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読みたいものは書けない、読みたくないものは書かない

noteにおけるTips(ティップス:秘訣)として語られるひとつに「読み手が読みたいことを書く」というものがある。確かにそれはそうだと思うし、じっさい、目的を持って読みに行く人というのはかなり存在していると思う。

反面で「どうでもいいことを読みたい」と書いている投稿にも定期的に出会う。フォロワーの多寡に関係なく書かれている印象だし、きっと長く書いている書き手が投稿しているのだろうと思う。

ただ、ちょっと意地悪な気持ちで考えると、本当にそうなの?とツッコみたくなる。

確かに、ハウツーとか、本質論とか、私なりの新解釈とか、華々しい話題や書きぶりに心を揺さぶられることもある。それらを批判するつもりはないが、そういうものばかり読んでいたら、疲れてしまうだろう。

個人的な意見だが「どうでもいいことを読みたい」という投稿の意図は、なにより書き手として、力まずに書ける「どうでもいいこと」を肯定して(読んで)もらわないと困る、という思いがあるのだろう。

でも、立ち止まって考えてみると「どうでもいいこと」というのは、実はとても難しい。それが「どうでもいい」と判断するのは、常に読み手であると思うからだ。

結果的に「どうでもいいこと」を書いているように見えるだけで、書き手はもしかしたら真剣に悩んでいるのかもしれない。そう考えると、少しずつ怖くなってくる。

これは僕の経験だけれど、自らのことをわざわざ書くのに、自らがどうでもいいと思っていることは“実は”書けないのではないかとさえ思う。例えば、

「子どもが転んで、泣いちゃったんですよ。」

と書いてあっても、読み手によって感想が変わることは、想像しやすいと思う。

「かわいそう!」
「あるあるだよねー」
「懐かしい」
「だから何?」
「どうでもいい」などなど。

実際にはこんなに短い投稿は少なくて、ここから展開していくのだけれど、こういう話が「どうでもいい投稿」になるのかどうか、疑問なのである。

極端に考えると、どうでもいい投稿に対して、コメント欄に、愛を込めて「どうでもいいわ(笑)」みたいに書いてあって、書き手も「ですよね」というやりとりがあれば、相互に「どうでもいい投稿」になり得るが、実際の投稿でその現象が起きているのを僕は読んだことがない。

だから、どうでもいいことを読みたい、という投稿には、書き手としての自分の投稿は大したことないから…という謙遜?卑下?のような意味合いがあるのではないかと思っている。

冒頭で、読み手が読みたいことを書く、を紹介したけれど、僕自身も毎日投稿してきても、読み手が読みたいことを書いた、と自信を持って言えるのは数えるほどしかない。

テーマを絞らずに自分の思いつきで書いているけれど、家族や仕事、本に料理、モンブランのことなど、意外と範囲は狭い。固定記事は妻からのリクエストに応える形で書いた投稿だけれど、あとは、ほとんど誰からも「書いて」と請われていない。

個人的には「これはどうでもいいな」と思うことは書いていないはずだ。書いている時には「どうでもいいことだけど」と思っていたかもしれないが、読み返した時に、あぁ残っていて良かった、と感じられる価値があるのだ。

もう消してしまったが、ある夜、ちょっとしたハプニングについて投稿したことがあった。トラブルというほどではないけれど、気分を害した出来事について注意喚起のつもりで書いたが、あれはあまりよくなかった。

きっと誰かのnoteで、同じような内容の投稿を読んだら、僕はいい気分にはならなかっただろうと思う。恐怖からくる怒りが滲み、冷静さを装いつつも相手を否定して安心したいという気持ちが透ける投稿は、気の毒に思うかもしれないけれど、気分は晴れないだろう。それが本当の意味で「どうでもいいこと」になるのかもしれない。

もちろん、フォローしていたり交流があったりする方が、困っていたり実害があるというのなら、怒りを共有したり、気持ちの備えみたいな意味で、価値はあるのかもしれない。ただ、やっぱりそれも”読みたくはない”、と思う。


いつも読んでくださる方が、また今日も書いてるな、今日は何を書いているんだろ…そんな気持ちで来てくださっていることに感謝している。読みたいことがあれば、ぜひリクエストを(笑)

ネタバレなど「これは読みたくなかった」と思わせてしまった投稿もあるかもしれないし、読み手を傷つけてしまう話題をしているかもしれない。ちょっと不安になってきた…とはいえ、あの投稿を最後に、自分自身が読みたくないものは書かないことにしている。

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もつにこみ 最後まで読んでいただき、ありがとうございました! いただいたチップは、モンブラン研究費用や子どものおやつ代にします(笑)