【古今名婦伝】白柏子祇王(しらびやうしぎわう)

白拍子 祇王
京中第一の白拍子なり。容麗、蓺妙なり。妹祇女と共に、美名を擅にす。相国殿召れて、寵遇比なく、毎月百石百貫を贈られ、母の刀自も富昌たり。
こゝに亦、佛と称 舞姫同時に召入れ、歌せ舞せ、佛の様を御覧ずるに、標致も技も祇王に勝れり。殊に、齢さへ妙年ければ、入道殿は惚惑ひ、帳臺に抱入つゝ、忽に祇王に暇を賜けり。
其時、祇王は障子の表に
萌出るも 枯るも同じ 野辺の草
いづれか秋に 遇で果つべき
と書て、すご/\宿所へかへり、淵瀬とかはる飛鳥川、浅ましの世を嘆く程に、再び参れと召れたり。
今は再び参らじとすまふを、母の後難を懼れ、強て出しけるが、かゝる憂目に懲果て、嵯峨野に隠れて尼となる。其時廿一歳なり。
海裳山も 坊主にしたり けふの月
※ 「相国殿」は、平清盛のこと。
※ 「刀自」は、婦人の称。婦人が屋内の事を主ることから戸主の意。参考:『大日本国語辞典 巻3(とじ)』(国立国会図書館デジタルコレクション)
※ 「佛と称 舞姫」は、平清盛の寵愛を受けた白拍子の仏御前。
※ 「標致」は、容貌の美しいこと。ひょうち。
※ 「帳臺」は、正方形の台の上に畳を敷いて、四隅に柱を立てて帳を垂らした形をした貴人の寝所。参考:『詳解漢和大字典 増補版』(国立国会図書館デジタルコレクション)
※ 「淵瀬とかはる飛鳥川」は、世の中は絶えず移り変わるものであることの喩え。飛鳥川の淵瀬。
※ 「海裳山も…」は、江戸時代の俳人 清水周竹が剃髪に際して詠んだ句。参考:『名家俳句集』(国立国会図書館デジタルコレクション)
◇
祇王は、平安時代末期を生きた女性です。

生没年不詳(平安時代末期)
近江国の益須(野洲)郡中比(中井)村に生まれました。幼い頃に父を亡くし、病に伏していた母のため石清水観音にお参りしていたところを、時の太政大臣 平清盛に見初められました。
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祇王は当時、京で名前が知られた白拍子の上手。清盛はその美しさに惹かれ屋敷に召し上げようとしますが、母の病を理由にこれを固辞します。しかし、それを聞き入れるような清盛ではありませんでした。
祇王だけでなく、母(刀自)と妹(祇女)も一緒に、三人で西八條の宮へ召されることになりました(西八條の宮(西八条第)は六波羅邸とは別に清盛が構えていた邸宅で、現在の京都駅の西、梅小路公園の南辺りにありました)。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『源平盛衰記図画』
この挿絵は、祇王が初めて清盛の屋敷に参上した時の様子を描いたものです。中央の立烏帽子姿の女性が祇王、御簾の奥に座っている男性が清盛です。ちなみに、母と妹も白拍子でした。
下の挿絵は、祇王姉妹です。ふたりとも立て烏帽子をかぶっています。

白拍子(平安時代末期に始まった男装の舞)についての説明は、話が長くなるので文末に記載したいと思います。よかったら読んでみてくださいね。👀
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西八条の清盛の屋敷で暮らし始めた祇王はその寵愛を一身に受け、母の刀自、妹の祇女にも格別の待遇が与えられました。『平家物語』によると、毎月の手当に米百石と銭百貫が送られ「家内富貴して楽しい事なのめならず」と記しています。

京中に聞えたるしらびやうしのじやうず、ぎ王、ぎ女とておとといあり。とぢといふしらびやうしがむすめなり。しかるに、あねのぎわうを入道相国てうあいし給ひしうへ、いもとの祇女をも、世の人もてなす事なのめならず。母とぢにもよき屋つくつてとらせ、毎月に百石百くはんををくられたりければ、家内ふつきしてたのしい事なのめならず。
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ただ、この暮らしは長くは続きませんでした。三年が過ぎた頃、ひとりの美しい白拍子が訪ねて来たことで、祇王の状況は一変します。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『平家物語 12巻 [1]』
その女性は、加賀国生まれの白拍子の佛です。若くて美しい祇王よりも、さらに若くわずか十六才(数えなので十八才ぐらいかもしれません)。京で評判になっていた佛は、せっかく京に居るのだから時の権力者である清盛殿に召されたい… と誰の紹介も持たず訪ねて来ました。
清盛は不躾な来訪に腹を立て追い返しますが、そばにいた祇王が「せっかく訪ねてきたのですから、お会いになるだけでも… 」と取りなしたことで、二人は面会にすることになります。
呼び戻された佛は、清盛と祇王の前で歌を歌い、舞を舞います。下の挿絵はその時の様子です。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『画解平家物語 : 2巻』
佛の舞と歌声、その美しさにすっかり魅了された清盛は、なんとその場で佛を召し上げると言い出しました。
これにはさすがの佛も困り「祇王様のお取りなしで、このようにお目にかかれたのですから、私をここに召し置かれては、祇王様がどのようにお思いになるか… どうぞ、この場を、退出させてください」と言います。
しかし、それを聞き入れるような清盛ではありません。
「それなら、祇王を追い出すから安心せよ」と佛に言うと、「祇王、とうとう罷出でよ(さっさと出ていけ)」と祇王を追い出してしまいました。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション
『武者かゞ美 一名人相合 南伝二』
この突然の展開には、祇王も驚いたことでしょう。
いつかは清盛の寵愛を失うだろうと覚悟していた祇王ですが、さすがに今日このような形で… とは思いもよらず、追い立てられるように部屋を後にするその最後に、涙ながらに一首の歌を襖に書きつけました。
萌え出づるも 枯るるも同じ 野辺の草
いづれか秋に あはではつべき

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しかし、どうして祇王は佛を清盛に引き合わせたのでしょうか。
祇王が「せっかくだから会ってみては… 」と進言しなければ、このような展開にはなりませんでした。一般的には、三年前の自分と同じ境遇にある佛が追い返されるのを見て気の毒に思い… と語られるところですが、個人的にはもう少し複雑な感情があったように思われます。
この時の彼女たちの年齢は、祇王二十歳、佛十六歳です。清盛はというと、すでに出家しており、五十代前半になっています。(文献によって年齢が多少前後します)
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清盛の屋敷から追い出され、毎月の手当も途絶えた祇王は、悲嘆に暮れる毎日を送ることになります。京の人々の好奇の目にさらされることも、とても辛かったと思います。
ただ、ここまでであれば、まだ、さもありなんと理解できるのですが、ここからが「驕れるもの久しからず」とうたわれた清盛のこと。その驕傲ぶりを発揮します。
次の年の春、祇王は清盛から屋敷に来るように言われます。佛が退屈して寂しそうにしているから、相手をしてやってくれというのです。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション
『昔語尾花振袖 6巻』
祇王に応じる気はありません。しかし、清盛殿に背いては京で生きていけないと母に泣いて頼まれ、祇王は泣く泣く西八條の宮へと上がります。
そこに用意されていたのは、以前とは比べものにならないはるかに格下の席。そのような場所に座らされた祇王は、わが身の惨めさに悔し涙がこぼれます。
それを見た佛は慌てて「祇王様がそのような場所に座られては… ささ、こちらへ(上座)お越しください、そうでなければ私がお暇をいただいて、外でお会いしましょう」と言いますが、清盛は聞き入れません。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション
『昔語尾花振袖 6巻』
佛に「ならぬ!」と言うと、祇王に向かって「その後どうしておったか?佛が寂しそうにしているから、元気づけてやってくれ、今様でもひとつ歌ってくれまいか」と言いました。
多少なりとも毎月の手当てを送っていればまだしも… これではさすがに祇王が可哀そうです。

『平家物語 3編12巻 一』
祇王は涙をこらえながら歌を歌いました。
仏も むかしは 凡夫なり
われらも つひには 仏なり
いづれも 仏性具せる身を
へだつるのみこそ かなしけれ
あまりに素晴らしい歌だったので、その場に居た平家一門の公卿たちもみな感涙したといいます。
清盛も感心した様子で、しかし、こう言います。
「舞も見たいところだが、今日はほかに用事がある、これからはわしが呼ばずとも、いつでもここへ来て、今様を歌ったり、舞を舞って、佛を慰めてやってくれ」と。
祇王は涙をこらえて屋敷を出ると、二度とこのような目には逢いたくないと出家を決めます。実際には自害しようとして母に説得され思いとどまるのですが、話が長くなるのでここでは省略します。

『前賢故実 巻第7』
祇王にとって清盛が理不尽なのは言うまでもありませんが、母の刀自もなかなか理不尽であるように思います。
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祇王たち三人が嵯峨の往生院で念佛を唱える日々を送っていたある日、竹の網戸をトントンと叩く音がします。昼でさえ人が訪ねることのない山里の庵に、ましてこんな夜更けに誰だろう… と祇王が戸を開けると、そこに立っていたのは佛でした。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『平家物語 7巻 [1]』
祇王が襖に書きつけた歌からこの世の栄華がいかに儚いかを悟り、ついに清盛のもとを去って剃髪して祇王を訪ねてきたというのです。話を聞いた祇王は佛を迎え入れ、その後は、祇王、母、妹、佛の四人で念佛を唱えて暮らしたということです。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション
『昔語尾花振袖 6巻』
江戸時代の『昔語尾花振袖』には、往生院の境内に祇王、母(刀自)、妹(祇女)、佛の四人の墓と清盛の供養塔の様子が描かれています。
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萌え出づるも 枯るるも同じ 野辺の草
いづれか秋に あはではつべき
白拍子について
白拍子というのは平安時代末期に始まった男装の舞のことで、水干を着て、立烏帽子をかぶり、腰に白鞘巻を差して舞います。

『大日本国語辞典 巻2』
起源には二つの説があり、『平家物語』と『徒然草』でそれぞれ異なる内容が記されています。
●『平家物語』
後鳥羽院の時代に「島の千歳」と「和歌の前」という二人の女性が舞い始めたとする説。
●『徒然草』
藤原通憲(後の西行)が「磯の禅師」に舞わせたとする説。
※ 磯の禅師は、静御前(源義経の妾)の母。静御前も白拍子。
後に「白拍子」は遊女の舞の名前、または、その舞をする遊女の称になったようです。明治時代の仮名垣魯文の『酌子定妓芸者の心得』という本によくまとまっているので引用してみます。
芸者の名称付り総論
(略) 抑々芸妓は白拍子の余流と雖も、中興白拍子は真の淫売婦に流れ、遊女の名は今の娼妓に止まりて、歌舞水弾一方を業とする者、跡絶しを、徳川氏の治世以来、京に芸子、江戸に芸者ありて、燗酌の宴席に酒興を添ふるも、其頃の縉紳貴顕は、政府堅く花柳に立入を禁じたれば、多くは中等以下の遊び者となれるより、自然と歌妓の品行下りて、纔に三味線弾き鳴らし、小唄、浄瑠璃抔の卑く淫猥がはしき謡ひ物を事として、嫖客をそゝのかす器械となり、往昔上等社会の献酬を周旋する白拍子の末流に背き、をさ/\下等娼妓輩にも劣れる後ろ暗き密売を事とする者多しと云るは、最嘆かはしき事にこそ。 (略)
舞子
舞子は、本字「小娼」なり。都にては「舞子」といひ、吾妻にては「踊子」といふ。今は又「芸者」といふ。古への「白拍子」の余流なるべし。白拍子の事実は、学者に『大明会典』に俗楽を作の妓を呼で「弾的し」といふ。又、『事物異名』に「妓綺娘」といふとあり。是、古への女楽なり。
或は、「倡優」「舞妓」「娼妓」「妓女」といふ。皆、和訓「まひおんな」「うため」「まひびめ」と (略) 『源平盛衰記』に、世に白拍子といふ者あり。漢家には虞氏、楊貴妃、王昭君などいひしは、皆これ白拍子なり。我朝には鳥羽院の御宇に、島千歳、君の前とて、二人の遊女舞はじめけり。
初は、直垂に立烏帽子、腰刀をさして舞ければ、男舞と申けり。後には、事がらあらしとて、烏帽子、腰刀を止て、水干に袴ばかり着て舞とあり。清盛入道の寵愛せし祇王、祇女、佛御前が事、彼記に詳らかなり。
又、少納言道憲入道信西舞の中に興ある事どもを撰て、磯禅師といひける女に教て舞せけり。白き水干に鞘巻を指せ、烏帽子をひき入たりければ「男舞」といひける。禅師が女、静といひける此芸をつけり。是、白拍子の根源なり。仏神の本縁をうたふ。
其後鳥羽院の北面土岐左衛門尉光行、多くの事をつくれり。後鳥羽院の御作もあり。御寵愛の舞女亀に教たまふよし、『徒然草』に見へたり。白拍子の根源、両説、孰か是非を識ず。
※ 参考:『画本年代記(島千歳女舞を始む之を白拍子と云ふ)』『画入年代記 : 明治新刻(島千歳女舞を始)』『文学捷径 : 初学須知』『新よし原はん昌記』『芸妓今川状』『宮城野芳妓』『日本名婦伝』『源平盛衰記』『画解平家物語 : 2巻』『日本名妓伝』『絵本源平盛衰記 2版』『女権の反対 : 頑固理屈(祇王・佛媛)』『大日本人名辞書 上 訂補2版(祇王)』『歌曲評註』『本朝人物叢伝(佛)(祇王)』『本朝軍器考集古図説 2巻 [2]』『大日本国語辞典 巻3』『平家物語 12巻 [1](きわうきによ事)』『平家物語 12巻 [1](妓王)』『平家物語 12巻 [1](妓王事)』『平家物語 12巻 [1](ぎわう)』『平家物語 12巻 [1](妓王事)』
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