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市役所壁画 3

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3.新しい庁舎

1988年 川崎市役所職員

「川崎市助役へ一億円の利益供与疑惑」

朝日新聞のその見出しに、市民にも職員にも激震が走った。助役が未公開株の供与を受け巨額の利益を得ていたというスクープ記事だった。かわさきテクノピア計画の一端である、幸区堀川町地区の開発にあたり、民間企業に便宜を図ったとの報道であった。

当初は、自治体幹部と民間企業の贈収賄事件として報じられたものの、次第に疑惑は広がり、首相経験者を含む政治家たちが紙面を騒がせた。それら一連の汚職事件はのちに「リクルート事件」と呼ばれる。

職員のトップである助役が逮捕され、市民からは市役所職員まるごと不信感を向けられてしまうこととなった。ほかにもいるのでは、隠蔽体質があるのでは、我々の税金はきちんと使われているのか、様々な場所で職員たちに厳しい視線が向けられることとなった。

奇しくもその年、狭隘となった市庁舎の新築計画が進んでいた。まちづくりの開発に併せ、自治体の機能を強化していく、つまり新しい庁舎を建てることは、この時代の定石でもあった。

税収もふんだんにあり、また防災や街づくりの観点から新しさが優先されていた。しかし、そんな時期に起きた事件は、新しい庁舎の建設という明るい未来に、暗い影を落とさざるを得なかった。

1990年 川崎市役所職員

新しく建つ庁舎には、それこそいまの川崎を勇気づけるような力が必要だった。

高度経済成長期のめざましい発展と、公害による安全な暮らしの崩壊を経て、川崎は生まれ変わろうとしていた。数々の企業を誘致し、働く人のまちづくりを進めていく。働くために集まった人たちが眠る街を、自然の残る北部に徐々に広げていく。東京と横浜に挟まれた地の利を生かして、いままさに発展していこうとしていた矢先、あの事件が起こってしまった。

職員たちは街で後ろ指をさされ、根も葉もない噂に心を痛めていたかもしれない。たった一人の過ちが、市役所で働く全員に暗い影を落としてしまった。それまで生活を支えている裏方としての働きぶりは注目されていないのに、悪いことが起こった途端に注目されてしまうのは、公務員という仕事がやはり特別だと思われているからかもしれない。

僕は、あの日、上野駅まで行って見た壁画を思い出していた。猪熊弦一郎という画家の作品がそこにはあった。新聞の記事から彼の名前を知って、手記を読むうちに作品が観たくなり、画家としての彼の人生にも思いを馳せるようになった。

奇しくも、新しい庁舎には、パブリックアートを取り入れる方針が決まり、入口を通ったロビーのエリアに大きな壁画を描くためのスペースを作ることが決定したばかりだった。

猪熊弦一郎の作品が持つ力強さはいうまでもない。挑戦的な美への葛藤は常に進化し、新しさを抱きつつも、これからずっと残っていくこの庁舎という拠り所を、華やかにそして強く勇気づけてくれるはずだ。あの壁に、まっさらな壁に、彼はどんな絵を描いてくれるだろう、どんなふうに勇気を表現してくれるのだろう。

職員だけではない、市庁舎に訪れた市民だって、彼の絵を目の当たりにしたら、呆然としてしまうかもしれない。それでいい。どこの美術館も海外の有名画家の展覧会を開くことに必死で、日本人画家の知名度は低い。しかし、彼はそんな有名無名では価値が図れないほどに、作品の力が強い。新しい市庁舎は、新しい川崎への決意表明でもあった。

新市庁舎の壁画は、誰にでも描けるものではない。こんなに大きな画面を埋められるのは、相当の技術と経験がいるはずだ。製作期間はたっぷりあっても、川崎市役所に相応しい作品が期待されている。

課長と二人で猪熊さんを訪ねた。事前にお手紙などで、壁画の制作依頼はしているものの、ご本人からの返事ははっきりと聞いていない。また、制作にあたって、猪熊さんが不安に思っていることを確認したかった。

「こんにちは。川崎市のかたですね。」

玄関に出てこられたのは、猪熊さんご本人だった。87歳だと聞いていたけれど、そうは見えなかった。まず、とても姿勢が良かった。声色も明るく、はっきりとしていた。メガネをかけていたけれど、目がしっかりと開いていて、爛々としていた。絵を描く人の観察眼や好奇心は、人一倍優れていると言われているが、この人の目はとても印象的だった。

猪熊さんが会ったと書かれていたマティスの目も、ピカソの目も、きっとこんな眼をしていたのだろう。見たままを描くのではない、その物に宿っている神を、まとっている空気を見せてくれるのが、彼らの作品だから。

「新しい市庁舎に、私の絵を描かせていただく、ということですね。とても嬉しいことです。どうぞおかけください」

こちらの緊張を見透かしたように、結論から言ってくださった。ふっと肩の力が抜け、課長も僕も相好を崩した。

「川崎市の鈴木です。このたびはお引き受けいただきありがとうございます。」

「同じく、川崎市の岡村です。先生の書かれた日経新聞の“私の履歴書”を拝読しておりました」

「それはそれは。お若いのに。あれを書いていたのは随分と前のことでしたが。そうですか、読んでいただきましたか。」

猪熊さんに依頼すべきだと、課長を説得したのは僕だった。日経新聞に連載されている著名人の手記「私の履歴書」に画家が書いていると父親が教えてくれた。スクラップして、猪熊さんの記事だけを集めていたものを読んでいた。紙面で語られていた口調よりも柔らかく、表情も穏やかに見えた。

課長が続けた。

「さまざまなご経験を経て、これまでのご活躍があり、今回のような大きな作品をいくつか手がけてこられたことが、我々にとっても安心できることなのです。どうか、存分に腕を振るっていただけますと幸いです。」

猪熊さんは、昨年行われていた横浜博覧会で見たロボットの数々に感銘を受けたと語られていた。空想の中の物が、実物となって動き出していた様子にとても興奮してしまったと笑う姿は、著名な画家というよりも、新しいものが好きな子どものようにも見えてくるようだった。

「画家という仕事は定年がないから、描き続けていかないとならないんですよ」

猪熊さんの手記を読んでいて、ずっと心に残っているのは「絵には勇気がいる」という言葉だった。

新しいもの、美しいもの、常識と闘って得られるもの、それら様々なものを描き出すとき、勇気がなければできない、ということだった。猪熊さんは、海外への遊学も経験され、偉大な画家たちとも親交を深めていた。それらの芸術家たちからも、勇気をもらったと語っていた。

「本市は、数年前にあった幹部職員の汚職事件の汚名がまだ尾を引いていて、なんとなく職員の間でも元気がないというか、未来に向けた活力のようなものが影を潜めてしまっている状況です。どうか、我々職員に勇気を与えてくれるような、来庁した市民の皆さんに希望を感じてもらえるような、猪熊さんの考える川崎らしい壁画にしてください。」

つい、聞かれてもいないのに自分の思いを語ってしまった。猪熊さんは驚かれていただろう。

猪熊さんは、30年ほど前に川崎市内の津田山にあった工場の跡地で制作したことを話してくださった。上野駅にある、あの壁画「自由」を制作した場所だ。手記でも目にしていたが、戦後、あのあたりは軍需工場の跡地が広がっていたらしい。

手記にはなかったが、当時その作品に関する事故でお弟子さんを亡くされていた。お弟子さんには、1歳になるお子さんがいたとも仰っていて、本当に申し訳ないことをした、と悔やまれていた。


1991年 猪熊弦一郎

思いがけず、また川崎で仕事をすることになった。

思えば、さまざまな人の目に触れる作品を作りたいと願ってから、多くの人たちに恵まれて、作品を作り続けられている。額縁の中と違って、公共の場で見てもらえる作品は、空気にふれ、季節や気候に惑い、光に晒されて劣化してしまう。しかし、それが時間というものであり、生活というもののような気がするのだ。

人が老いていくように、作品も時を経て変化していくことで、芸術がもっと人間に寄り添うように、特別なものではなくなっていくはずなのだから。

40年前、津田山にあった日本光学の工場で「自由」を制作した後、すぐに山下君の葬儀があって、ご婦人と言葉を交わしたような気もするが、もうほとんど覚えていなかった。

ただ「まだ未熟だった山下の仕事を、猪熊先生に認めていただいたこと、山下はそれを何よりも喜んでいました。」と言っていたことを、僕は都合よく解釈している。

あの日、僕の作品を守ろうとした山下君の思いは、とても嬉しかった。でも画家として活躍する山下君の未来の作品を観られなくしてしまった僕の責任は重く、ご婦人にもきっと夫の命を奪った悪魔のような存在だと恨まれているだろうと、悔やんだ。

アトリエに残されていた、山下君の作品を梱包して、詫び状とともに送った。

あの赤ん坊も、大きくなっているだろう。ご婦人の言葉通りだとすれば、絵描きになっているのだろうか。彼の絵の温かさ、優しさを今でも思い出せる。彼にしか描けなかった絵があったのに、僕はほんとうに申し訳が立たない。

あの日、私の手記を読んでくださったと言っていた職員さんの眼差しが、とても山下君と似ていることに気がついて、僕は思わず昔話をしてしまった。せっかくのめでたい話しだったのに、湿っぽいことを言ってしまったのは失敗だった。

絵を描くには、勇気がいる。

それは、絵だけではないのかもしれない。事件をずっと引きずっている彼らの心はどうだ。世間の目が厳しい彼らの仕事もまた、勇気のいる仕事なのかもしれない。

「新しい」はとても難しいことだ。それは「美しい」にも似ている。美は、時代とともに今とともに、変化している。それを目で判断し、絵に描いて表現することが、絵描きとしての僕の仕事なのかも知れない。

これから先、新しい川崎に向かっていく絵はどんなふうだろうか。職員の皆さんが、市役所に来た人すべてが、その絵を前にした時に、どんなふうに思ってくれるのだろうか。

考えていたことの全てをこの画面に収めるため、スケッチを書き、これまで何度も描いてきた犬や鳥、そして顔も見直した。動物がロボットになること、それらも描くとすれば、単なる機械であるべきではない。命は残っているし、残すべきだと思っている。

人の存在は絶対だ。市役所という大きな存在であるとしても、そこには人がいる。か弱き人、しぶとき人、さまざまの人が働いていて暮らしている。

ロボットは、新しい時代の希望かも知れない。しかし、やはりこれからも人間なのだ、心なのだ。

人間の勇気が必要だ。

もし、あの赤ん坊が絵描きになっていれば、そして川崎に住み続けていたなら、いつか届くのかもしれない。山下君のことを詫びるだけでは許されないことだと分かっているけれど、あなたが健やかであってほしいと、僕はずっと願っている。

最後に仕上げたパネルの裏に「幸子さん江」と走り書きをした。赤ん坊だったのはもう40年以上も前のことだ。上野駅の「自由」は観ただろうか、そして、この壁画も観てくれるだろうか。


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