰や心のあり方に深く入り込むとき、自由はとても弱くなります。
信じることも、信じないことも、国に命じられるものではありません。
だから、日本国憲法は、信教の自由を保障し、国と宗教との関係にも一線を引いているのです。
ここで、少し身近な場面で考えてみます。
学校で、特定の宗教を信じることを強く求められたらどうでしょうか。
職場で、ある信仰を持っていることを理由に、不利に扱われたらどうでしょうか。
地域で、みんなと同じ宗教行事に参加しないことを理由に、責められたらどうでしょうか。
家族の中で、信じることや信じないことを、無理に押しつけられたらどうでしょうか。
宗教や信仰は、とても大切なものだからこそ、無理に押しつけられると、人の心を深く傷つけることがあります。
反対に、信仰を持っている人を、ただそれだけで笑ったり、怖がったり、変わった人だと決めつけたりすることも、よいことではありません。
信じる人を軽んじない。
信じない人を責めない。
違う宗教を持つ人を、すぐに遠ざけない。
そこに、信教の自由を支える態度があります。
もちろん、宗教の名を使えば、何をしてもよいという意味ではありません。
人を傷つけること。
財産をだまし取ること。
人の自由を奪うこと。
恐怖や不安で人を支配すること。
子どもや弱い立場の人を追い詰めること。
そうしたことまで、信教の自由で守られるわけではありません。
信仰の自由は大切です。
けれど、その名のもとに、他の人の命、身体、財産、自由、尊厳を傷つけることが許されるわけではありません。
ここも、自由を考えるうえで大切な区別です。
心の中で何を信じるかは、強く守られます。
けれど、その信仰を理由に、他の人を支配したり、傷つけたりする行為まで、すべて認められるわけではありません。
これは、第10回で見た思想及び良心の自由とも同じです。
心の中は、誰にも支配されない。
けれど、行動として外に出るときには、他の人の自由や権利と向き合う必要があります。
信教の自由も、その中で考える必要があります。
ニュースを見るときにも、この視点は役に立ちます。
その政策は、特定の宗教を特別扱いしていないか。
その制度は、信仰を持たない人を置き去りにしていないか。
その言葉は、ある宗教を信じる人を一方的に悪者にしていないか。
その批判は、宗教を利用した問題を指摘しているのか、それとも信仰そのものを否定しているのか。
政治と宗教の距離が近くなりすぎていないか。
国や政治の権威が、特定の宗教の信用として使われていないか。
その関係が、特定の宗教を援助し、助長し、促進するように働いていないか。
そう問い直してみる。
それだけでも、憲法は少し身近になります。
信教の自由は、とても繊細な自由です。
なぜなら、それは、人の心の奥深くに関わるからです。
人は、何を信じるかによって救われることがあります。
祈ることで、心を整える人がいます。
教えに触れることで、生き方を考える人がいます。
大切な人を失った悲しみを、信仰の中で受け止めようとする人がいます。
何も信じないという立場の中で、自分の人生を真剣に考える人もいます。
そのどれもが、人の生き方に関わっています。
だからこそ、簡単に笑ったり、押しつけたり、奪ったりしてよいものではありません。
信じる自由。
信じない自由。
信じるものを変える自由。
信仰について、沈黙する自由。
そのどれもが、人の尊厳に関わっています。
憲法20条は、その自由を守っています。
そして同時に、国が特定の宗教と結びつきすぎないように、一線を引いています。
それは、宗教を排除するためではありません。
一人ひとりの信仰や、信じないという立場を、国の力から守るためです。
国がどれほど大きな力を持っていても、踏み込んではならない場所があります。
何を信じるか。
何を信じないか。
どのように祈るか。
祈らないことを選ぶか。
その場所もまた、人の心の中にあります。
信じる自由、信じない自由。
それは、私たちが一人の人間として生きるための、憲法からの大切な約束なのです。
佐藤秀光
戦後80年・昭和100年 特別企画
「くらしの中の日本国憲法」
