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【古今名婦伝】松浦佐用姫(まつらさよひめ)

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『松浦佐用姫(古今名婦伝)』

松浦まつら佐用姫さよひめ
播磨国はりまのくに佐用郡さよこほり美貌かほよき處女をとめありけるを、狭手彦さでひこめし交歓かたらひし、一夜ひとよなさけ百年もゝとせいのちをくれてしたひくだり、松浦まつらうみこぎさりふねはるかみやりつゝ、よべさけべど、鼓涛うつなみほかこたふるものもなく、つひ哭死なきじにしたりしとなん。そのこゝろざしあはれむべし。

かのときひめのぼりしやまを「領巾ひれふるだけ」となづけ、佐用姫さよひめかみまつり、いまかのやま叢祠そうしあり。いしばけしといひつたふれど、こはうけられぬ妄談もうだんにて、ひと形㒵かたちたるいしあるをもて、しいたるなるべし。

  いときれて 紙鳶さとらねど 行方ゆくへかな

※ 「狭手彦さでひこ」は、大和朝廷の時代の武将、大伴狭手彦おおとものさでひこ
※ 「松浦まつらうみこぎさりる」は、宣化天皇二年(537年)大伴狭手彦が新羅しらぎに侵攻された任那みまなを救うために渡海するところ。
※ 「しいたる」は、事実を曲げて作りごとを言うこと。
※ 「紙鳶さと」の読み「さと」は誤読しているかもしれません。「紙鳶」は、たこのこと。しえん。いかのぼり。

江戸風の姿で描かれていますが、佐用さよひめは六世紀前半の大和時代を生きた女性です。

松浦佐用姫
生没年不詳(大和時代)

佐用姫にまつわるエピソードが元となって、唐津からつ(佐賀県)の鏡山を「領巾振山ひれふりやま領巾ひれを振る山)」と呼ぶようになったそうです。

領巾ひれというのは、古代の女性が肩にかけて左右に垂らした布のことで、下図の白い布にあたります。

領巾(ひれ)とおもはるゝものを白く彩れり
出典:国立国会図書館デジタルコレクション『遊古世 巻1


佐用さよは何故この山の上で領巾ひれを振ったのでしょうか… それは、愛しい人との別れを悲しんでのことでした。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション
日本列女伝 巻の2

任那みまなへと渡海する大伴狭手彦おおとものさてひこに向かって、佐用さよはこの山の上から領巾ひれを振りました。

船が見えなくなっても領巾を振り続ける佐用。最愛の人との別れはあまりに辛く悲しく、佐用の命はついはかなくなります。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション
大日本名将鑑

伝説上の人物とされる佐用姫さよひめですが、大伴狭手彦おおとものさてひこが『日本書紀』などに記される実在の人物であることから、モチーフとなる女性が存在していただろうと思います。

当時の日本の様子を見てみましょう。

第二十八代 宣化せんか天皇の御代。宣化天皇二年(537年)に日本府が置かれていた任那みまな新羅しらぎが攻め入ります。

任那みまな百済くだらの危機を救うため、天皇の命を受けた大伴狭手彦おおとものさてひこ唐津からつから海を渡ります。このときの別れが佐用姫さよひめの伝説となります。

『日本書紀』から該当部分を引用してみます。

二年(丁巳)冬十月壬辰の朔。天皇、新羅しらぎの、任那みまなあだ(■は宀+元+女)なふを以て、大伴金村大連に詔して、其の子・いはと、狭手彦さてひことを遣はして、以て任那を助けしむ。是の時、いは、筑紫に留りて、其の國の政を執りて、三韓に備へ。狭手彦、往きて任那をしづめ、た百濟を救ふ。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『新訳日本書紀

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佐用さよの生まれについて、『古今名婦伝』では播磨国の佐用郡さよこおりとしています。一方、奈良時代初期に編纂された『肥前国風土記』では肥前国の篠原村の弟日おとひ姫子ひめこであると記しています。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『肥前国風土記』15/31

弟日おとひ姫子ひめこでは別れた後のエピソードが異なっており、次のような話になっています。

弟日姫子が狭手彦と別れて五日すると、ある男が夜ごと弟日姫子の寝所に現れるようになります。狭手彦によく似たその男の後をつけてみると、褶振ひれふりみねの沼のほとりで横たわって寝ていました。体は人間、頭は蛇の化身…。付き添いの侍女が慌てて家族の者に知らせに行きますが、人々が沼に着いた時には弟日姫子の姿も蛇の化身もなく、沼の底にひとつの亡骸なきがらが沈んでいました。人々はそれを拾い、峯の南に墓を作り葬りました。

佐用姫さよひめははたして、播磨国の佐用郡さよこおりの娘なのか、それとも、肥前国の篠原村の弟日おとひ姫子ひめこなのか…

松浦佐用姫 大伴狭手彦
出典:国立国会図書館デジタルコレクション『武者鑑 一名人相合 南伝二

狭手彦さてひこは、近畿を拠点とする有力豪族の大連おおむらじ 大伴金村おおとものかなむらの三男です。

播磨国の娘を唐津に伴ったとしても不自然ではないし、現地で肥前国の娘と出会ったとしてもそれも自然な話です。

いずれが真実か、今となっては知るすべもありません。

ひとつ思うことは、朝鮮半島に渡る拠点となった松浦郡唐津では、佐用姫の時代もその後の時代も、数多くの男女の別れがあり、佐用姫の伝説に自分の境遇を重ねた女性が多かったことと思います。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『日本府県全図

上地図の「ヒレフル山」の右に「名古屋」の文字が見えます。これは、豊臣秀吉の文禄・慶長の役(朝鮮出兵)で拠点となった名護屋城があった場所です。

ヒレフル山
出典:国立国会図書館デジタルコレクション『日本府県全図


さらに、山上憶良やまのうえのおくらの詠んだ歌が『万葉集』に残されたことも、松浦の悲恋の物語として長く語り継がれる要因になったのだと思います。以下に五つの歌を紹介します。

とほひと 松浦まつら佐用姫さよひめ 夫恋つまごひ
領巾ひれりしより へるやま

やまと げとかも 佐用姫さよひめ
このやまのへに 領巾ひれりけむ

出典:国立国会図書館デジタルコレクション
日本英名伝

万世よろづよに かたげとし このたけ
領巾ひれりけらし 松浦まつら佐用姫さよひめ

海原うなばらの おきふねを かへれとか
領巾ふれらしけむ 松浦まつら佐用姫さよひめ

ゆくふねを とゞみかね 如何いかばかり
こほしくありけむ 松浦まつら佐用姫さよひめ

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『万葉集略解 第9(第5巻)

糸いときれて紙鳶は知らねど行方かな



参考:『実事譚 第36-39編(松浦佐用姫の実説)』『日本百将伝(大伴狭手彦話)』『大日本人名辞書 明治19年4月(松浦佐用姫)』『和歌呉竹集』『史学俗説弁(松浦佐用姫の事跡は実際也)』『大日本古今名婦鏡』『万葉集新講』『日本宗教風俗志(領巾振山の故事)』『万葉集新講(詠領巾麾嶺歌)』『万葉集古義 第5巻』『佐賀県誌(領巾振山)』『善悪三拾六美人 松浦佐用姫』(国立国会図書館デジタルコレクション)


筆者注 新しく解読できた文字や誤字・誤読に気づいたときは適宜更新します。詳しくは「自己紹介/免責事項」をお読みください。📖