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「罰すべきもの」ではなく「自分の世界を広げるもの」

3児の母で会社員、ももです。


生きているといろいろな人と会うもので、すごいな!と思う人、素敵だなぁと思う人、そして自分にはちょっと受け入れ難い考えを持っている人もいますよね。

価値観が違う人と出会うと、その行動を見ているだけでモヤモヤするものです。

けれどそこで拒絶してしまうのではなく、同じ場所に立って見てみると、新しいものが見えてきました。

自分が「悪」と思うものは、罰するのではなく、自分の世界を広げるものとしてとらえてみるのもよさそうです。


価値観の違う人を「罰したい」という気持ち

わたしはルール違反やモラルに欠けた言動に反応してしまう傾向があります。

ルールを守らない人を「悪」と感じ、「罰せられるべき」と思うとき、それはつまり自分がその対象を心の中で「罰している」ということになりますよね。

それに気づいたとき、ちょっと怖いなぁと思ったのです。

自分は警察でもないし裁判官でもない。悪を取り締まり裁く者ではありません。

ルールを守る者(自分)と守らない者(相手)が立っているのはこちら側とむこう側ではなく、同じ場所なんです。

そういう視点で周囲を見てみると、ちょっとした気づきがありました。


言動のむこう側をそう想像する

たとえば子どもの授業参観でのこと。

授業中の子どもをスマホで撮影しない、というのはマナーとしてはもちろん、事前に配布されたプリントにも記載されていました。

ところが中には撮影する人がいます。

「それはダメでしょ」「書いてあったよね」「そもそもモラル的にアウトでしょ」と思うわけです。

口に出さないだけで、心の中で罰しているんですよね。

でも、(心理的な)「同じ側」に立ってみると、気づくことがあります。

モラルの問題は置いておくとして、その人には悪気はないということ。

我が子の姿を写真におさめたい、という思いは、みんな同じですからね。

さらに想像してみましょう。

授業中に写真を撮るのは悪いことだと思っていなかった可能性があること。

少しくらいなら許してもらえるだろうと周囲を信頼していたのかもしれないこと。

どうしても写真を撮って見せたい人がいたかもしれないこと。

想像できないような事情があるかもしれないこと……。


誰かの言動によって自分の世界が広がる

「自分の価値観と違う言動」に拒絶反応を示して「悪」と決めつけると、そこから先の思考が止まります。

強い信念を持っていることや、ルールのような善悪が明確に決まるものであれば、それでも良いのかもしれません。

でもここで少し視野を広くしてみたり、視座を高くしたりしてみると、自分の中に新しい思考が生まれます。

その人の気持ちを想像してみたり、何らかの事情がある可能性に考えを巡らせてみたり。

見えなかったものが見えてきて、自分の世界が広がります。


自分にフィットした考え方を探ってみる

自分の正義を持つのも素晴らしいことですが、それはあくまで自分に向くもので、他者に向かってしまうと「攻撃」になる場合があります。

日常生活における警察や裁判官のような存在は誰一人としていません。

みんな同じ場所に立っていて、それぞれの価値観を持っているというだけ。

そして、違った価値観を持つ人を拒絶するかどうかも個人の自由です。

わたしは世界が広がる感覚が好きですし、価値観の違う人の言動に「引いて」しまうの自分が嫌だったので、フラットな立場でいろいろな事情を想像してみるのもいいなぁと思っています。

自分にはちょっと受け入れ難いような人でも、新しい物事に気づかせてもらえると思ったら、とてもありがたい存在に思えるようになりました。

自分にフィットして、かつ、自分が心地よい考え方なら、どんどん取り入れてみるのも良いと思っています。

ひとつの「モヤモヤ」を薄めるための参考になればうれしいです。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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