海苔巻きから肛門までの危機管理
人類が過酷な自然界を生き延びられたのは、最悪の事態を想定する「危機察知能力」があったからだと言われている。
現代において、私ほどこの能力を研ぎ澄ませている人間もそういないだろう。
たとえ、目の前の敵が猛獣ではなく「海苔巻き」だったとしても。
日曜日、息子たちが友人宅へ遊びに行くというので、リクエストに応えて海苔巻きを持たせた。
「これさえあればヒーローだぜ!」と鼻息を荒くして出陣する息子たち。しかし、彼らを見送り、皿洗いを始めた瞬間に「それ」は降りてきた。
海苔巻きで、大惨事に…!!
脳裏をよぎる、おぞましいシミュレーション。ふと思えば、今日の酢飯はいつもより水分が多く、粘り気が強かった。おまけに噛みちぎりやすい海苔は使っていない。
しかも食べるのは我が子だけではない。友だちまでもが私の海苔巻きで…。
こうなると、もう恐ろしい展開しか思い浮かばなかった。
過去に息子が2度、肉を詰まらせたことがある。あの時の凍りつくような感覚。これは決して笑い話ではない。
私は吐き気をもよおした。
居ても立ってもいられず、息子の友人宅へと車を走らせた。ドアをノックし全員の無事を確認する勇気はなかった。
きっと大丈夫、そう自分を言い聞かせ、友人宅の前で一時間ほど不審者のように張り込んだ。
昼過ぎまで監視を続け、救急車が来ないことを確認したあと、私はようやく帰路についた。
そんな私の過剰な生存本能は、残酷なまでに長男に遺伝していた。
水曜日の夕方は、息子たちのキックボクシングの練習がある日だ。
ボクシングジムまでは車で10分、夕方の時間帯は交通量が多い。それなのに、長男はトイレに篭ってしまった。早めに出ないと、遅刻してしまう。そう思った私は彼を急かし、プレッシャーを与え続けた。
苛立った長男は「もう少しだから」と怒りをにじませていた。
これ以上急かしたら、出るもんも出なくなる、そう思い、先に車に乗り込み待っていた。
数分後、薄っすらと額に汗を浮かべた長男が猛ダッシュで車に飛び込んできた。
手を洗った形跡はなかった。
信号待ちの静寂の中、助手席の長男が顔を歪めて呟いた。
「……ケツの穴が、痛い」
きっと、肛門への配慮を欠いた拭き方をしたのだろう。人は何気なく肛門を拭いていると思いがちだが、実は便と肛門と呼吸、この3つを無意識に合わせている。長男の場合は急かされた為、そのリズムが狂ったのだ。その結果、摩擦が強くなってしまった。
そして、経験豊富な私は、それが一時的な痛みだということも知っている。
共感を忘れない私は、精一杯長男に寄り添った。
私「わかるよ、わかる〜!!火傷みたいにヒリヒリするよね。でも大丈夫、死ぬことはないから!」
励ましのつもりだった。
しかし、この「死」というワードが、彼の脳内の「危機察知スイッチ」を押してしまった。
長男「え、お尻の穴が痛くて…死ぬ…?」
みるみる青ざめる長男。沈黙ののち、彼は車内で盛大に嘔吐した。
結局、月謝の1回分をドブに捨てるハメになった。
そして私の予想通り、家に引き返した頃には、長男の尻の痛みは引いていた。
長男が言った。
長男「さっきは本当に痛くてさ、死ぬかも…と思ったら、怖くて気持ち悪くなっちゃって」
やはり遺伝だ。尻の痛みから「己の死」までを数秒で結びつけるその飛躍した想像力。
間違いなく私の血である。
長男「こんなにすぐ切れちゃうなんて、俺の尻も大したことないな。これから、あと何回拭かなきゃいけないんだよ」
絶望する長男に、私は43年間のキャリアをかけてエールを送った。
私「息子よ、案ずるな!私の肛門を見ろ、(※ 実際に見せてはいない)43年間現役バリバリだよ?意外とタフだから大丈夫!」
そこへ、何も知らない夫が帰宅した。
長男と私のやりとりの一部始終を聞いていた次男が、夫に駆け寄り、純粋な瞳で尋ねた。
次男「ねえ、肛門ってどうやって鍛えればいいの?」
凍りつく空気。
夫が殺意の宿った目で私を睨みつけた。
そこへ、一部始終を黙って見ていた長女も参戦してきた。父親そっくりの冷めた目で、夫に向かって言った。
長女「あなたの妻、大丈夫?」
私「つまらないことは言うな」とっさに、そうダジャレで答えた。
誰も笑ってはくれなかった。
それにしたって、人生とは、思い通りにはいかないものだ。
丹精込めて育てた子どもに、よりによって自分のクソみたいな部分だけがしっかり遺伝してしまうのだから。
でも、きっと私の良いところだって遺伝しているはずだ。
…その前に良いところなんて、あるだろうか?
43年現役バリバリのエリート肛門はどうだろう。
それで全部チャラにならないだろうか。
なんのはなしですか。
