自分の感覚と出会いなおす - 鈴木ユートピアさんの写真を現像してみた
先日書いた以下の記事で、私にとってのRAW現像は「隠されたもの」をしつこく探ることで悦びを得る癖であると言語化できた。
さらには、RAWデータは画像データでなくただの数字の羅列であること、それはさながら創世神話冒頭のごとく、とてつもない濃度で凝縮された混沌であり、またそこにものごとの顕れる“きざし”を見るような、RAW現像とはそのような行為であるということに大きな興奮を認めた。
大げさではなく、私はRAW現像をするためにシャッターを切っていると言ってもいいかもしれない。
そうなると、例えば私とまったく関係のないところで生まれたRAWデータに向き合ったとき、私の感覚はどういう反応を示すのだろう?
そんな疑問が湧いてしばらく、ふと思い出した。
鈴木ユートピアさんがRAWデータを提供しておられる!
私は鈴木ユートピアさんを、ユートピアさんの記事でしか知らない。
どんな場所に住んでいて、どんな人々と暮らしていて、どんな時間にどんな気分で出掛けて、どんな目で「いいもの」を見つけ、どんな感性でそれを捉え、画像データに仕上げるのか、という写真の背後に潜むディテールを、辛うじて勝手にイメージすることはできても、知ることはできない。
わーい!格好の的だ!!
というわけで、ここぞとばかりにRAWデータをお借りして現像させていただきます。よろしくお願いいたします。

RAWデータを開いてまずびっくりしたのが、どれもこれも私が絶対に撮れない画だったこと。
ご本人が現像する前のデータなのだからもう少しフラットに見えるだろうと予想していたのに、そこにあるのは完全に他人の視界だった。知らない景色、とかじゃなくて、他“人”の視界。たとえ同じ景色の中にいても私にはこうは見えなかったと思う。
だから、まずは「私がもしこの景色の中にいたら?」という問いを立てなきゃいけない。私が私の目でこの光景を捉え、シャッターを切った理由を捏造せねば始まらない。
以下、完全に妄想です

上の写真は、木陰で健気に咲く花に強い生命力を感じて撮った。日当たりのいい場所でのびやかに咲いている株もたくさんあるのに、この株は不運か必然か、あまり陽の当たらない木陰に根づいてしまったようだ。
1日のうちで最も陽を浴びられる時間帯は、おそらくこの夕方付近。西陽を懸命に受けて咲く姿が愛しい。

この写真は、倒れ枯れゆく花と青く逞しく生きる葉が同様に照らし出される姿に、プリミティブな公平性を感じて撮った。
生きることも死ぬことも、どちらも同じフィールドで同じ面積で同じ質量で存在する。もしもいずれかに第三者が関与し作用したとしても、そのように見えるだけで実際は何ひとつ偏らないのかもしれない。

これは純粋に線と記号的要素が並んでいて気持ちよかったから撮った。特に、食欲を促すオレンジと注意を促すオレンジ(黄色)が並行するのが面白い。
よく、人間は自分たちの生活を線と記号で整理する。整理されると情報が軽くなってラクになる。そうするときっと群れで暮らすのに便利なんだろう。

人々の暮らしには全方位で「私を見て!」というサインが溢れている。(もちろん花や実などの容姿や香りも虫や何やに認識してもらうためのサインであって、人だけの暮らしに限った話ではない)
コカ・コーラのサイン、しかもボトルのイラストの真上にサイクリストがかぶる瞬間に生まれる演出性は、偶然とはいえコーラの甘さくらいクドい。クドいけれどもどうせなら、動いて乾いた身体に染みる糖分と炭酸の刺激を想起する、ストーリー性が付与された「サイン」として画に収めたかった。

本来であれば人を中へ招くはずの扉は閉まり、シャッターも降り、鉢植えたちはバリケードとなって、さらにはチェーンで明確な境界が引かれている……という強固な層の存在が面白かった。(実際は別の箇所に入り口があるかもしれないけれど)
夕暮れ時のアンニュイな雰囲気もあいまって、強制的な「また次の機会に」感が、ファインダー越しに静かに、しかしこれでもかというほど押し寄せてくる。

これはもう、シンプルに可愛い。こんな感じのワンピースがほしい。
きれいなライン、微妙に質感の異なる布を合わせたシックでしっとりとした地に、散らばる色、色、色。まるで半身から零れ落ちたみたいに、裾にもぱらぱらと配置してほしい。

やぁ、と目が合ったような気がしたので撮った。
短い午睡から覚めたあと、ひょいと柵から覗いてみればニンゲンがいた、というところだろう。他の子たちもめいめい好きなように過ごしている。私もそうしている。
以上、完全な妄想でした
まずひしひしと感じたのが、私の感覚にも記憶にも夕方っぽい光しかないこと。活動時間は午後メイン、むしろ夕方からが本番!みたいな生活リズムがこんなにも影響してくるとは……
会社員時代にこの記事を書いていたら、またぜんぜん違うアウトプットになっていたかもしれない。
それと、トリミングがめちゃくちゃ捗ること。
私は普段はあまりトリミングをしないのに、今回はめちゃくちゃトリミングした。こんなにトリミングをしたのは初めてかもしれない。
トリミングが捗った理由は、ユートピアさんが提供してくださった「撮影者が景色を切り取ったもの」に対して、私はそれを改めて景色とし、そこからさらに自分の視界を切り取るような動きになったからだ。でかいモニターで作業してよかった。小さい画面だったらおそらくもっと難しかったと思う。
ここでわかったことは、今の私にとってのRAW現像は画に宿るストーリーを再構築する作業であるということ。シャッターを押して切り取った段階では確定していない「情報のカタマリ」を開き、精査しながら確定していく作業。そしてその情報のカタマリを開くための扉は、Lightroomの小さな青いアイコンだ。
ここまで考えるタネをくださった鈴木ユートピアさん、面白い企画を提供いただいてありがとうございました!
鈴木ユートピアさんの記事は、軽くやさしい読み口でコーヒーにとても合います。皆さまぜひ読みに行ってよね。
それにしたってAdobe依存が酷い。嫌すぎる。私の人生の半分以上がAdobeと共にある。当たり前のように思えるのもまた怖い。公私ともにAdobeがないと話にならない。そんなのイキモノとして弱すぎるでしょ……
他の現像ソフトを使えばいいじゃん、っていう話じゃないんだよこればっかりは。何を使ってもAdobeの影が脳裏にチラつく身体になってるんだよこっちは。死ぬ直前にAdobeのアイコン群が迎えに来ませんように。
