仮面と鎧
【あらすじ】
「踏み込まないこと」で自分を守ってきた男が、ある飲み会で一人の女性と出会う。気づけば、仮面と鎧が剥がれ落ちていた。
遠距離の彼氏がいると知りながら抑えられない感情。海外出張の空の下でも、頭を離れない彼女のこと。告白と、拒絶。それでも止められなかった、みっともないほど正直な言葉たち──。諦めようとするたびに、心は揺り戻される。
理性では分かっている。でも心が追いつかない。感情が制御できなくなるとはどういうことか。距離を失った人間は、どう壊れていくのか。そして、壊れた先に何が待っているのか。
これは、壊れながらも正直であり続けた男の恋の記録であり、その正直さに彼女が応え、二人で完結させた記録でもある。
※この物語はフィクションです。
序章 ── 手を振ったあの日
結婚を考えていた彼女に振られてから、四年ほどの歳月が経った。
彼女は職場の同僚だった。部署は違ったが、綺麗で可愛らしい人で、仲の良い同僚といつも一緒にいた。だから私は、話しかける隙もなく、特別意識することもなかった。
そんなある日、その同僚が会社を辞め、彼女が一人でいる時間が増えた。ちょうどその頃、たまたま書類を渡す機会があった。そこには彼女の写真が貼られていた。
踏み込まない人間
私は普段、感情をあまり表に出さない。淡々と仕事をこなし、仲の良い同僚や上司とは冗談も言うが、自分から輪を広げることはしない。「取っつきにくい」「何を考えているか分からない」──そう思われていることも自覚していたし、ある意味でそう振る舞っていた。基本的に人の目を見ないのも、その一つだ。相手の表情を読み取ってしまうからだ。幼少期から相手の顔色を伺う生き方をしてきた分、正確に感情を読み取れる。だから本気のとき以外は目を見ない。無意識に読んでしまうことが、両刃の剣になると知っているからだ。
私は昔から、「踏み込まないことでバランスを取る」タイプだった。あるテストで知ったことがある。私は親密になってはじめて力が出る人間で、それまでは半分も出せない。慎重な性格、とも言えるだろう。ただ正確に言うと、距離を縮めること自体が苦手なわけではない。空気を読んで、タイミングよく動くことはできる。相性の良い相手かどうかも、早い段階で見抜ける。ただ本当の意味で踏み込む段階になると、どこかで及び腰になってしまうのだ。
幼少期、近所に住む一つ年上のお兄さんを、本当の兄のように慕っていた。いつの間にか疎遠になったが、鬱陶しいと言われたような記憶がある。その記憶は曖昧で──もしかしたら、思い出したくなくて、どこかに蓋をしてしまっているのかもしれない。中学生の頃、たまたまその人と道で再会した。友人と一緒だった私は、何も喋らなかった。奇妙な間があったが、友人に「行こう」と誘われて、そのまま何も言わずその場を離れた。
それ以来、踏み込んだ付き合いをしていない気がする。社会人になった今はなおさらだ。皆が様子を窺いながら、暗黙のうちに牽制し合っている。そういう空気が、私には手に取るように分かる。
なぜ自分はこれほど人の目が気になるのだろうと不思議に思い、睡眠カウンセリングを受けたことがある。そのとき見えたのは、赤ん坊の自分が強く泣いているのに、母が電話をしていた光景だった。そのイメージが何を意味するのか、私には分からない。分からないまま、ずっと抱えている。
可愛いいですね
話を戻そう。書類を渡したとき、そこに貼られていた写真を見て、何となく惹かれるものを感じた。相性の良い相手かどうか、早い段階で分かる私の癖が働いた。だから意図的にアンカーをかけた。そのとき、私は意図して彼女の目を見た。普段は見ない。でもあの瞬間だけは、確かめたかった。普段なら絶対に言わない言葉を、あえて口にした。
「可愛いですね」
写真を指しながら、書類を渡した。彼女は仏頂面で仕事をしていたが、その言葉に気づくと、驚くほど嬉しそうな笑顔と目を見せてくれた。あれ?思っていた反応の、何倍もいい。下手したら笑顔の下に嫌な目をされると思ったのだ。
その日の夕方、彼女は書類を記入して持ってきてくれた。どこか嬉しそうに見えたその姿に、私はまた、普段はしない行動に出た。
「今度、一緒に出かけませんか?」
言った瞬間、鼓動が一気に高鳴った。しかし彼女は、迷いなく「はい」と答えてくれた。嬉しさで声が上ずりそうになり、思わず取り繕ったのを覚えている。
それから二回ほどデートを重ね、私たちは付き合うことになった。時間を重ねるごとに互いの相性の良さが分かり、自然と惹かれていった。彼女は一見きつそうにも見えるが、実際はとても優しく、気配りのできる人だった。私はその後、一年ほど、穏やかで満たされた時間を過ごした。ちなみに社内では、誰にも気づかれなかった。私はそういう「普通にいること」が得意で、感情も表に出さない。誰も疑いすらしなかった。
母親という壁
関係が深まるにつれ、結婚を意識するようになった。しかし、彼女には大きな壁があった。それは、母親の存在だった。いわゆる「母の言葉は絶対」──今の時代には珍しいかもしれないが、田舎出身の彼女にとってそれは本当に大きなことだった。彼女は成人前に父を亡くし、母と親類によって育てられていた。そして彼女は、そんな母と親類を、深く愛していた。
私は彼女の母に何度も接触を試みたが拒まれ、仕方なく手紙を書いて送った。だが、返事は一度もなかった。そんな状態が続く中、彼女からこう言われた。
「実家へ戻る期限が来たので、もう会えない」
彼女が母親を大切にしていることは、よく分かっていた。だから私は、「分かった」と、あっさり引き下がった。そうして、別れることになった。
空港、手を振る
しばらくして、彼女が仕事を辞め、飛行機で実家へ帰ると聞いた。私は空港まで送らせてほしいと頼んだ。最初は断られたが、「これで最後だから」と伝えると、最終的には承諾してくれた。
空港までの道中、会話はほとんどなかった。チェックインを終え、搭乗口で別れることになった。私は握手をして、「元気でね」と笑顔で送り出すつもりだった。しかし、搭乗口に入る直前、彼女は突然、激しく泣き出した。
正直、驚いた。少しうろたえた。でも、その瞬間、自分の気持ちがはっきりと分かった。
──ああ、やっぱり好きなんだ。
どうして、もう少しだけ頑張らなかったのだろう。
目頭が熱くなった。少しだけ場所を変えて話をしたが、引き止めることはできなかった。私は彼女を、そのまま搭乗ゲートへ送り出した。気づけば、体が勝手に動いていた。大きく手を振っていた。普段の自分なら絶対にしない行動だった。周りの目なんて、どうでもよかった。
彼女は涙をためながら、笑顔を見せて、奥へと消えていった。その後もしばらくはLINEでやり取りが続いたが、ある日突然、彼女のアカウントは消えた。半年後、彼女が結婚したという噂を聞いた。
もうひとつの関係
──その前にも、私は別の彼女と長く関係を続けていた。今の会社へ転職する以前の、前職での出会いだ。
付き合っては別れ、また戻る。そんな関係を五年以上繰り返していた。彼女は既婚者だった。きっかけは、飲み会の帰り道だった。たまたま方向が同じで、彼女は飲んでいなかったので車で送ってもらった。家の近くに着いたとき、私は何気なく言った。
「少し、部屋に寄らない?」
彼女は一瞬きょとんとして、少し沈黙が流れた。しまった、と反省して後悔した。でもそんな私を彼女はそっと覗き込んで、お互い一瞬だが目の奥を垣間見た。やがて「はい」と答えた。それが始まりだった。
言い訳はできないが、彼女の夫婦関係はほぼ破綻していた。度重なる夫の浮気が原因で、子どものためだけに続いているような状態だった。それでも、関係は関係だ。当初、私はこうした関係に慣れておらず、精神的にかなり消耗した。
彼女には、まだ手のかかる年頃の子どもが二人いた。その子たちの母親を奪うことは、当時の私にはどうしても決断できなかった。決断できないまま、曖昧な関係を続けた。やがて子どもたちがある程度大きくなった頃、私から「一緒にならないか」と伝えた。しかし、その時にはもう、彼女の気持ちは戻らなかった。断られてしまった。
私は昔から、決断が遅い。そして、そのせいで選択を誤ることが多い。踏み込まないことでバランスを取る。そのくせ、いざ踏み込もうとすると、もう手遅れになっている。それが、私のパターンだった。
時折連絡をしていた前職の彼女とも、年明けの「おめでとう」のやり取りを最後に、完全に途切れた。
──そんな中での、四月の話だ。
一話 最後の八時間、優しさに甘えた代償
飲み会、そして
実は、この飲み会には裏があった。私が仕掛けたのだ。
自慢に聞こえたら申し訳ないのだが──私には、自分でも薄々自覚している妙な癖がある。特別なリーダーシップがあるわけでも、存在感が強いわけでもない。他の部署からすれば影の薄い人間だろうし、意図的に気配を消すこともできる。会議で発言しても、私の提案はなかったことになり、しばらくして別の誰かが同じことを言って採用される、という場面に何度も遭遇してきた。
ところが気づいてみると、いつの間にか物事が自分の思った方向へ進んでいることが多い。スマートにいく場合ばかりではない。むしろみっともない場合の方が多いかもしれない。バカにされたり、呆れられたり、同情されたり。道化を演じて笑われることもある。それでも気づいたら、なんとなく自分の思っていた方向に落ち着いている。ピンポイントに動くわけではなく、泥臭く、格好悪く、でもゆるやかにその方向へ向かっていく感じだ。誰がやったかも残らないし、本人すら意図していたか分からない。昔は偶然だと思っていたが、これだけ繰り返されると、どうやら自分にそういう傾向があるらしいと認めざるを得ない。誇大妄想かもしれないが(笑)。
ただ、正確に言うと「引き寄せる」という感覚とも少し違う。もともとそこにある糸の存在に気づいて、そっと方向を変えるだけだ。ない糸は、どう動いても手繰り寄せることはできない。あるかないかを見極めること、それだけが私にできることなのかもしれない。
コロナ以降、会社の飲み会は激減していた。言い出す人物もいない状態が続いていた。そんな中、何のきっかけもないのに突然この飲み会が設けられた。私は内心、ヨシヨシ、と思っていた。気になっているあの人と、一度ちゃんと話してみたかったのだ。
四月が始まったタイミングで、急に決まったその飲み会に参加することになった。久しぶりに会う人や、普段あまり話さない人もいて、楽しく過ごしていたのだが──楽しすぎて、つい飲みすぎてしまった。
その中に、以前から少し気になっていた人がいた。かわいくて、はつらつとしている人。でもそれだけじゃない、何か引っかかるものがあって。「何だろう、不思議だな」と前々から思っていたのだが、正体は分からないままだった。いわゆる一目惚れとも違う、少し違った感覚。
実際に話してみると、会話は面白いし、感受性も高くて気配りもできる。「ああ、これはモテるだろうな」と思いながら、自分とは真逆だな、と少し自虐的に感じていた。
そんな人と話せてラッキーだと思っていたのだが、結局飲みすぎてフラフラになった。解散の流れになったとき、その人だけ「もう一軒行こう!」という雰囲気だったが、さすがに皆かなり飲んでいたのでそのまま解散に。結果、その人と二人で帰る形になった。帰り道、「これはチャンスかも」と思い、LINEを交換しないかと聞いたところ、あっさりOK。
駅の近くのベンチで二人で腰を下ろし、しばらく語り合った。酔いも回っていたせいか、気持ちが大きくなっていた。いい雰囲気になっている気がした。彼女が違う方向を見た瞬間、気づいたら手を伸ばしていた。キスをしようとした。すると彼女の空気が一瞬で変わった。
「突然何ですか?私はそんな軽い女じゃありません。今まで素振りもなかったのに」
完全に怒らせた。私はそれでも少し食い下がったが、さすがに諦めようとしたその瞬間、私はじっと彼女の目を見つめた。彼女も私の目を見ていた。その奥に何かを見た気がした。そして彼女は、静かにキスを許してくれた。
私は所謂イケメンではないし、男らしさも兼ね備えていない。それでも別れた彼女達に共通して言われたことがある。私の悲しい顔は、何かしてあげたくなる気持ちを引き出すらしい。幼児性を抱えた私は、彼女達の母性本能を揺さぶる何かがあるのかもしれない。意図してやっているわけではない。ただ本気だからこそ、相手に響く何かがあるのかもしれない。
それが、全ての始まりだった。その後やり取りが始まった。
仮面と鎧を脱いだとき
私は、親しい人には自然に接することができる。しかしそこに至るまでは、かなり壁を作るタイプだ。普段は仮面と鎧で武装していて、「取っつきにくい」「何を考えているか分からない」──そう思われることも、自分でよく分かっている。
私は口下手でもある。喋っても話の着地が分からなくなり、「何言ってるんだ?」とよく言われた。その分か、物事の分析には長けていて、仕事では構造的な問題や改善点を見抜ける方だった。若い頃の私は横柄で、上司によくそういうことで噛み付いていたが、口論になると口下手が幸いして何も言えなくなる。かなり厄介な奴だ。
そんな中でのLINE交換は嬉しかった。しかも彼女のメッセージがとにかく面白い。私はもう仮面と鎧を外し、道化どころか素を見せた。普段は絶対に見せない、二人のやり取りでハマる人はハマるような面白さを、全力でぶつけた。かなりぶっ飛んだユーモアを持っているとは自負しているが、それを全力でぶつけると大抵の人はただ驚く。私はメール魔でもある。文章を三つくらい同時に送り、会話を並行で成立させる。
彼女はそのやり取りについてきてくれるどころか、絵文字も顔文字も同じように多用して、やり取りを盛り上げてくれた。久しぶりに楽しい。私のこのやり取りについてきてくれるのは、前の彼女以来だった。
そのままここぞとばかりに全力で返していたら、一気に距離が縮まって、自分の中では完全に有頂天になっていた。その流れで、しつこく誘い(笑)、二人で映画に行く約束をすることに。
映画館のあの静けさ
実際に会ってみると、感性も似ていて、好きなジャンルも同じだった。私は最初のうちは緊張して、ツバを飲み込む音が分かるくらいで、彼女に気づかれないようにしていた。すると彼女も同じようにツバを飲み込んでいたので、さらに惹かれてしまった。その時間は本当に楽しくて、いろいろ語り合った。そしてまた、有頂天のまま帰宅。その勢いで連絡し、「また会ってほしい」とお願いした。
しかし返ってきたのは、
「これ以上は、二人では会わない方がいいと思う」
という言葉だった。実はその時点で分かっていたことがある。彼女には遠距離で長く付き合っている彼氏がいた。前回の飲み会で初めて知ったことで、それまで彼女とはあまり話したことも無く、それどころか避けているような印象すら持たれていたと思う。それくらい彼女には惹かれるものがあり、話しかけようとすると周りに気づかれる危険性があると感じていたのだ。私の仮面と鎧は、実に脆い。友人の域を越えてしまうかもしれない、という理由だった。たった一日二日の話なのでこれで終わりにしましょう、と書かれていた。頭では理解していた。でも、気持ちが追いつかなかった。
最後のお願い
どうしてももう一度会いたくて、頼み込んだ。最初は断られた。しかし私は翌週から初めての海外出張が決まっており、それを理由に「どうしてももう一度だけ」とお願いしたところ、渋々ながら了承してくれた。
行き先は彼女に任せると言われたので、ちょうど見頃だった花畑へ。初めて行く場所だったらしく、とても喜んでくれた。一緒に花を見て、持ち帰り用の花も買った。「写真を撮ってあげようか?」と言うと、彼女は「いい」と答えた。だからきっと彼女は、この出来事をあまり思い出にしたくないのかもしれない、と思っていた。
しかし花畑の途中に、架空の窓を模したオブジェがあった。いわゆる撮影スポットだ。彼女のほうから「写真撮らない?」と聞かれた。あれ、いいんだ──と思いながら、自撮りで二人の写真を撮った。後々、もっともっと彼女と写真を撮りたかったと後悔した。
比較的遅い時間だったので、帰る客が多く人もまばら、最後の方は数組しかいなくなった。人がいなくなったとき、私は彼女の手を取って歩いた。彼女は、それを払いのけなかった。──ちなみに、それは海外出張の前日だった。
溢れ出した夜
その夜、彼女から長文の連絡が来た。
「本当に楽しかったけど、これで最後にしましょう」
「もう返信もしません」
内容を読んで、ああ、これはもう無理だなと理解した。自分も「分かりました」と返したのだが、しばらくして夜になって──感情が一気に溢れて、涙が止まらなくなった。彼女に想いをぶつけ始め、LINEを多く送った後、やってはいけないことをやってしまった。
「連絡だけでも取り続けたい」
と送ってしまったのだ。彼女は、こういう場面で強く断ることが苦手な背景がある人だと分かっていた。詳しいことは書かないが、その優しさが時に自分を苦しめてしまうタイプだということも理解していた。それに甘えている自分がいることも、自覚していた。
彼女は心配して、「分かったから、心配だからちゃんと寝てください」と返してくれた。それで何とか気持ちを立て直し、出張の準備を始めた。
── 出発まで、残り八時間を切っていた。
二話 フライトより重いものを抱えて飛んだ日
海外出張がいよいよスタートした。ただ、昨日の件が尾を引いていて、正直なところ心理的にはかなりしんどい状態だ。救いだったのは、飛行機でネット環境が遮断されたこと。逆に、いろいろ考えられる時間になった。とはいえ、やっぱり昨日の今日。ふと冷静になると、半泣きになりそうな瞬間もあって、なかなかきつい。
少しの思考の隙間があると、常に彼女のことを考えてしまう。遅めの花粉症ということで乗り切ろうと決めていたが、これはちょっと怪しかった。
今回は乗り継ぎがあるため、関空から別の空港でトランジット。しばらく待機になった。ところがこの中継ターミナル、ネットが使い放題でしかも速い。快適すぎる環境の中で、つい彼女とやり取りを再開してしまい──。
「本気でイヤなら返信しなくていいから」と送ると、
彼女:「イヤです。しつこいとも思いますよ笑」
中々のダメージを食らった。「いやいや、中継地点でトドメはやめてくれ」と冗談まじりに返しながら、なんとか致命傷は回避。そのまま目的地へのフライトに乗り込んだが、心理状態は相変わらず最悪で、頭の中はほぼ彼女のことで占領されていた。
飛行機では日本の音楽も聴けた。いろいろ聴いていたが、ダウンロードしていたFirst Takeの西野カナ「会いたくて 会いたくて」を繰り返し聴いた。大人になった彼女の歌い方は心に刺さって、それをひたすらリピートして聴き続けた。他の曲では聴き飽きてしまうのに、その曲だけは何度聴いても飽きなかった。彼女を思い出すと、あの時間とかなりマッチしている気がして──それを繰り返し聴きながら、LINEのやり取りを見返し、思いに浸っていた。
機内でLINEを見返しているうち、悲しさが込み上げて涙があふれそうになった。泣くわけにはいかないので、ぐっとこらえる。隣の席を意識しながら、何食わぬ顔で画面を閉じた。逃げ場のない密室の中で、感情だけが自由に動き回っていた。窓の外に広がる雲の白さが、なんとなくひどく遠く感じた。
三話 深夜の到着、頭の中は別の場所
約六時間のフライトを経て、目的地に到着した(場所は伏せさせていただく)。すったもんだの末、ようやく外へ。夜中にもかかわらず、人・人・人──。車に乗り込む前からクラクションが鳴りっぱなしで、「大丈夫かここ?」と少し不安になりながら、コーディネーターの方と合流し、そのまま車へ。
バイパスのような道路に入ると、意外にもスイスイ進み、少し安心した。しばらくしてホテルに到着。かなり立派なホテルだ。車の金属検査を終えたあと、さらにチェックイン時にも手荷物検査とセキュリティチェック。こんな厳重なホテルは初めて見た。ようやくチェックインし、部屋へ。
広すぎる部屋だった。しかもエアコンが低すぎて寒い。外はあれほど暑かったのに、部屋の中は別世界だ。この落差を彼女に伝えたくて、部屋の広さが伝わるよう写真を撮って送った。「なんか外は暑かったのにかなり寒い」と添えると、彼女から「心配だから温かくしてね」と返信が来た。それだけで、疲れが少し和らいだ。
その後、シャワーを浴びると、クローゼットにガウンが出てきた。パジャマ代わりに着てみると、なかなか様になる──というか、完全におどけた格好だ。思わず変な顔で自撮りして彼女に送ると、彼女はおもしろがってくれた。それだけで、この長い旅路の疲れが吹き飛ぶようだった。目を閉じると、遠くからクラクションの音だけが聞こえた。
── それでも、頭の中はまだ彼女のことでいっぱいだった。
四話 海外で逃げ場を失い、AIで断った夜
大学、市場、カオスの街
翌日は、なぜか初日から観光になっていた。後で知ったのだが、ちょうど休みの日だったらしく、国を知るにも良い機会ということでセッティングされていたようだ。
最初に連れて行ってもらったのは、その国の有名な大学だった。ちょうどイベントの時期と重なっており、着飾った女性が多くいた。この国の人たちは目がくりっとしていて、鼻も高い人が多い。かなり美人が多い印象だ。「あなたは色が白いので、この国ではモテますよ」と言われたが、滞在中そのような恩恵を受けたことは一度もなかった(笑)。後で彼女にこの話をすると、「気になる?」と送ったら、「一応そういう人がいたら教えて」と冗談っぽく返ってきた。彼女は心をくすぐるのが本当に上手い。
その後、車で移動。今日は空いてますよ、と言われながらも、どう見ても激混みだ。皆がクラクションを鳴らしながらの通常運転。最初はかなり怖かったが、人間ってこういうのにもゆっくり慣れていくものだ。観光地に向かう途中、人で溢れる商店街に車が突っ込んでいくような感覚で、「まじかこれ、カオスすぎる」と内心ツッコミまくりだった。
市場を見たり、川を渡ったりと、なんだかんだで楽しめた。ただ、臭いがかなりきつくて最初はえずきそうになり、途中からは鼻の機能をオフにして過ごした。その川も、横から汚水が流れ込んでいたり、隣で普通に洗濯や行水していたりと、また別の意味でカオスだ。
色々なところを見て回っても、頭の中では「これを彼女に送ろう。彼女はきっと興味を持ってくれる」と──彼女のことが離れなかった。楽しい景色を見るたびに、隣にいてほしいと思った。
断りの翻訳文
夜はお偉いさんとの会食へ。気さくな方で、いろいろと話していただいた。しかし飲みが進むにつれて、急に空気が変わった。女性陣が登場する。カッコつけるわけではないが、こういう場は日本でも苦手なので、なんとかやり過ごしモードに入った。
上司には「お前よかったな、引きこもりだからこんな機会ないだろ」と言われ、「ほんとっすね、来てよかったです」と返しつつ、内心は「普通に帰りたいんだけど」だった。そんな中、話は一気に進む。
「じゃあこのままホテルに一緒に」
いやいやいや、待って待って──それは聞いてない。コーディネーターの人にそっと耳打ちした。「すみません、日本に彼女がいるので…」とやんわり断ると、「まあそれはそれですよ」と返ってきた。いや、「それはそれ」じゃないんよ。この人、完全に流れに乗せる側だなと確信した。
上司がトイレに立った瞬間に主賓の方へダッシュして、同じ理由で断ると、「それはそれで」。全員「それはそれ」で押し切るスタイルだ。ここで一気に焦りMAX。普通に逃げ場がなくなってきた。
これ以上頑なに拒むのは場を白けさせると思い、観念したふうを演じ始めた。しかも観念した途端ウキウキを装って、「コイツ、ただの痩せ我慢でカッコ悪い奴だな」を演出し始めた。主催者も上司も大喜びだ。「なんだコイツ、照れてただけかよ〜」という雰囲気になった。
さてはて、そんな状況下、仕方なくお店の人にWi-Fiを借りて、その場でChatGPTを起動。断り文を必死で翻訳作成した。
(いや何してんだ俺……海外でAIを使って逃げてるぞ……)
必死で作った文章がこれだ。
【① 日本語(再翻訳)】 あなたはとても魅力的ですが、日本に好きな人がいます。そのため、今日は残念な気持ちですが、あなたに対して行動することができません。どうかご理解ください。このことを言うと場の雰囲気が気まずくなってしまうかもしれないので、秘密にしていただけるとありがたいです。
【② 日本語(再翻訳)】 今日はここで別れて、その後はそのまま家に帰っていただければ大丈夫です。すみません。あなたは本当に素敵な人です。
これを画面で見せながら何とか説明した。相手の方も一応理解してくれて、「じゃあ一旦別で帰って、後で部屋に行くね」という流れに──。いやいや、それも違う違う、と内心ツッコミながらも、とりあえずその場からは離脱成功。
部屋に来た女性
ホテルに戻る頃にはかなり遅い時間だったが、時差のおかげで日本はまだそこまで遅くない。そこでLINEで彼女に「実はこういうことがあって断った」と報告した。正直、ちょっとアピールしたい気持ちもあった。彼女からは「せっかくなら楽しめばよかったのに」と返ってきた。「いやいやいや〜」と返すと、どことなく嬉しそうな感じもあった。
しかし、話はここで終わらなかった。実は彼女には伝えていなかったが、翌日も同じ流れになったのだ。二日連続で、同じような席が設けられた。前日と同じ方法で、なんとかその場を切り抜けた。ただ今回は、断り文を見せている最中、その女性が私の手のマッサージをしてくれていた。断りながら、マッサージ。なかなか奇妙な状況だった。
席を後にしてホテルに戻ると、同じグループの人から連絡が入った。「女性が下にきている」という。
えっ、なんで──。あわてて下に降りると、先ほどの女性がロビーにいるではないか。私は「なんで?」と思いながらも、来てくれた彼女に対して悪いと思い、日本円を渡して「今日はこれで帰ってほしい」と頼んだ。彼女は帰らなかった。
別のグループに行った友人を待っているのではないかと思い、「ロビーで待てるか?」と聞いたが、彼女は上を指した。私は「何もしないよ」という話を繰り返した。しかし彼女は「マッサージをする」と言って──それならばと、部屋に入れてしまった。
正直なところ、これはきつかった。ただ、ひたすらマッサージを受けるだけならと思った。慣れない海外での疲れが蓄積していたのも本音だ。彼女は時折、違う方向に手が来ていたが、その都度「ノー」と伝えた。
マッサージが終わり、彼女が「あなたの彼女を見せてほしい」と言ってきた。私は花畑の写真の彼女を見せた。彼女は「キュート」と言ってくれた。そこで少し心が開いてしまい、正直に話した。
「実は彼女ではないんだ。僕の片思い。
あなたとそういうことをしないのも、
この恋を成熟させたいと思っている願掛けなんだ」
彼女はそうなんだと優しく微笑んだ、その後、別の部屋からの連絡が入り、みんな帰るようだ。「いつでも大丈夫です」と話し、彼女を部屋の外まで見送った。一人になった私は、大きく深呼吸した。
ふぅーーー。さすがにキツイ。(笑)
翌日、上司に「どうだった?」と聞かれ、「いや〜最高でした、本当に来てよかったです」と答えつつ、頭の中は完全に彼女で埋め尽くされていた。
ちなみにこの上司は仕事がかなりできて、私のことをよく理解してくれている社内で少ない理解者であり人徳者でもある。私の昇進を早めに押してくれ、起伏が激しい私を別の部署への異動から引き留めてくれた恩人だ。唯一少し度が過ぎるのはイジリ倒してくることだが、私はそんな上司に報いたいと思い、バカなやつを演じるのだった。
五話 その一通を送るまでに、こんなに時間がかかった
土産選び
ようやく出張の目的を果たし、いよいよ帰国だ。この数日間はWi-Fi環境が限られていたため、リアルタイムのやり取りができなかった。それが逆に良かったのかもしれない。彼女と一定の距離を保ちながら連絡できた。あれだけ勢いだけで突っ走っていた頭も、この頃にはだいぶ冷静に物事を見られるようになっていた。
「これはダメだな」
彼女が彼と別れて私を選んでくれる未来は、想像できない。頭では理解しているのに、心は全く追いついていなくて、「何とかしろよ」と自分を責める感覚がずっと続いていた。
そんな中で、彼女へのお土産選びが始まった。連れて行ってもらったのはデパートのような場所だったが、お店に関しては「何の店?」というようなものが多く、雑貨っぽいところも行ったが今一つだった。あきらめようとしたとき、一階に良いところがあると言われ、セキュリティがついているような雑貨店に案内してもらった。セレクトショップのような雰囲気で、無印良品を彷彿させる落ち着いた空間だった。
現地の素材を使いながら洗練されていて、細かい刺繍が入っているのがおしゃれに見える。私は彼女の服装や持ち物を思い出しながら、「これは絶対気に入るんじゃないか」という視点で物色し始めた。そのお店はかなり人気で、現地の女性もたくさん見ていた。そんな中で一人あれこれ物色する私は、かなり動きが怪しい外国人だったと思う(笑)。
彼女が持つとどんなものでも引き立って見えるが、これはなかなか日本では手に入らないし、現地の値段なのでかなり安く買えた。気づいたときには大袋いっぱいの荷物になっていた。他の人へのお土産のことはほとんど考えていなかった自分に、思わずほくそ笑んだ。どれだけ彼女のことで頭が埋め尽くされているのか。
購入した夜に彼女に袋の写真を送り、「あなたの分もありますよ〜」と送った。七割以上は彼女のお土産だったが、それは伝えなかった(笑)。
帰路にて
帰国の際はホテルを離れて仕事もしていたため、長時間ネット環境がない状態になった。あえてWi-Fiも聞かず、そのまま過ごした。経由地での待機時間も、日本時間では夜だったこともあり、あまり連絡は取れなかった。ようやく自宅へ。疲労は完全にMAX。それでも、今回の一連のことを、ちゃんと自分の中で整理しようと思った。
彼女はきっと彼氏と別れない。
自分が入り込める余地なんてない。
それでも、ここまで思い出として関われたこと自体が、
ある意味で幸せだったのかもしれない。
そう思おうとしても、やっぱり苦しくて、涙が止まらなかった。それでもどこかで踏ん切りをつけないといけない。そう思い、彼女に連絡を取った。
「明後日、お土産を渡したいのと、少し話がしたい」
これまでふざけたやり取りばかりしていた分、このトーンはしっかり伝わったと思う。彼女からも「わかった」と返信があった。
ちなみに、普段の私の恋愛におけるやり取りでは、こんなに素直に気持ちを伝えることは珍しい。しかし彼女には所謂小細工が通じず、全てを見透かされるような感覚があった。だからあえてどストレート、一回表、先頭バッターから一球目全力投球というスタイルになってしまっていた。
六話 「本当に会っていいのか」と考え続けた前日
いよいよ、彼女と会う前日だ。あれこれ考えすぎて、情けないことに完全にひるんでいた。このまま会って、本当にちゃんと話ができるんだろうか──。私は常に彼女と会うことを考えていたのに、会うとなると別れの言葉をしっかり伝えられるか不安で仕方がなかった。そんな状態だったので、朝から「いっそLINEで全部伝えてしまおう」と切り替え、文章を試行錯誤しながら作っていた。
すると彼女から連絡があった。もともと翌日はお昼過ぎに会う約束だったのだが、「家の事情で午前中にしてほしい。夜は家族で出かける予定が出来てしまった」とのこと。正直、かなり迷った。自分の話で彼女の気持ちが少しでも揺れてしまって、もしそのまま車を運転することになったら──万が一でも事故につながったら、それは絶対に嫌だと思った。
「じゃあ、別の日にしましょう。また改めて連絡します」
そう返すと、彼女から「なんで?」と返信が来た。正直に「夜に、もし事故とかあったら嫌だから」と伝えると、「大丈夫だよ〜」と軽く返してきたが、ここはどうしても譲れなかった。そんなやり取りをしている中で、ふと「今日の夜は難しい?」と送ってしまった。彼女からは「一時間くらいなら大丈夫」と返信。こうして急遽、その日の夜に会うことになった。自分から言い出したはずなのに、「本当に会っていいのか…」と内心ではずっと不安なままだった。完全に項垂れていた。
七話 終わらせに行ったはずの夜に、残った言葉
待ち合わせは、近くのドラッグストアの駐車場だった。そこから車で少し走り、静かな公園のような場所へ向かった。
「少しだけ歩いてもいい?」
そう声をかけて、並んで歩きながら、海外出張の話や、飲みの席のこと、上司にぼろくそ言われた話まで、いつものように笑いながら話していた。ベンチを見つけて腰を下ろす。ひと通り話し終えたところで、私は切り出した。
「色々考えたんだけど……このまま会わなかったことにする方がいいのかなとも思った。
でも、それだときっと中途半端なまま連絡してしまうし、迷惑もかける。
だから、ちゃんと踏ん切りをつけたくて……」
そう言った時には、もう彼女は泣いていた。私は、そのまま言葉を続けた。
「好きです。付き合ってほしい」
しばらくの沈黙のあと、返ってきたのははっきりとした一言だった。
「ごめんなさい」
「ごめんね、嫌なことさせてしまって。でも、これでちゃんと諦められると思う」
そう言いながらも、しばらくの間、彼女はずっと泣いてくれていた。時間が経って「そろそろ行こうか」と声をかけたとき、自分の中では一応区切りがついたような感覚があった。心がストンと落ちるような、不思議な静けさだった。そのまま、またくだらない話をしながら歩き始めた。
「実はさ、会わない方がいいかもって思って、朝からLINEの文章ずっと作ってたんだよね」
冗談っぽくそう言うと、彼女がぽつりと聞いた。
「会いたくなかったの?」
「いや、会ったらちゃんと話せるか自信なくてさ。ちょっとビビってただけ(笑)」
そう答えた、その直後だった。
「私は会いたかったけど」
その一言で、全部が崩れた。気づいたら、彼女を抱きしめていた。
「ごめん、ごめん……やっぱり諦められない」
そう言ったけれど、彼女は何も答えなかった。そのあと車に戻り、後部座席で「もう少しだけバカ話しよう」と言うと、彼女も静かに付き合ってくれた。その際、作成していたLINEの文章を見せた。
すみませんやっぱり、あなたの言う通り会うと俺がヤバイ気がするので会うの止めとこう(ごめんなさい)。本当はちゃんと会って、ちゃんと告白して、ちゃんと振られようと思ってたんだけど無理そうです笑。何かズルズルLINEしてしまい迷惑かけたくないから、今なら少し落ち着いた感じがしてたからそうしてもらおうと思ったんだけど……なるべく接触機会減らそうと思います。決して嫌いでないので露骨に態度に出てしまったらごめんなさい。見抜かれたと思うけどこの仮面と鎧は実はペラペラだからさ(マジウケる)。ごめんだけどバカLINEはしばらくさせてほしい。完全に絶とうとすると心が拒絶してしまうから。困った心だ笑。お土産は誕生日プレゼントにするね。センスないんだけど、あなたが持つと似合いそうって思って買いました。上司も色々見て買っているので社内や通勤では使わないでください笑。やっぱり好きです、諦められません。
途中まで作っていた文章だったが、自分でもこれを見せてどうするんだと思った。全く諦められていない未練が、そのままだだ漏れになっていた。
そしてお土産を渡した。袋を開けた彼女の顔が、ぱっと明るくなった。一つ一つ取り出すたびに「こんなに?」と驚いてくれて、しかもどれも彼女の好みにはまったようで、想像以上に喜んでくれた。海外で動きが怪しい外国人になりながら選んだ甲斐があった。彼女は「やっぱりモテるでしょ?」と言ってくれたが、「イヤイヤイヤ」とだけ伝えた。
その後、しばらく二人でバカ話をして、ゆっくりと夜が更けた。あの夜の彼女はまるで恋人同士のようだった。お互いにツッコミを入れまくって、彼女が「そろそろ家に帰らないと、少しだけ出てくるとだけ言ってきたから怪しまれる」と笑いながら言った。
彼女を送る際、車の中で私は片手で彼女の手をしっかりと握っていた。このまま着かないでほしいとも思ったが、最初の待ち合わせ場所に着くと、彼女に「じゃあまたね」と言って送り出した。
別れてすぐ、メッセージが来た。私も返す。彼女も返す。別れたはずなのに、まるでその続きを生きているような感覚だった。くだらない話、今日の話、笑える話──惹かれ合うように言葉が続いて、どちらも止める気配がなかった。画面の向こうで彼女が笑っているのが、なんとなく分かる気がした。
気づけば時間は深夜になっていた。
「寝落ちするかも」
そうメッセージが来て、しばらくして既読がつかなくなった。ああ、寝たんだな、と思って、私もそのまま眠ることにした。
八話 終わりのあと
翌朝、私は「おはよう」とメッセージを送った。ほどなくして、彼女からも同じ言葉が返ってくる。それだけで、少しだけ救われた気がした。昨日の続きを話したくて、メッセージを立て続けに送る。既読はついた。けれど、返事はなかなか来ない。
── ああ、これは来るな。
そう思っていた。しばらくして、やはり彼女から長文のメッセージが届いた。
朝から考えていたんですけど、昨日、もう会わないと思ったら寂しくて、ずるい対応をしてしまったと思います。でも私には彼氏がいて、一番大変なときにそばにいてくれた人を裏切り続けることは苦しいです。昨日、会えなくなると思ったら、本当に寂しくて、自分でも驚きました。これを書いている今も、涙が出るくらい、あなたのことが好きです。それでも私は、感情より理性を選びます。付き合うことはしません。勝手でごめんなさい。だからこれ以降、返信はないと思ってください。覚悟ができなくて、たくさん振り回してしまいました。本当にごめんなさい。あなたが、毎日おいしいものを食べて、ぐっすり眠れますように。
私は、そのメッセージを何度か読み返したあと、静かに返信を書き始めた。
ありがとね。本当は昨日、振られた時点で、心はちゃんと納得してたと思う。それでも、もうちょっとだけ一緒にいたいって、甘えてたのは自分だと思う。こういう連絡が来ることも、どこかで分かってた。それでも、なんとか避けたくて、見ないふりをしてた。でも、気持ちを押し付けるのは違うよね。ここまでちゃんと向き合ってもらえたから、もう大丈夫。終わったんだって、ちゃんと実感してる。未完じゃないから、変に引きずらないよ。安心して。わかっていたのに本気になってしまいました。ごめんなさい。俺も、あなたが毎日楽しく過ごせることを願っています。もし今後、会社とか飲みの席で会うことがあり、もしデリカシー無く恋愛観等でバカなこと言ってても、それはキャラなので許してください。(「終わってるやつ」を演じてるだけです笑)最後に、ありがとう。
そのメッセージを送ると、既読がついた。そして、それが最後だった。
深淵をのぞくとき
最後のやり取りをして、ひとつ気づいたことがある。私が彼女に惹かれた理由。それは、正反対のようで、どこか似ていたからだと思う。私は、自分を出さないために仮面をかぶり、道化を演じる。彼女は、明るさで場を和ませる。同じ「演じる」でも、彼女のほうがずっと自然で、大人だった。
そして気づいた。私が彼女を理解しようとしていたように、彼女もまた、私を見ていたのだと。相手を見ているつもりで、実は自分も見られている。
深淵をのぞくとき、深淵もまたこちらをのぞいている。
少し大げさかもしれない。でも、なぜか今の自分には、妙にしっくりきた。まだ完全には吹っ切れていない。それでも、きっと少しずつ、思い出に変わっていく。そんな気がしていた。
九話 届かないと知りながら
これで話が終われば、きれいに終わったと思う。しかし翌日、事件は起きた。朝早く、会社の近くでひったくり事件があった。犯人は逃走中。私は急に不安になった。もう連絡しないと決めていたのに、気づけば彼女に連絡をしていた。
「ごめん。もう連絡しないつもりだったけど、会社の近くでひったくりがあったから心配で。気をつけて来てほしい」
彼女からは「わかった、ありがとう」と返信があった。その日は何事もなく終わった。それでも私は、どうしても彼女と繋がっていたくなった。
「LINEだけでも続けさせてほしい」
そう送ってしまった。彼女は「わかった」と返してくれた。翌日から私は、朝は「おはよう」、昼は「おつかれさま」、休憩中にはその日の出来事を送るようになっていた。── さすがに、これはまずいと思った。
感情が暴走して、自分でコントロールできない。終わった恋愛で、ここまでになるのは初めてだった。どうしていいか、本当に分からなかった。夜になっても連絡を送り続けた。すると彼女から、
「もうこれ以上は返信しない」
と連絡があった。それでも私は「もう少しだけ頼む」と送ってしまった。以前のようなやり取りに戻りたかった。しかし彼女の返信は、明らかに距離を置いたものになっていた。── これは、本気でまずい。
そう思い始めた私は、AIに相談した。GPT、Gemini、Claude。どのAIも同じことを言った。
「距離を取れ。連絡するな」
頭では分かっている。でも思わず口に出た。
「うるせえよ。できねえから聞いてるんだろ」
自分でも、これは重症だと思った。今まで、ストーカーやホスト、ホステス、推し等にのめり込む人の感情が正直よく分からなかった。恋愛で傷ついたことは何度もあったが、ここまで自分を抑えられないのは初めてだった。これまでの人生で、どこかに「ブレーキ」のようなものがあった。どれだけ落ちても、完全には落ち切らない。でも今は違う。そのブレーキが効いていない感覚だった。
私はここで、初めてあることに気づいた。
私はこれまで、踏み込まないことで自分を守ってきた。だからこそ、一度踏み込んでしまった感情の扱い方を、知らなかった。
踏み込まないことでバランスを取ってきた人間が、初めて踏み込んだ結果、制御できなくなった。それだけのことだった。しかし、そのことに気づいても、感情は止まらなかった。
ブロック、そして届かないLINE
彼女は心配して返信はくれていた。ただ、もう以前のような気軽なやり取りではなかった。私は、この気持ちを正直に書いた。
「このままだと、せっかく好きになってくれた時間まで嫌な思い出にしてしまう。
自分から繋がりを断つことができない。
だから、最後のお願いです。ブロックしてほしい」
彼女からの返事はこうだった。
わかりました。心の準備ができたらブロックします。私の方こそ、たくさんの愛情をありがとうございました。感謝でいっぱいです。本当に。ありがとう。
それが、最後のメッセージだった。私はブロックされたあとも、彼女にメッセージを送り続けていた。後で知った。ブロック中に送ったメッセージは、解除しても相手には残らない。その事実を知って、逆に安心してしまった。届かないと分かっているLINEを送り続けることが、いつの間にか日課になっていた。
── そこまで、心は追い込まれていたのだと思う。
十話 最後の贈り物
しばらく彼女との連絡が取れなくなり、ようやく私の心は少しずつ平穏を取り戻し始めていた。それでも時折ぶり返してくる。特に夜が非常に辛かったが、段々回復しているのを自分でも理解していた。
そんな中、彼女の誕生日が近づいていた。私は少し前に、彼女の誕生日プレゼントを買っていたのを思い出した。それがポストに届いたのだ。「しおり」だった。彼女は本が好きでよく読んでいたので、それを考えていた。本当は海外のお土産でと思っていたが、良いものが見つからず、雑貨のお土産にしていた。これは彼女と常に一緒にいたいという、浅ましい思いからだ──と自分でも分かっていた。本当は時計を考えたが、高価なものは懸念されると思い、彼女が好きそうなしおりを何種類か選んだ。
これをいつ渡すか、渡さないか、迷った。渡さないとも思ったが、何時までも自分の家に置いておきたくないのが本音だった。会社の彼女のメールボックスに入れることにした。そこなら隙間から入るサイズだ。彼女にブロックされている私は、しおりと一緒に手紙を書くことにした。
少し早いけど、誕生日おめでとう。少し前から準備してたので、これだけは受け取ってください。このこたちが、お守り代わりにずっと守ってくれればいいなと願っています。あまり値段が張るものは気を使わせちゃうかなと思ってね。ここ最近は、自分の中でもだいぶ落ち着いてきました。会う機会があっても極力接触しないようにしていて、もしあからさまに感じさせていたらごめんね。もう少し時間がかかるかもしれないけど、自分なりに整理をつけていくつもりです。これ以降は本当に何もしませんから、安心して受け取ってね。最後に改めて、誕生日おめでとう!元気で過ごしてください。
ブロック解除の誤算
その日の夜、私はせいせいしていると思っていた。しかし彼女への気持ちは未練タラタラだった。
どうせならその日に少しだけ会えないかな──ここで待っているとでも書けばよかった、とも思った。でもそんなことをしてしまうとまた振り出しに戻るし、今度は本当にヤバイと思ってもいた。
そんな中、ふとブロック確認をしてみた。LINEのブロック確認は、相手にプレゼントを送れるかどうかで分かる。スタンプを選び、何気なく「はい」を押すと──
「プレゼントを送りました」
思わず「えっ?」というメッセージを送ってしまった。しかし既読はつかない。おかしい、なぜ?私の心は再度暴走モードに突入してしまう。彼女へのメッセージを送りまくってしまった。最後の方から、会うことへの要求に変わっていった。
連投する、会うことへの要求。
見てるんだろ?返事してくれ。
── もうこれはマズイ。そして私は「明日の14時に駅前の公園ベンチで待っている」と送って、そのままにしていた。しばらくして、全てのコメントに既読がつき、彼女からの返信があった。
あなたが心配だったから返信するためでも会うためでもないです。この前も送ったとおり、私はもう会ったりLINEのやり取りをしたりはできないのでわかってほしいです。誕生日プレゼントありがとうございました。嬉しかったです。大切に使います。待ち合わせ場所で何時間も待つことになったら体に悪いので返信しました。元気でいてほしいです。また会社で会いましょう。
私は返信を急いで送る。
「ブロック解除したのは心が動いたからだよ。待ってるね」
私はゼロを一にするには物凄い力がいることだと思っている。彼女の行動はそれを行ったのだ──と自分に言い聞かせた。客観的に見ることができない自分がいた。どちらかといえば、自分の肯定のための脳の処理が始まっていた。
私は最後の決断をすることにした。彼女との繋がりを完全に絶つこと。彼女にとって、ついてほしくない部分をつくことで。
心配だけの気持ちなら来なくていいからね。それならそれはもう俺だけの問題なんだよ。また、ブロックしてLINE閉じて終わりだよ。俺は会社で変わらないように見えてると思うし普通に仕事も出来てるよ。今は先日行った海外の支店を計画していて日々計画を上司にプレゼンしているよ笑
でも少しでも好きって気持ちが残ってたら来てほしい。待ってます。
この内容は、ずっと思っていたけど送れなかったこと。そしてこの文章には、もうひとつの意図があった。「心配なら来なくていい」「好きなら来てほしい」──ただそれだけを書いたのは、彼女自身に自分の気持ちを仕分けさせるためだ。辛いから動くのか、好きだから動くのか。その境界線を、彼女自身に引かせたかった。優しさで曖昧にしてきた部分を、一度だけはっきり見てほしかった。
彼女は優しすぎる。それにつけ込む自分、それがもう嫌だった。
彼女には、抱えなくていいものまで自分で抱え込んでしまう癖がある。悪意を持って近づけば、そこはあっけないほど大きな隙間になる。隙間どころか、穴と言っていい。本来「ノー」と言えるはずの場面で線が引けない。その境界線が、どこかで壊れてしまっているのだと思う。
それはダメだ、と思う。バッサリ切れないことは、自分を守れないだけじゃない。相手にとっても、結局は優しくない。
そして私は、その穴に散々つけ込んでいた側の人間だ。自覚しながら、やめられなかった。そんな自分が「これ以上傷つけたくない」などと言うのは、どこかおかしい。それでも、そう思っていた。頼めばきっと来てくれる。でもそれは好きだから来るのではなく、断れないから来るだけだ。その違いを知っていて、それでも頼もうとしている自分が、一番醜かった。また穴に手を突っ込もうとしている自分に気づいた。だからこそ、頼まなかった。
彼女からの最後のLINEが来た。
大丈夫そうで安心した。あなたが本当にしんどいときのLINEに気付きたいと思ってブロック解除しましたが、よく考えたら私には送らないですよね。あなたの夢を一同僚として応援しています。それではまた会社で。
それが最後で、彼女からの返信はなくなった。確認すると、ブロックされていた。
そんなわけないだろ。
毎日ボロボロで、なんとか元気を振りかざして、
カラ元気だけでやっている。
そんなことよりあなたに会いたいんだ。
彼女はそんな表面的な人ではなく、自分の役割を理解してそこまでに徹してくれている。だから惹かれるのだ。私は涙が止まらなかったが、ゆっくりと受け止めていた。
十一話 約束のない待ち合わせ
今日は、公園の屋根付きのベンチで本を読んでいる。
けれど、天気は雨。
ここに来たのには理由がある。
来ない人を、待っている。
待ち合わせなんてしていない。
勝手に待っていると言っただけ。
それでも、勝手にここで待っていると伝えてしまった。
自分の中では、これはひとつの儀式だ。
繋がりを切るための、儀式。
ここまでやった。
もう無理なんだよ、と自分に言い聞かせる。
心に、納得させようとしている。
自分の中のどこかを、そっと説得している。
でも、それはなかなかうまくいかない。
困ったものだ。
頭では、とっくに分かっているのに、
心に理解させるには、時間がかかる。
「大丈夫だよ。
他に、もっと安心できる人がいるから」
そんな、まったく根拠のない説得を繰り返す。
家にばかりいて、ごめんね。
本当は、自分のために、もっと外に出るべきなんだろう。
傷つきやすい自分を、守らなきゃいけない。
そう思いながら、
雨のベンチで、来ない人を待っている今日。
何時間も待つつもりだった。でも彼女がブロックした時点で、来ないことはもう分かっていた。
その場の自分に納得させようと、無理やり思い込むことにした。そうしないとここから離れられなくなる。そして体調を崩して、それを彼女へのアピールにしてしまう自分が怖かった。
雨はひとしきり強くなり、時刻が数刻過ぎた頃、私はおもむろに立ち上がりその場を後にした。
── 誰もいない雨の空に、ありがとう。さようなら。
終章
私は、なぜあそこまで彼女に惹かれたのか、不思議で仕方がない。
考えてみると、彼女には「分からなさ」があった。なぜその行動を取るのか、どこでそう感じるのか。掴みきれない。それでいて彼女は、私が特別だと思っていたものを、当たり前のように持っていた。人を見抜くこと。表情の奥を読むこと。能力だけで言えば、きっと彼女の方が上だった。だから、切り離せなかったのだと思う。
同時に、どこか危うさもあった。過去に負った傷が、まだどこかで滲んでいるような気配。ふとしたきっかけで、壊れてしまいそうな──そんな脆さ。手を差し出したくなる人間と、その手を取ってしまう人間。そういう関係が、静かに頭に浮かんだのを覚えている。以前の、底抜けに明るい彼女ではない。それに気づいているのは、たぶん私だけだ。それが彼女にとって良かったのかどうかは分からない。ただ、私が彼女を変えたのだとしたら──どこかで、それに満足している自分もいる。あるいは、すべては私の思い込みかもしれない。考えても、もう答えは出ない。
喪失の形
彼女とのやり取りを終えてから、どうも喪失感が消えることがなかった。寝ると彼女のことしか夢に見ず、二時間置きに目が覚めるのを繰り返してしまい、そのうちまとめて眠ることをあきらめた。
仕事に支障は出ないようにした。明らかに寝不足で疲労が浮き出ていたが、休むわけにも倒れるわけにもいかない。私は仕事はしっかりこなし、問題なく働ける精神状態であることを──誰にでもなく、彼女に向けて──示す必要があった。そういう、誰にも届かない意地だった。
そんな数日が過ぎ、ゆっくりと彼女のことを考えない時間も増えた。しかし一日に数回、揺り戻しが来る。何かの拍子に思い出して、そのたびに動けなくなってしまう。どんなことをしても諦められないんだな、と分かった。本気で困っていた。
冷静な分析と対策は得意なはずだ。落ちるところまで落ちたら復活する。それが自分の特性のはずなのに、今回ばかりはまったく役に立たなかった。打ちひしがれて、どうしようもなくなっていた。
アルバムの中の彼女へ
その夜、私はスマホを手に取っていた。例の彼女、前職で長く付き合っていた彼女に──メッセージを打っていた。
「久しぶり。週末、会えないだろうか」
送信した。しばらく、何も考えられなかった。画面を眺めたまま、ぼんやりと宙を見つめていた。返信は来なかった。
待っている間、ふと彼女の顔が浮かんだ。花畑で撮った、あの二人の写真の彼女だ。笑っていた。架空の窓から顔を出して、少し恥ずかしそうにしていた。私はメッセージを取り消した。スマホを机に置いた。
一体、俺は何をやっているんだろう。
誰かに埋めてもらおうとするたびに、彼女のことが浮かぶ。それが分かっていても、やめられない。これが「諦めている」ということなのか、「諦めていない」ということなのか、自分でもよく分からない。ただ、メッセージを取り消したという事実だけが残っている。それが今の、私の限界だ。
私はあの一連の行動の中で、自分の癖を使っていたのかもしれない。意図していたのか、無意識だったのか、今となっては分からない。ただ、「心配なら来なくていい、好きなら来てほしい」というあの言葉も、ブロックを頼んだことも、公園で待ち続けたことも──すべてが、彼女自身に自分の穴の存在を気づかせるための行動だったとしたら、どうだろう。塞ぐことはできない。でも、気づかせることはできる。そう、無意識のうちに思っていたのかもしれない。
しかし彼女は、私よりも数段上にいる。もしかしたら、すべてを分かった上で、それでも静かに距離を保ってくれているのかもしれない。
それでも私は、あの糸がまだ消えていない気がしている。引き寄せることはできない。でも、まだそこにある。それだけは、分かる気がした。
そこまで考えて、ふと思った。私が彼女に惹かれた理由、それはもしかしたら「手を差し出す人と、その手を取る人」という関係への、無意識の渇望だったのではないか。彼女の心の穴を気づかせたかったのは、自分の心の穴を塞ぎたかったからかもしれない。それは純粋な恋や愛とは呼べないかもしれない。いや、そう結論づけること自体も、すべての言い訳に過ぎないのかもしれない。
私の心がようやく理解した。ボールを投げる必要は、もうなかったのだ。お互い本気で、お互い全部受け止め合っていた。それだけで十分だったのだと。
彼女とのやり取りの中で、運命の話をよくした。私は冗談半分で送っていた。でも今思うと「出会ってしまった」ではなく「気づいてしまった」という表現の方が正確だ。普段すれ違っていた二人が、お互いの内面に惹かれ合う存在に気づいてしまった。
──また誇大妄想が広がり始めた。これ以上は考えないでおこう。
・ ・ ・
その後、長期休暇に入った。最初のうちは、この浮ついた感覚も時間が経てば落ち着くだろうと思っていた。しかし実際は、彼女のことを常に考えてしまい、胸の苦しみにのたうち回っていた。
そんな中、ある曲と出会った。前職の彼女のLINEのBGMに設定されていたMY FIRST STORYの「I'm a mess」だ。聞いたことがなかったが、検索して聴いてみると、すっかりはまってしまった。その曲を聴いている間だけ、胸の痛みが少し和らいだ。
思考能力が少し戻ると、ふと考えが浮かんだ。彼女はもしかすると、私だからここまでしてくれたのではないか。誰にでも手を差し伸べる人ではないのではないか。
答えは出ない。でもその考えが浮かぶたびに、気分が沈んでいった。
日が経つにつれ、胸の痛みはさらに激しくなった。音楽を聴いても、以前ほど効かなくなっていた。壊れそう、狂いそう──本気でそう感じていた。考えてはいけない言葉が、頭に浮かんでは消えていた。
そんな中、ブロックされたあとも、私は彼女にメッセージを送り続けていた。届かないことは分かっていた。それでも送ることが、自分の気持ちを外に出す唯一の方法だった。
そんなある夜、ふと彼女との写真を手元に残したくなった。やり取りの中で受け取った写真を、LINEのアルバム機能に保存していくうちに、気づいたことがある。
──ブロックされていても、アルバムには追加できる。
調べてみると、確証は得られなかった。ただ、ブロックを解除した際に過去のアルバムを見られる可能性があるらしい。
それから私は、毎日手書きのメッセージを書いた。写真に撮って、アルバムに追加した。重たいと思われるかもしれない。自分でも、なかなかヤバい奴だと思う。でもそれが、気持ちを整理するための最後の砦になった。彼女の誕生日にも、「おめでとう」と書いた紙を撮って、そこに入れた。
繰り返すうちに、不思議なことが起きた。少しずつ、胸の痛みが和らいでいくのが分かった。そしてある日、彼女とのやり取りを冷静に読み返せる自分がいた。
もしかすると、彼女は私より傷ついているかもしれない。彼氏がいながら心が動いてしまったという事実、その罪悪感を、彼女は一人で抱えている。もし彼女が私になびいていたら、彼女自身が壊れてしまったのではないか。そう考えると、私が感じている痛みは彼女より軽いものかもしれなかった。
それにずっと甘えていた自分が、本当に情けなかった。
ゆっくりと気持ちを立て直せるようになってきた頃、ふと考えるようになった。この胸の痛み、苦しさの正体はいったい何なのか。
傷ついているのか。それとも、心が急激に変形した痛みなのか。
いろいろ考えた末に、一つの答えが浮かんだ。この痛みの正体は、「思い出」そのものではないか。
そう思えた瞬間、何かが変わった。思い出には、刹那さも辛さも痛みもある。でも、それだけじゃない。楽しさも、温かさも、あの花畑の手のひらの感触も、全部そこにある。
私はずっと、この痛みを無視しようとしていた。排除しようとしていた。違う。これは受け止めなければいけない。抱きしめなければいけない。
人は傷ついた分だけ強くなれる、とよく言う。でも違う。人は、自分の心に気づいて、向き合った分だけ強くなれるのだと思う。
アルバムへの投稿は、まだ止められていない。でも、いつかゆっくりと止まる日が来るのかもしれない、と思えるようになった。それだけで、十分だ。
・ ・ ・
よし、朝だ。
彼女と会うか会わないか分からない。でも今日は、避けない。正面から向き合う。
まだ揺り戻しは来るかもしれない。でも私は、彼女を避けてはいけないと思った。彼女は今後も私を選ばないだろう。選べないと思う。それでも、私にとって彼女は、人生で出会った最も大切な人だ。
その選択を、受け入れられる自分がいた。
私はずっと、まだ伝えきれていないと思っていた。熱が収まる前に、もっと全力でぶつけなければと。でも違った。彼女はもうとっくに受け取っていたのだ。一時の熱ではなく、本気の気持ちとして。そして彼女もまた、自分の気持ちに気づいていた。だから糸を切ることができた。
ふと気づいた。もしかすると彼女もまた、糸が見える人間なのかもしれない。ただ私と違うのは、彼女は意図して手繰るのではなく、本能がそれをやってしまう。あの通勤時間の変化も、小さな言葉の選び方も、全部が意図せずして相手を引き寄せる行為だったとしたら──彼女自身も、その糸に翻弄されていたのかもしれない。
そして区切りをつけたのは、私ではなかった。彼女が自ら糸を切ってくれた。それに気づいた瞬間、何かが静かに解放された。自分では切れなかったものを、彼女が切ってくれた。結局、二人で完結させたのかもしれない。
どことなく、仮面と鎧の存在が、消えたような気がした。
── 了 ──
※この物語はフィクションです。(たぶん)
