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それってまさにSuperじゃんよ「Superman」

以前、「トワイライト・ウォーリアーズ」の回で子供の頃、テレビの洋画劇場系のネタが切れるとよく放映していたモノの中で、ジャッキー・チェンの映画を挙げたが、もう一つ、同じように一定のローテーションで放映されるモノがあった。そう、「スーパーマン」シリーズである。スーパーマンと言えば、世界中、ありとあらゆる人間が物心ついた頃から彼の存在を認識しているほど、知らぬものはないキャラクターである。

にもかかわらず、俺がスーパーマンについて知っていることは、
1.惑星クリプトンから来た宇宙人。
2. 両親は死別、赤ちゃんだったスーパーマンは地球に送られてアメリカ中部あたりの納付の家に引き取られる
3.本名はカル=エル
4. 怪力、音速飛行、目からビーム、太陽を浴びると超回復
5. 普段は新聞記者のクラーク・ケントとして生きてる

といった非常にベーシックな内容のみである。あれだけ洋画劇場で放映されていたのに俺は何を見ていたのか、と思うが、なぜかやはり子供心にも刺さらなかったのである。インディ・ジョーンズルーク・スカイウォーカーとは違う、何か決定的な違和感がそうさせたのでは無いか。そう、それは紛れもない奴のスタイルによるものだと思う。
オールバックにマッチョというヒーロースタイルは日本人にはなじみが薄く、青タイツに赤パンツという出で立ちはもはやコントである。そんな違和感が無意識に俺からスーパーマンをかっこいいモノと認識させず、今日日、今日までたいしたインタレストを生み出さなかったのではと考える。

オリジナルそのまま洋モノポルノに使えるほどのルックス

そんなスーパーマンが2025年の現代に新たに映画として上映された。そして監督はあのジェームズ・ガンともなれば、これは観に行くしかあるまい。
すでに時代錯誤といってもいいほどの風貌の彼の物語を今でも、いや、今から追いかける若者がいるのであろうか?この映画をきっかけに新たなファン層が開拓されるのであろうか。
そして俺は長い隔たりを経て、スーパーマンを新たなヒーローとして迎えることが出来るのだろうか・・?

1938年に発行されたコミックに始まり、幾度も映画化されてきたアメコミヒーローの原点「スーパーマン」を、「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」「ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結」のジェームズ・ガン監督が新たに映画化。
人々を守るヒーローのスーパーマンは、普段は大手メディアのデイリー・プラネット社で新聞記者クラーク・ケントとして働き、その正体を隠している。ピンチに颯爽と駆け付け、超人的な力で人々を救うスーパーマンの姿は、誰もが憧れを抱くものだった。しかし、時に国境をも越えて行われるヒーロー活動は、次第に問題視されるようになる。恋人でありスーパーマンの正体を知るロイス・レインからも、その活動の是非を問われたスーパーマンは、「人々を救う」という使命に対して心が揺らぎはじめる。一方、スーパーマンを世界にとって脅威とみなす天才科学者で大富豪のレックス・ルーサーは、世界を巻き込む巨大な計画を密かに進行。やがて、ルーサーと彼の手下である超巨大生物KAIJUがスーパーマンの前に立ちはだかる。世界中から非難され、戦いの中で傷つきながらも、スーパーマンは再び立ち上がっていく。

映画.comより引用

冒頭、3万年前、30年前、3年前、3日前・・と軽妙な区切りを付けながら物語のベースとなる前日譚をテキストのみでテンポよくサクサクと語りつつ、いきなり敵にやられたスーパーマンの描写から始まる。
満身創痍のスーパーマンが呼んだ助けに応えたのは、まさかのスーパードッグ(超かわいい)という展開!じゃれつく犬をボロボロの体であやし諭すシーンを見て、俺は「これは・・違うぞ・・」と大いなる期待を持った。

違う、というのは何か。そう、今までの「暗いスーパーマン」のイメージである。
幼少期に洋画劇場系で目にしたものの記憶はかなり薄いので、ここでは直近、2000年代のリメイクスーパーマンをベースに話すが、そう、とにかくスーパーマン映画は暗いのだ。
滅びた母星の生き残りという出自、地球で異星人として生きる自分、異能であるという孤独、そんな揺れるアイデンティティをいつもウジウジ悩んでいるような印象しかなく、なんかこう強いのにすっきりしない奴、ゴリマッチョな碇シンジ、超チンポがデカいけど正常位しかしない内気な男、暗いヤリマン、などに匹敵するアンビバレントな存在として捉えていた。要はキャラがよく掴めなかったのだ。

つまり日本で言うところの蛮頭大虎

今作を観るにあたっても、やはりそこが気になっていた。
大画面でマッチョがウジウジとかまた見せられるんじゃないだろうな、という懸念は正直あった。しかし、今作のオープニング、犬とじゃれるようなシーンを見て、何というか「人間くささ」みたいなものが感じられたのだ。作られた高潔さ、完全無欠のヒーローの抱える悩み、みたいな方向はなさそうだな、という直感があった。スター・ゲイザー(クリス・プラット)ほどではないにしても、ジェームズ・ガンらしい、軽妙なヒーロー感を感じることが出来たのだ。

本編の話に戻ろう。ストーリーについても非常に現代的なアップデートが施されていた。
例えば今回いきなりやられた相手は、大企業が作ったヴィランだったが、その本体自体の強さ以上に、スーパーマンの動きを逐一戦略分析された結果の敗北であったことが後ほど明かされる。また、弱小の隣国に攻め入ろうとする侵略行為を人道主義に基づいてスーパーマンが止めたことで、かえって国際非難が高まるなども興味深い展開だった。以前であれば、弱者を助けて偉い、さすが!で終わるところを、米国の警察行為、外交権や代表権が無い中での越権行為と誹謗中傷され、SNSで炎上するなどは非常に現代的な展開だと感じた。いままでのように強い敵が出てきて、それを頑張ってさらなる強さで倒す、
守られるだけの地球人はそれを賞賛する、というかつての構図は一新され、敵は世論や政治や技術、力だけでは乗り越えられない問題というのを突きつけられる。米国選挙やウクライナ侵攻、イスラエル問題など、現実の問題とのSyncも匂わせており、単なる活劇娯楽のみでは無いという作品のメッセージを垣間見た気がする。

その上で、やはりスーパーマンとしての活躍を真ん中にブレずにおいてくるあたり、本当にヒーローモノとして完成していた。
弱者の命が奪われる、だから戦った
それ以上の理由が必要であろうか。あえて現代的な複雑な障壁を提示し、その上で政治や立場を越えた信念、正義の有り処を示す、それこそがヒーローだと分からせてくれる今作は、究極にシンプルで真っ直ぐな「スーパーマン」の物語だった。
2025年の日本でも、外国人問題などが声高に語られる中、スーパーマンの最後の台詞「僕だって人間だ、だから強くなろうと努力している」というのがより胸に響いた。今現在、世界の様々な場所で起こっている膠着した問題を解決するのには、本当にスーパーマン的な超常的な力が必要になるのかも知れないな、と思った。
(以前の映画スーパーマンでも、世界中の核ミサイルを集めて太陽に放り込み、一気に世界を非核化する描写があったような・・うろ覚えだけど。)

なにより、自己満足的な自警行為を行うエセヒーローを描いた「Super!」から始まったジェームズ・ガンが今、本物のスーパーマンを世界に届けていることに、感動を覚えた。現実の重いテーマを取り込み、現代的にアップデートした内容を提示しながらも、ヒーローモノとしての芯をしっかりと貫いて、そこにいつもの軽妙なコメディタッチもしっかり残していくという、とかく素晴らしい作品だった。
ここから新たにスーパーマンのファンもきっと増えていくだろう、少なくとも自分はシリーズを見直そう、クリストファー・リーブの頃から、と思った。

ちなみに「Super!」も最高!サントラもかっこいい!

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