この世に「正解」はあるのか。今日も脳内で、二人の私が囁き合っている。
脳内の二面性と、答えのない世界
「正解を教えてほしいよね」
「いや、正解なんてないんだよ」
今日も私の脳内では、二人の私がせっせと会議を開いている。それも、耳を塞ぎたくなるほどの大音量で。
この囁きは、日常のあらゆる瞬間に忍び込んでくる。デスクでPCに向かってカタカタとキーボードを叩いている時、誰かと他愛のない会話を交わしている時、人生のちょっとした分岐点に立って何かを決断しようとする時。
そして――仕事で手痛い失敗をして、帰り道の夜風に吹かれている時は特に、彼(?)らは容赦なく、代わる代わるに囁きかけてくるのだ。
「……正解が知りたい」
それが本音だ。喉から手が出るほど、誰もが納得する『模範解答』が欲しい。
けれど同時に、心のどこかで冷徹に理解している自分もいる。そんなものは、おそらくこの世界のどこを探しても転がっていないのだと。
だって、もしもこの世のあらゆる事象に「たった一つの正解」が存在するのだとしたら、人類はとうの昔にそれを見つけ出しているはずだ。そして、義務教育の教科書にでも載せて、全員がその正解に沿って、波風の立たない平穏な社会を築き上げているに違いない。
そうなっていないということは、つまり、そういうことだ。
特に、私がこれまで関わってきた「教育」や「保育」、そして今向き合っている「事務」という仕事。これらはどれも、めくるめく『正解のない世界』のグラデーションの中に存在している。
ある人にとっては涙が出るほど救われる「正解」の行動が、別の人にとっては顔をしかめたくなるような「不正解」になる。そんな矛盾に満ちた日々の中で、私は今、激しく揺れ動いている。
窓際のあの子と、書類の山
少し具体的に、私の脳内会議の様子を覗いてみてほしい。
例えば、保育や教育の現場にいた時のこと。
夕方の教室、自由時間。クラスの端っこ、窓際でポツンと一人、ミニカーを走らせている男の子がいた。周りの子たちは楽しそうにブロックで大きなお城を作っている。
私の脳内の「正解を欲しがる私」が焦って声を上げる。
『みんなの輪に入れるように声を掛けようかな。協調性を育てるのも保育の大事な仕事だ。』
しかし、もう一人の私が冷ややかに引き止める。
『待って。彼は1人遊びが好きな子だ。参加を強制するのは私のエゴでしょ?』
結局、私は声をかけずに少し離れた場所から見守ることにした。男の子はとても楽しそうにミニカーで遊んでいた。
楽しいのなら良いか。と、その時は「見守って正解だった」と思えた。しかし、お迎えに来た保護者の方に「うちの子、今日も一人ぼっちでしたか?ずっと一人で遊び続けるから、小学校に上がってもそうなんじゃないかって心配で……」と不安げに聞かれた瞬間、私の胸はチクリと痛む。
保護者の方にとっての正解は「先生が間に入って、お友達と遊ばせてくれること」だったのかもしれない。私の正解は、誰かの不正解になる。
失敗の夜、鳴り響くサイレン
特に心がすり減るのは、明確な「失敗」をやらかした時だ。
先週、事務のルーティンワークの中で、データの入力漏れという凡ミスをしてしまった。幸い、実害が出る前に先輩が気づいてフォローしてくれたのだが、その時の申し訳なさと情けなさといったらなかった。
「どうしてちゃんとしなかったの」と自分を責める。
すると脳内の会議は、収拾のつかない大炎上へと発展する。
「さらっと教えられていざ実践とかあり得ない!慣れていないうちはダブルチェックを徹底するとか、仕組みを作るのが正解だよ!」
「いやいや、チェックを増やしたらその分業務が圧迫されて、また別のミスを生むよ」
「じゃあ、こんなこともできない私は向いてないってこと? 仕事を辞めるのが正解?」
「極論に逃げるな!」
脳内で鳴り響くサイレンに耳を塞ぎたくなる。
正解が知りたい。
誰か私に、「こうすれば100点満点だよ」「あなたは間違っていないよ」と書かれた、判子付きの証明書をくれないだろうか。
ぐるぐると同じ場所を回り続ける思考のループ。夜、ベッドに入っても天井を見つめたまま、二人の囁き声は止まらない。
正解がない、という「救い」
しかし、そんな眠れない夜の果てに、ふと、視界が開けるような瞬間が訪れた。
それは本当に、暗闇の中に一筋の光が差し込むような、奇妙な感覚だった。
「……待てよ」と、私はベッドの中で寝返りを打つ。
もしも、この世に「たった一つの絶対的な正解」がないのだとしたら。
それは一見、暗闇の荒野に放り出されたような絶望に思えるけれど、見方を変えれば、ものすごく「自由」で「優しい」ことなのではないだろうか。
教科書通りの正解がないということは、裏を返せば、「誰も私に『お前は100%不正解だ』と断罪することもできない」ということだ。
窓際の一人の男の子を見守ったことも。
ミスをして落ち込み、次への対策を必死に考えていることも。
それらはすべて、ある側面から見れば間違いなく、私がその時、その場所で、一生懸命に導き出した「その時点での正解」だったのだ。
誰かにとっての不正解を恐れるあまり、何もできなくなる必要なんてない。
だって、何をどう転んだって、全人類を同時に満足させる「正解」なんて、この世のどこにも存在しないのだから。むしろ、「正解」がないから、「正解」に近づかんと皆努力するんじゃないかなって。「正解」がないことは、間違いでも、悪いことでもない。
軽やかになった足取りで、明日へ
そう気づいた瞬間、胸の奥に詰まっていた重たい塊が、すうっと溶けていくような気がした。肩の力が、すとんと抜けた。
相変わらず、私の脳内には二人の私が住み着いている。
明日もきっと、仕事のデスクで、あるいは誰かとの会話の途中で、「正解はどれだ」と騒ぎ始めるに違いない。
でも、これからの私は、そんな脳内の二人に対して、ちょっと生温かい目で見守ることができそうだ。
「はいはい、また始まったね」と。
二人が騒ぎ始めたら、それは私がそれだけ真剣に、目の前の仕事や、目の前の人に向き合っている証拠なのだ。
正解を探し求める旅は、これからも続く。
けれどそれは、耳を塞ぎたくなるような苦しい強迫観念ではなく、今日はどんな答えを作ろうかという、少しワクワクするようなクリエイティブなプロセスへと変わりつつある。
明日、オフィスのドアを開けたら、まずは目の前の書類に笑顔で向き合ってみよう。
完璧な正解なんて求めない。
ただ、今の私が「これがいい」と思える選択を、一つずつ、丁寧に重ねていくだけだ。
