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妖怪図鑑「月詠」

妖怪名:「月詠」
仮装者:Liz



ある時代。都には多くの陰陽師が仕えていた。
彼らは式神を従え、災いを祓い、怪異を鎮めることを務めとしていた。
呼び出す式神の格は、そのまま陰陽師の力量を示すものとされていた。


ある日、ひとりの陰陽師が式神を呼び出した。
 現れたのは、蝶であった。 
力も弱く、低級の式神。 それも、影のように黒い姿をしていた。

それを見た陰陽師たちは、あからさまに嘲った。 
「それで何を祓うつもりだ」
 「そのようなものでは、風すら払えまい」
黒い蝶は、不幸を運ぶものとしても知られていた。 
そのようなものを呼び出してしまった陰陽師のもとからは、人が遠ざかっていった。 
やがて彼は、独りとなった。
 そればかりか、幼稚な嫌がらせまで受けるようになった。
それでも彼は、困ったように笑うだけであった。 怒ることも、嘆くこともなく、ただ穏やかに。
それでも、蝶は彼のそばに在り続けた。 はたはたと小さな翅を揺らし、孤独となった主に寄り添うように。
陰陽師は、その蝶を家族のように愛していた。 
「ああ、愛しい月詠。そんな顔をしないでおくれ。 お前はこんなにも強く美しいというのに。 私などのそばに居てくれて、ありがとうね」
そう語りかける声は、柔らかく、静かであった。


やがて彼は、ひとりで任を受けるようになる。 
ある夜、都の外れにて、小さな怪異が現れた。
 名もなきそれは、他の陰陽師が取り合うほどのものではなかった。 
彼は、月詠とともにそれに向かった。
影が揺らぎ、気配が満ちる。 
術を放とうとしたそのとき、蝶がふわりと舞い上がった。 
ただ、それだけのことであった。 
しかし次の瞬間、怪異はかき消えた。
何が起きたのか、彼には分からなかった。 
それでも確かに、そこに何かが通ったように感じられた。 
「……月詠か」
 彼は静かに笑い、蝶を見た。

都へ戻り、そのことを語っても、返ってきたのは冷笑であった。 
「偶然だ」
 「そのようなものに力があるはずがない」
彼はただ、穏やかに頷くだけであった。
 証明しようとも、反論しようとも思わなかった。
 ただ、月詠のそばに在ることが、彼には十分であった。


それでも彼は、任を受け続けた。
 小さな怪異を祓い、夜を巡り、ただひとりで務めを果たしていく。
嫌がらせは、やむことがなかった。 それどころか、日を重ねるごとに増していった。

ある夜のことであった。 帰路につく彼を、複数の陰陽師が取り囲んだ。
「まだ続けているのか」 
「恥を知れ」
 「そのような式神、とっとと祓ってしまえ」
言葉が、降り注ぐ。 彼はただ、困ったように笑っていた。 
怒りもなく、涙もなく。 ただ穏やかに、そこに立っていた。

その肩に、黒い蝶がとまっていた。
ニンゲンフゼイガ
それは、弱い。 揺らぎ、濁り、形を保てぬもの。 それに触れ、それを受け、それを蓄えた。
はじめは、ただ寄り添うために。 
ただそれだけのために。

しかしそれは尽きることなく流れ込み、満ち、やがて溢れた。
あたたかい。 やわらかい。 けれど、重い。
声をあげたもの。嗤ったもの。拒んだもの。 障りとなるものが、そこに在った。
ニンゲンフゼイガ
黒い翅が、静かに広がる。
それは愛であった。 確かに、愛であった。 しかしもはや、形を保てなかった。
溢れ、広がり、すべてを満たしていく。 等しく。すべて。
――主もまた。
黒いものが、静かに広がる。 抗うものはない。拒むものもない。 ただ、在るべき形へと還るだけであった。
やがて、そこには何も残らなかった。 ただひとつ。 それだけが在った。
それは知らない。 主がなぜ、いなくなったのかを。 ただ、在るだけであった。 かつて愛したものの、名前さえも忘れて。


――かくして。
大きな呪いと化した黒い蝶の式神は、 愛ゆえに暴走し、 あまつさえ主さえも喰い尽くし、 何ものも失われたその果てに、 ただ独り、在り続けたのだという。



筆者:55番
仮装者:Liz
写真:泥パン


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