コロナで、10年間努力した結果すらもらえなかった、あの日の話をしよう
すごく、天気の良い日だった。
「管弦楽部、大教室に集まってください」
あの日泣きながら食べたたこ焼きの味は、一生忘れないだろう。
「結果より過程が大事」とはよく言うけれど、それは「結果が出た」人だからこそ味わえることだよな〜と思う。
10年間の努力が、どんな結果を迎えるのか分からないまま突然途切れた、あの日の話をしよう。
小学校2年生で憧れた、夢の舞台を目指して
高校3年生になるまで、私には夢がありました。
部活をやりきって、コンサートミストレスとして卒業公演に立ち、引退すること。
中高一貫校に通い、「管弦楽部」と呼ばれるオーケストラをする部活に入っていた私は、引退時期である高校2年生までの中高5年間を、ほとんど部活に捧げていました。
担当していたのは、バイオリン。
中でもバイオリンのトップ(リーダー)は、オーケストラのまとめ役である「コンサートマスター/ミストレス」と呼ばれており、私は最高学年になったらそのポジションでバイオリンを弾き、引退公演の舞台に立ちたいと思っていたのです。

その夢のはじまりは、実は小学2年生(8歳)のときのこと。
近所に住む幼なじみのような存在のお姉ちゃんに「自分の通う中学でオーケストラ部に入ったので、公演を見に来て!」と誘われ、私は人生で初めてオーケストラの生演奏を聴くことになりました。
正直、クラシック音楽はよく分かりませんでした。
静かにしてないといけないし、眠くなるし、お姉ちゃんがどこにいるのかも分からないくらい人が多いし。
ピアノはやっていたけれど、オーケストラ曲なんてほとんど聴いたことがなくて、つまらないし、眠い。
しかし、そんな私は終盤に差し掛かったときに流れたとある一曲で、目と心を奪われることになります。
「ラデツキー行進曲」
スネアドラムから始まり、オーケストラではよくアンコールとして演奏される、愉快な曲。観客も手拍子で加わり、指揮者に合わせて音量を大きくしたり小さくしたり……。
「なんだこれー!たのしー!!!」
と、一気に楽しい気持ちになり、ルンルンで手を叩きました。
そして衝撃を受けたのが、そのときの舞台上にいる学生たちの姿。なんと、泣いてる人がいる。
実はこの公演は、その年の部活一年間を締めくくる舞台であり、最高学年はその舞台を持って引退する「引退公演」でもありました。
特に「引退する生徒の紹介」として引退する生徒が立ってソロを弾くシーンでは、まわりの同じパートの人の多くが泣いたり、笑ったり。感情の渦に呑まれていました。
「分かんないけど、なんか、いいな……!」
「私もこの人たちみたいと同じ舞台に立ってみたい!!!」
直感でそう感じた私は、なんとなく、中学に入ったら「この人たちの仲間になるんだ」と考えるようになったのです。
ただその後、私はとある事実を親から教わります。
「〇〇ちゃん(近所のお姉ちゃん)はね、受験をしたんだよ」
そう。この公演に誘ってくれた近所のお姉ちゃんは、中学受験をしていました。
「そっか、このまま小学校に通っているだけでは、あそこに辿り着けないんだ」
そこで私は、その学校に入学して管弦楽部に入ることをほとんどの目的にして、中学受験の勉強を始めることにしました。
(当時、どうやら私は受験勉強をすることに対して「楽しそうだね!」と発言したらしい。すごいな、過去の自分)
一応見てみるか、と別の学校の説明会やオープンキャンパスにも参加するなかで「こっちのほうが良いのでは?」と思う学校に出会ったりもしたけれど、結局、また次の春が来ると演奏会を見に行って「いいなあ。やっぱりここだなあ」と思う繰り返し。
ちょっと特殊な受験方式の学校だったこともあり、その学校の受験対策ができる専門の塾に、わざわざ家から電車に乗って通ったりもしました。
そうして小学6年生の冬、無事に合格。晴れて、憧れの部活がある学校の生徒になりました。

第二の憧れ「コンミス」を見つける
部活の体験期間が始まると、私は真っ先に管弦楽部へ。
先輩たちに「他の部活見に行かなくて、本当にいいの?」と言われても「大丈夫です!絶対管弦なので!!」と言い張り、本当に最後まで管弦楽部しか見ませんでした(笑)。
楽器は、バイオリンを選択しました。
もちろん経験はゼロ。ピアノをやっていたので楽譜は読めたものの、それ以外の楽器は、小学校の音楽室にあるものにしか触れたことがありませんでした。
本当は、あの舞台にさえ立てればそれで良かったので、楽器もなんでも良かったのですが……せっかくならメロディーを弾ける楽器が良いなと選んだのが、バイオリンです。

そんなこんなではじまった、管弦楽部員としての学校生活。
中学1年生から高校2年生までが音楽室に集まり、練習をする日々は、何もかもが新鮮でした!
憧れの部活に入れた喜びと、はじめての「先輩」という存在と、バイオリンという楽器の楽しさとで、部活にいるときの自分は本当にイキイキしていたなあと思います。
そして出来たのが、コンサートミストレスへの憧れ。
コンミス / コンマスの先輩方の姿が本当にかっこよくて、いつからか「私もああなりたい!」と思うようになったのです。
ただ、それはただではなれない役職。学年で一番上手くならなければならないし、まわりから一番信頼されなければいけません。
そこで私はさらにやる気を出し、部活はほとんど休まずに、バイオリンもより力を入れて練習するようになりました。
レッスンに通ったり、ワークショップに参加したり。
コンクールに出るような部活ではなかったので、まわりは他の委員会や課外活動、遊びを楽しむようにもなっていたし、私も本格的に意気込むまでは別の活動も楽しんでいたのですが、コンミスを目指し始めてからは部活に一途になりました。

モチベーションは、先輩たち。「仲が良い」というよりかは常に「憧れ」の存在で、毎年「先輩をがっかりさせたくない」という一心で練習したと思います。
練習して、仲裁して、教えて、耐えて

そうしてやってきた、幹部学年である高校2年生。
もちろん、私はコンサートミストレスに立候補し、晴れて憧れのポジションに就くこととなりました。
嬉しかったです。まわりにも「どう考えても、ももちゃんでしょ」と言ってもらえて、納得してもらえている感じが。
でも、部活自体を引っ張りながら、オーケストラとしても成り立たせなければならない最上学年としての生活は、そう甘いものではありませんでした。

私の部活には、いわゆる先輩と後輩の「上下関係」みたいなものがありませんでした。むしろ、後輩ファースト。
差し入れは、中学1年生から手をつけて良し。準備や片付けは、最高学年が一番頑張る。
だからこそ、低学年は「最高学年になったら、今度は自分たちが後輩にできることをしよう」という意識が芽生える。
そんな環境が、管弦楽部の好きなところの1つではあったのですが、だからこそ、最上級生は大変だったわけです。
練習メニューは、自分たちで決める。演奏会に使用するホールや合宿場の予約も自分たちで行い、当日に向けて準備する。それをやりながら、自分の練習だけでなく後輩の指導も行う。
とにかく話しあって、決めて、動くことの連続だったのですが、話し合いのスキルが未熟な高校生の話し合いは、そう上手くいきません。
とくに大変だったのは、オーケストラで演奏する曲を決めるとき。最上級生やパートリーダーが話しあって決めるのですが、
「スキル的に、難しい」
「この楽曲には思い入れがあるから、譲れない」
「自分たちのパートに負担が偏りすぎるから嫌だ」
各々が全く譲らず自分の意見を通そうとするので、毎回が戦争状態。雰囲気は最悪。
嫌い合いが起き、勝手な行動に走ったりする人が出てきたり、親まで出てくる騒ぎになったり。本当に、カオス。
最初は話し合いに慣れれば、多少はスムーズになるだろうとも思ったのですが、そんなことも全くなく、本番が近づくにつれて出てくる焦りや不安から、むしろギスギスするようになりました。
他にも、問題は山積み。
楽曲のクオリティがなかなか上がらないとか、部活に来ないメンバーがいるとか、後輩にどう指導したら良いか分からないとか、そもそも自分が実力不足だとか。

いろんな心配に、常に追われていました。
「覚悟はしていたけど、こんなに悲惨なことになるんだ」
「なんで、上手くいかないんだろう」
「先輩たちはもっと上手くやっていたのにな」
と落ち込む日々。
正直、しんどかったです。今でもあのとき話し合いに使っていた教室の、チョークとお弁当の匂いが混ざった匂いや、暖房でモワッとした教室の空気を思い出すと、ちょっと息が苦しくなる。
あの夢があったから、頑張れた
でも私は、折れませんでした。小学2年生の自分が見た夢を、追い続けていたからです。
「これを乗り越えて最後の舞台に立ったときには、きっと感動するはず」
「あの景色を見るためには、ここで踏ん張らなければならない」
どんなに辛くても「やめる」という選択肢は少しも頭に浮かびませんでしたし、なんなら、余計に「私だけは、崩れちゃダメだ」と決意を固めたくらい。
そもそもコンミスという立場である以上オーケストラを引っ張らなければならないというのはあるのですが、人一倍この部活に対する思い入れが強い(と自認している)私は、絶対に匙を投げてはいけないと感じたわけです。
後輩や同級生たちに、たまには厳しい言葉を投げかけられるように「まずは自分が自分に厳しくなろう」と、
・演奏する楽曲は、誰よりも早くものにする
・朝練や自主練には、絶対に行く
・部長や副部長、指揮者、顧問など、絶対に崩れてはいけない人を支える
といったことをしていました。

幹部学年としては、陰でほつれた糸を結び直す。
コンミスとしては、もっと上手くなり、誰よりも努力することで、まわりがちょっとでもやる気になるように頑張る。
みたいな。
……言葉にするとすごくかっこよく聞こえるのですが、実際は超必死です。上手くいかないことがほとんどでした。ヒーローになれたら良かったのですが、勇気が出なくて言えなかったことや、やれなかったこともたくさんあります。
毎日落ち込んで、満員電車の中で、泣きながら帰って。
部活に行く前になると頭が痛くなったり、足がこわばったりしたけれど、それでも「管弦楽部」という存在だけは守りたくて、空中分解させないように、後輩たちにはそれを悟らせないように、必死に動いたつもりです。
思い出すのは当時、部活外の友だちに状況を話したら「月9か何か……???」と言われたこと。本当に、殺伐としていたなあ……。(笑)
そんな努力もあってか、10月に行われた文化祭での演奏会など、8割のイベントは無事に終了。
残すところは「あそこに立ちたい」と夢を見ていた、あの、引退公演となりました。

正直、最後まで現場はドッタバッタでした。争いごとや、ギスギスした空気も絶えなかった気がします。
それでも、「最後だから」となれば気持ちは一つになっていくもので。
年明けには、みんなで練習の録音を聞き返して「もう少しこうしよう」「このパートだけで、練習しようか」と声を掛け合って、練習する姿が見られるようになっていました。
辛いことばかりではなく、全体練習が上手くいったり、まわりがメキメキ上達していく姿を見たりすると嬉しい気持ちになったし、かわいい(×100)後輩たちが「先輩!」と話しかけてくれた日には、テンションが上がるもの。
引退公演に向けたパンフレット制作や、当日に向けた本格的な打ち合わせもはじまると「いよいよ引退なのか」と寂しくなると同時に、憧れていた舞台に立てる高揚感も抱くようになりました。
「引退のときの挨拶、なんて言おうかな」
「言いたいことは、いっぱいあるな」
なんて、引退公演当日のことを考え始めた、引退公演の1ヶ月前。
突然、夢は崩れ去ったのです。
舞台自体が消えるなんて、思ってもみなかった
2020年2月29日。
高校2年生としては最後の、期末テストを終えた日でした。
私の学校では一週間前から部活が禁止になるため、しばらく部活のメンバーとは顔を合わせられていない状況。
「よし!テストも終わったし、部活、さらに本気出すぞ〜!!」
と思っていました。
「午後から自主練する?」
「最後にちょっとだけ、休憩してもいいかな!?」
なんて、部活の友だちと話していたそのとき。
「管弦楽部、至急、大教室に集まってください」
校内アナウンスで、部員全員が集められたのです。
大教室に行くと、すぐに顧問から一枚のプリントが配られました。
「定期演奏会(引退公演)、中止のお知らせ」
休校要請が出たから、明日から学校は、しばらく閉鎖。
それと同時に、管弦楽部の活動も、今日で終了するとのこと。
文字を見た瞬間、頭の血液がスーッと冷めて、真っ白になる感覚。
すぐにプリントを折りたたんで、文字が見えないようにしました。
「嘘だよね?」
「夢だよね??」
と思い、まわりを見渡すと、泣いている部員がチラホラ。
「ああ……ダメなんだ。」
直感でそう思ってしまい、今度は心が真っ黒になりました。
コロナウイルスの存在を、知らなかったわけではありませんでした。
むしろ私は、結構「とんでもないことになるのではないか」と思っていたくらい。その1週間前から、満員電車の影響を気にして、車で送迎してもらったりもしていました。
「これ、休校とかもあり得るのかな」とも、考えていた気がする。
でも私は、なぜか、コロナウイルスが蔓延して、学校が休校になったとしても「引退公演がなくなる可能性」だけは、計算に入れていなかったのです。
たぶん、考えたくもなかったのだと思います。
考えたら練習に身が入らなくなるし、そもそも中止だなんて、そんなの「あり得ない」。
だって、私はここまでこんなに頑張ってきたんだから。そこは私の憧れの舞台なんだから。
でも、現実は変わりませんでした。
顧問が前で何かを話していて、たぶん私たちを励ますような言葉もくれていたと思うのですが、正直覚えていません。
まわりからはずっと鼻を啜る音が聞こえていて、話が終わると後輩が駆け寄ってきて、抱きしめてくれていたような気がするけど、それも記憶が定かではありません。
ひとつ覚えているのは、泣けなかったこと。
その一年間の苦楽を最も一緒に経験した、学生指揮が涙を流しているのを見て、少しもらい泣きしたけれど、思ったより涙は流れませんでした。
「ここで涙が流れたほうが、感動エピソードになるよなあ」
最低だけど、そんなことすら考えていたような気がする。
はじめて、泣きながら食べたごはんの味は
教室に戻ると、管弦楽部以外にも泣いている人が何人かいました。
どうやら、他の部活も同じだった模様。
「ああ、みんなも終わっちゃったんだ」と思ったことを覚えています。
そのあとはすぐに帰らされた私たち。
お弁当も食べずに帰りの支度を整え、学校を出て、電車に乗りました。
親に何か連絡したかったけど、何と言ったらいいかも分からなくて、母に「終わっちゃった。帰ります」とだけ連絡。
「お疲れさま。食べたいもの、買っておいで」
状況を一斉配信メールで知った母こう返ってきて、とりあえずボーッとしながら、いろんなお店を巡ってみることにしました。
(これも引退公演に向けて)ダイエット中だったから、しばらく外食なんてしていなかったけれど、新作のスタバと気になっていたカフェのケーキと、「美味しそうな匂い……」と思って買った銀だこと、マックのてりやきバーガー。
普段なら絶対に食べきれない量だし、こんなご飯の買い方はしないけど、判断能力が低かったのか、両手にいっぱいのごはんを抱えて、帰宅の途に着きました。
家に入ると、何だか引退公演がなくなったことを他人事のように感じ始めた私。
いやあ、終わっちゃったよ!」なんて話しながら制服を脱ぎ、ひとまず買ってきた大量のご飯を食べることにしました。
「いただきます」と、まずはスタバを一口。そして、銀だこを一口。
おいしい。
そして、母が一言。
「お疲れさまでした」
瞬間、涙が溢れてきました。
緊張が解けたからなのか、たこ焼きが熱くて「やっぱり現実なんだ」と気付いたからなのか。よくわかんないけど、涙が止まらなくなって、さらにお腹が減ってきて。
なんで、今だったのかな。
どうして、こうなっちゃったのかな。
私、悪いことしたのかな。
空っぽだった心に、急激に感情が湧き出て「なんで」「どうして」とドッと溢れてきました。
あんなに、心身を削って頑張ったのにな。
たぶん、これまでの数年間管弦楽部にいた、どの先輩よりも長く、引退公演の舞台に立つことを願ってたのにな。
私の夢は、この管弦楽部の引退公演じゃなきゃ意味がないのに。
どうして、今なの。
それまでどんなにしんどくても頑張ってこられたのは「引退公演」という晴れ舞台があると信じてたからなんだと、このときに気づきました。

嫌だったのは、これが誰も悪くない出来事だったこと。
せめて誰か決定的な原因となる人や出来事があれば「あの人のせいで」「これのせいで」と誰かを責められたのに、原因は、本当に誰も悪くない「パンデミック」。
誰も責められず、誰のせいにもできないことが、こんなに辛いとは。
誰も責められないからこそ「仕方ないのか」と潔く受け入れようとしている私もいて、それもすごく悔しかったのだと思います。
なに受け入れようとしてんだよ、自分。って。
理不尽なことを言うと、これが世界中で起きているのにもムカついていました。
こんな風に悲しんでるのは自分だけじゃなくて、私よりもっと悲しい思いをしている人もいるかもしれない。むしろ、これから現場対応をしなくてはならないと、震えている医療関係者もいるかもしれない。
でも、私は言いたくなったんです。
いま、世界で一番しんどいのは、私。
「あなたより辛い思いをしている人がいる」なんて、知るか。
そう思ってしまうくらい、本当に立ちたい舞台でした。
……気がついたら、全てのご飯を食べきっていました。不思議とお腹もパンパンではなく、なんなら「もっといける」と感じたくらい。
ごはんを食べ終わったあとも、グルグルとした感情は止まらず、ぼーっと無になっていたかと思いきや、急に悔しさや悲しさが迫ってくるような時間を繰り返していました。
忙しければ忘れることもできたのだと思いますが、コロナ禍で過ごす日々は生憎スケジュールが真っ白。忘れることもできません。
どうにかして、やる方法ってないのかな。
明日になったら、すべて元通りだったりしないかな。
部活、再開しないのかな。
と、しばらく落ち込む日々が続きました。
後輩たちの引退を、見届けられなくなった
結局、解決してくれたのは時間でした。
本来引退公演があったはずの日づけを過ぎると、諦めもついてくるようになって。
日本もどんどん大変な状況になっていったから「やっぱり、仕方なかったのか」と思うようになり、だんだんと「切り替えるぞ」という気持ちが強くなっていきました。
慰めに話を聞いてくれた友人たちや家族、後輩たちの言葉も大きかったと思います。
「あのとき、本当に頑張っていたと思う」
「先輩がいなかったら、やめていたと思います」
実際にそんな言葉が聞けたのは、本来引退公演があったはずの3月から半年ほどが経った冬頃だったけれど、その言葉たちにとても救われました。
とはいえ、心の傷は癒えきりません。
その証拠に、私は管弦楽部を引退した後、部活が再開しても、ほとんど部活に顔を出しませんでした。後輩たちの引退公演も、見に行きませんでした。
高校を卒業してすぐにフリーランスとして仕事を始めたので「忙しい」とか、そんな理由もあったけれど、たぶんそれは言い訳。
私が立てなかった舞台に立っている人たちを、いくらかわいい後輩とはいえ、見たくなかったのが本音だと思います。
そんな風に考えてしまう私が嫌で、何度かは部活に足を運んでみたし、引退公演も一度は見に行ったけど「頑張っているね」「引退おめでとう」と思う裏に、どうしても「私は、できなかったのに」と睨みつけてしまう自分がいました。
余計なひと言を言ってしまうのが怖くて、後輩たちにはとても申し訳ないけれど、距離を置くことにしたのです。みんな、ごめんね。
いまだに傷は癒えないけれど、ちゃんと幸せです
あれから、5年。
ようやくこの出来事について、落ち着いて書けるようになってきたため、noteに書き出してみました。
あれから、私はある言葉を常に心に刻んで生きています。
確定された未来なんて、ない。だから、未来に期待しすぎない。
あの10年間を、後悔はしていません。結果は出なかったけれど、その夢に向かって歩いた道は、絶対に私の人生に必要なものだったから。
「努力するのをやめておけば良かった」「部活になんて、入らなければ良かった」とは、絶対に思いません。
でも、いまだに傷が癒えないのも本音です。
一時期は「立ち直った」と思っていたけれど、いまだにあのときのことを思い出すと苦しいということは、きっとまだなのだと思っています。
これ以上傷つきたくない。私がどうにかできる「今」に集中して、未来には期待しすぎないようにしよう。
「期待しない」にも、いろんな方法があります。
・あらゆる可能性を考えて「叶わないこともある」と心のどこかで唱えておく
・どんな状況にも対応できる、柔軟な自分でいる
・未来の幸せな自分に期待せず、今日、自分が自分を幸せにする
単純に「夢を見ない」とかそういうことではなく、未来の自分やまわりの状況に頼らず、今、どうにかすること。これが私にとっての「期待しない」です。
最初は「傷つかないように」と不幸を回避するために始めたことでしたが、今ではこのマインドを使って、好きなものやことで自分を満たしたり、無駄な我慢をしない生き方ができたりするようになりました。
フリーランスという生き方に魅力を感じたことや「自分で自分の機嫌をとる」感覚を大切にし始めたのも、この出来事が1つのきっかけになっていたりします。
この経験は、間違いなく私の人生において欠かせないハイライトとなりました。
***
私にとっての「部活の引退公演」は、憧れ。
その経験が役に立つかどうかとかは全く考えていなくて、ただただ、成し遂げたいと思うことでした。夢でした。
「将来、何になりたい?」と言われて思い浮かぶことがなく、困った末に毎回違う職業を答えるような夢のない子どもだったけれど、今でこそ、そう思います。
「この経験が今に役に立っているからOK!」「いい経験になった」なんて言い方は、正直したくありません。
でも、思うんです。一生完治することがないであろうこの傷は、たまに引っ張り出してきて、撫でることが一番の癒しになるはず。
だから私は、最後に、夢が途絶えたあの日の自分にこう伝えて、このnoteを締めようと思います。
5年後の私は、ちゃんと幸せに生きてるよ。
頑張ってくれたあなたのおかげで、手に入ったスキルがいっぱいあるよ。もっと深く、自分について考えられるようになったよ。
でも、まだ、ちゃんと悔しいよ。ちゃんと、引きずってるよ。
悔しいって嫌な感じがするかもしれないけど、悔しい経験があると、人は強くなれるみたいだよ。
5年が経ってもちゃんと悔しいって思えるくらい、本気でやってくれてありがとう。頑張ったね。
