【西遊旅譚/司馬江漢】(17)カジキトヲシ、ライ鳥、タカマツの歯、鯨舟旗
『西遊旅譚』は、江戸時代後期、蘭学者で絵師の司馬江漢が記した長崎旅行記。行く先々の史跡名所、風土、なかでも長崎で見聞する支那船、オランダ船、出島、まぐろ漁、くじら漁などは挿絵も多くとても楽しい読み物です。天明八年(1788年)四月二十三日に芝門を出発。全五巻。
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此魚、アミナシといふ。又、カジキトヲシとも云。土佐の國にはカシキ通といふ。舟の底をつらぬく。
尾より頭目のあたりまで一丈余有。此魚は、生月嶋、亦右衛門といふ者の臺所に釣てあるを写す。正月の料理に用ゆるよし。
背の色、鮪の如し。腹のかた白し。
※ 「臺所」は、台所。


ライ鳥
此鳥、常に不 見。鯨漁の節、いづくより来り。鯨の肉を喰ふ事、かぎりをしらず。鷗に似て、大さ白鳥の如し。阜にあがりては歩事あらず。
頭うす黄 觜生胭脂うす色

タカマツの歯 一名 鱐
鯨、鮪を喰ふ魚也。予、此歯を持来。●るに効あり。

此圖は、此島の漁父に尋て図す。海中に潮を吹、背を出す。まのあたり見るといへども、全體を不見。世美鯨と同く、潮を二筋にふく。くじらも世美の外は一筋ふく也。
タカマツ 一名 シヤチホコ
大さ二間余
※ 「圖」は、図。
※ 「全體」は、全体。

扨、圖する所の鯨談(くじらのはなし)は、余、逐一見る所のみを話し、不見ものは ● てかたらず。毫毛も虚言(うそ)なし。文章を華美にせず、ありのまゝにはなすもの也。
五島、平戸、其外、紀州熊野浦(此浦にて得る所の鯨は小なり、しかれども品数十六品あり)漁父の外、●ひ近里のもの鯨の全體(まつたきかたち)を見たる者なし。
いかなる故なれば、五島は城下をへだつ事、八九里の嶋なり。平戸も同五六里、又は、十二三里を隔る島にて、鯨漁す。ことに極月より正月初旬、尤漁をもつぱらにす。小舟にして、《ろ》櫓を|押者八人、刺子一人、他の者乗事あたはず。
児鯨、尤舟を●る事多し。舩覆る。水練を得ざるものは、命をうしなふ。漁父は幼少より海邊に育、自然に水れんを得たるものなり。されば、波涛(なみ)のうち、巨魚(おほうを)にうたれるもの多しと ● 。故に、見る者鮮し。よく虚談(うそはなし)をきくもの、或は、三十三尋ありて背を剪て油を扱出すなどいへり。
余、嘗、平戸島に渡り、松浦■(■は厃+天)の命により生月島、益富又左衛門が宅にとまる事、三十日(又左衛門は鯨来る時、所々島々に人夫を出し備をなす事、二千餘人をやしなふ)、鯨来事、両三度に不過。好事がために、危を忍びて、此漁を見たり(此島より、壱岐国へ十三里西北にあり、鯨剃土井市兵衛といふものあり)
※ 「まつたきかたち」は、全き形。
※ 「極月」は、十二月のこと。ごくづき、ごくげつ。
※ 「松浦■」は、松浦矦(侯)。平戸藩の藩主。
※ 「鯨剃」は、誤読しているかもしれません。
※ 「益富又左衛門」は、生月島の捕鯨家。鯨組の益富組の主。
※ 「土井市兵衛」は、壱岐の捕鯨家、土肥市兵衛。鯨組の土肥組の主。

正月元旦、此島も門松をしたて、雑煮をいはふ事、江戸に同じ。四日、此島を出舩して、平戸島の方、白嶽の下を乗。絶壁数丈に聳て、赤壁かと疑ふ。茲を過れば、油水といへるにいたる。岩壁、赤し(大赭石の類なり、画の色に用て可也)。其両岸をめぐりて、田助港に至る(長崎より乗、舟此助にかゝる)。夫より舟を出して、平戸城下に着。
※ 「大赭石」は、天然の赤鉄鉱。代赭石。

鯨舟旗の圖
長須子持は、トモの方に建る。
勢美のときは、此印を船の表に建る。坐頭はトモの方にたてる。皆、旗の建かたにて鯨の品頭をしるなり。
■(■は糸+夂)牛の角なり。
※ 「トモ」は、艫。船の後方部分、船尾のこと。
参考:『西遊日記』『捕鯨志(肥前国生月捕鯨場)(壱岐國捕鯨場)』『壱岐郷土史』『壱岐国神社誌』(国立国会図書館デジタルコレクション)
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