溺れるナイフ
" そのころ私はまだ15歳で、
全てを知ることができる、
全てを手に入れることができる、
全てを彼に差し出し、
共に笑い飛ばす権利が自分にのみあるのだと思い込んでいた "
この映画の監督である山戸結希監督は
「運命的な2人は描いたが運命的な恋を描いたつもりはない」と10年前のインタビューで語っている。

コウと夏芽はたしかに運命的だ。
しかし夏芽はコウにどこか「普通の男の子」であることを赦さない節がある。
コウちゃんには特別であって欲しい。
強くあって欲しい。
コウちゃんは私の神さんだ。

あの子に勝ちたくて、写真集の話受けたんです。
そう語る夏芽の瞳にはレンズではなくコウを纏う炎が蜃気楼になって揺らめいているようだった。
つまるところ、夏芽にはコウしか見えていないのである。
この映画は公開当時から大好きでこれまで幾度と無く観てきた作品である。
東京でモデルをしていた夏芽にとって田舎町である浮雲町は退屈そのもので、毎日息が詰まる思いを抱える。カメラの前でしか息ができない少女だから。
立ち入り禁止の海でコウと出会ってからの夏芽は恋する女の子というよりも楽しいおもちゃを見つけて興奮している赤子のようだ。
退屈は人を狂わせるし
刺激に対して前のめりにさせることで更に人を狂わせる。
かくなる私も退屈を感じやすく、退屈を愛せずにいる。
信頼関係や正しい大人という存在は刺激にはならない。だけどこの映画が公開されていた頃の自分では持ちえなかった感覚が最近生まれ始めた。
夏芽は刺激こそ運命の恋だ、運命の出会いだ、と定義している女の子である。
私だって、恋愛に限らず、自分にも何か眩い閃光によって人生が変わる瞬間が訪れるものだと期待していた。
しかし、27歳になった自分が「これを自分の中で最大に価値あるものと定義しよう」と思えた瞬間というのは揺るがず、いつも変わりなく静かに傍に佇む湯のようなぬくもりなのであった。
10代の頃の自分からしたら「劇的に変わる何かは無かったのか」と落胆するだろうか。
だけど今の自分から伝えることができるとしたら今まで持ちえなかった感情というのは未知であり探究しがいがありますよ、それでもいいじゃない
といったところだ。
いつも変わらずそこにあったものを大事なんだと自覚する経験というのは閃光や落雷よりも極めて唐突であった。
27歳5ヶ月の出来事。
