見出し画像

【水害記録】安政風聞集(3)駿河路・伊豆・小田原・藤沢など

安政三年(1856年)八月に起きた江戸の台風災害の記録。著者は『安愚楽あぐらなべ』などで知られる仮名垣かながき魯文ろぶん(金屯道人)です。この前年には安政江戸地震が起きています。

📖

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『安政風聞集

䦕場
古語こごいふ、風の少小すこしなる一枚いちまいへだてあるも、かよへることおよばず。そのおほひにおこり、ふくに至ては、ぬきおくたふし、てん青々せい/\たる黄々くわう/\たる日月のくまなくてらすも、これため朦■もうろう(■は犭+竜)として、もの黒白●いろわかさず。莫遮さばれ万物ばんもつしやうずる風にあらざれば、やしなふことあたはず。

およそ、天地の中にくゞまりて、気にじやうじてゆく人間の鼻息びそく呼吸こきうみなかぜにあらざるなし。故に、うごけば、かぜはげし。又、人體じんたい痛苦やましむるも、もつておなじ。風邪ふうじや中風いうふうはなはだしければ、手足しゆそくしびら支離しりとなし、にはかたふれてめいに及べり。浮屠氏ふとし所謂いはゆる業風がうふうといへるもの、一度ひとたびふけば、金石きんせきくだけりと。是らはがいといふべき ● かつえきにおけるや。風、万物ばっぶつを作り、天地とともつきず。天地はしゆとす。

※ 「䦕場」の「䦕」という漢字は、戸を開閉する音の意。
※ 「莫遮さばれ」の読み「さばれ」は、さもあらばあれの略。遮莫さばれ。参考:『大日本国語辞典 巻2(さばれ)』(国立国会図書館デジタルコレクション)
※ 「浮屠氏ふとし」は、仏陀(ほとけ)、または、僧侶のこと。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『安政風聞集

気は風をたいとす。草木さうもく花実くわじつときたがへず。百物ひやくぶつ生育せいいくいづれも風とによるれば、人躰じんたい呼吸こきう天地てんち気息きそくと同じなるべし。是をもてあげつらふに、天地の間に災変さいへんある人間に病痛びやうつうあるにひとしく、あへとするにたらずといへども、無事ぶじ安泰あんたいつねにして、災変さいへん病苦びやうくさらまれなり。つねなるをあやしまず。まれなるをとすること、なべての人の心にして、珍説ちんせつ奇話きわも爰におこれり。

于時ときに皇朝くわうてう龍次りうじ安政三丙辰年秋八月廿五日早旦さうたんより、液雨ゑきう蒙々もふ/\として、をひたしゝが、黄昏たそがれいたり風たつみかはり、蕭然しやうせんとしてふきつのり、そのいつゝ下刻はんごろより、弥益いよ/\烈敷はげしき強雨がうう車軸しやぢくを流すが如く、亥刻よつすぐるころほひに至り、風雨いと/\夥敷おびたゞしく黒雲こくうんちうまひくだり、黒白あやめも分ぬそのうちより電光でんくわう四方しはうへほどばしり、奔雷ほんらい殷々いん/\なりはためき、樹木じゆもくとばし、砂石しやせきまきあげ、倉庫そうこ屋室おくしつ逆浪さかなみにゆらめく孤舟こぶねごとく、宮殿きうでん楼閣らうかく枯野かれのにそよぐすゝきたり。

板戸いたどおのづか関鎖とざしを開き、格子かうし障子しやうじともさつて、あと鴨居かもゐ敷居しきゐとゞむ。

かべ空々くう/\として、本来ほんらいどろかへり、はしらは段々にをれさゝらとなり、家根は飛でちうにひらめき、かはらふつ木葉このはひとしく、土塀どべいくづれてほりうづめ、板垣いたがき自然おのづからはしをなして、洪水でみづおへる流にまたがり、さながら天地もくつがへるかと人々戦競おそれおのゝきて、さらいきたる心地こゝちもなし。

※ 「皇朝くわうてう」は、皇国の朝廷、または、わが国のこと。
※ 「早旦さうたん」は、早朝のこと。
※ 「たつみ」は、東南の方角。
※ 「蕭然しやうせん」は、もの寂しい様子。しょうぜん。
※ 「黒白あやめも分ぬ」は、文目あやめかず。暗くて物の区別がはっきりしない様子。
※ 「奔雷ほんらい」は、激しくなる雷のこと。
※ 「関鎖とざし」は、門戸の錠や鍵のこと。

しかのみならず、海辺かいへんおきの方、鳴動めいどうすること、百千の螺貝ほらならすが如く、逆浪ぎやくらうてんをひたし、数舩すせん雲をはしるかとあやしまれ、そが折から、高さ五丈余れる洪波こうは洶涌けふとうとして、漁村ぎよそんおほふ。嗚呼あゝめいなるを天聖てんせいたいにかゝる災凶さいきやうくだすことをや。

就中なかんづく東海道とうかいだうは、遠《ゑん》かけ川より日坂につさか金谷かなや、大井川まで、までにはあらずといへども、枯木こぼくたふし、旧家きうか破壊はゑする常の大風のごとくならず。大井川は元来もとよりして、南風なんふうに水まさり、北風ほくふうに水をひけば、是また人々さつし給へ、大井川より一里しもに「いろ」といへる所ありて、此処こゝ溺死できしの流れよる事、おびたゞしきことなりしとなん。

※ 「洪波こうは」は、大きな波のこと。
※ 「洶涌けふとう」は、水が勢いよく涌き出ること、または、波が立ち騒ぐこと。きょうゆう。
※ 「ゑんかけ川」は、遠州えんしゅう掛川かけがわ。遠州は遠江国とおとうみのくに

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『安政風聞集

〇 駿河するがへ懸り、島田しまだ藤枝ふぢえだ岡部おかべ、まりこ、何れも街道かいだう大木たふれ、旅中りよちう難義なんぎおよぶ処、是又所々しよ/\にありしよし。府中ふちうまでの事なくして、江尻えじりよりみのぶ道、子原こはら万沢まんさはみなみ部等、人家じんかふるき故なるにや、多分そんじ家有しよし。

又、興津おきつ、油井、蒲原かんばら、是又、松原おほければたふ多く、海道かいだう往来わうらい難渋なんじうせしよしなり。ふじかはも水まして、是またしばしとまりしよし。夫より吉原よしはらはら沼津ぬまづ海道かいだうはさまでにあらねど、わけへ入ては大分だいぶん漬家つぶれやたふみづ増て、水腐すゐふ田地でんぢも出来しよしなり。

〇 伊豆いづは、三島みしま宿しゆくより、濱手はまてかけて、みつ・・戸田とだ大田子おほたごいろざき・・・・、何れも大風大雨の上ににはかしほのおし上来り。其難義なんぎいふ斗りなく、こと下田しもだ出崎でさきなれば、風雨はげしく、いへたふし、かつは、しほはやきが故に、つなぎおきたる大小のふねながれ来りて、難義なんぎのよし、れども濱辺はまべかねてより、津波つなみ覚悟かくごなして有ば、溺死できしものなかりしなり。

仁田につた韮山にらやま北条ほうでう辺は、水のなんはなしといへども、大木たいぼくたふれ家をつぶし、怪我けがせし人のすくなからず。夫より外浦そとうらかわづ・・・赤沢あかざは川名かはな網代あじろ風破ふうはの家少し。是は、風筋かざすじのがれし故なり。

〇 あたみは、までの事無れど、繁昌はんじやう湯治場とうぢばなれば、遊山ゆさんきやくおほき故に、事なれざる他国たこくの人々、大きおどろさはぎたるなり。

〇 相模さがみうつり、土肥とひまなづる、梅沢うめざはしま、此辺は、下田しもだひとしき大あれなる。

夫より長井ながゐは、舩場ふなばゆゑ、大舩、小舩、打やぶれ、又は、丘岡くがち吹上ふきあげられやぶるゝものかずれず。網代あじろより三崎浦みさきうらは、津浪つなみひとしきさはぎなれども、せる人は是なきなり。

又、浦賀うらが走水はしりみづの辺は、せん年の津浪つなみれば、までにはなしといへども、じつ恐怖きやうふをなしたるとなり。

※ 「丘岡くがち」の読み「くがち」は、陸地くがち

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『安政風聞集

西浦賀にしうらが新地町しんちまち 和泉いづみ何某なにがしはなしにきくせん年の津浪つなみせつは、しきりにうみり、の色さへたゞならねば、海端うなばたいづれも出て見居たれども、せることもなきゆゑに、又、立もどり、帳面ちやうめんしるし居たるが、ひた/\とたもとに水の付まゝに、こはつめたしとふでち立てば、家内やうちへ水あげきたり。たゞ忙然ぼうぜんと立たるのみ。間もなく、水のひきはてて見れば、手元に置たるものみなひきゆかれて、一身そのみばかのこりたる。その不思議ふしぎさ、あとにて聞ば、家のまゝ、海へ勃溺ぼつできしたるもあり。

又、ある人は、それ津浪つなみきくより、主人の具足樻ぐそくびつ背負せおひて、山へにげたるが、はや足元あしもとしほる故、かくてはいのちたすからじとひつふたけ、用金のみ取て、身がるはせのぼり、からき命をひろおゝせ、あとにて見れば、いとたかき松の枝に、主人のかぶとかゝりてのこりしなどきくも、だちし事なりしが、此度は、夫程それほどはげしからねど、夜中やちうのこと故、一倍いちばい心痛しんつうなししが、人々の溺死できしせしものなしとなり。

これ津浪つなみにあらずして、たゞ南風なんふう大汐おほしほ吹上ふきあげ来れる故なるべし。

※ 「勃溺ぼつでき」は、没溺ぼつできのことと思われます。水におちて溺れること。
※ 「具足樻ぐそくびつ」は、当世具足を納めるふたつきの箱のこと。具足櫃ぐそくびつ

具足櫃
出典:国立国会図書館デジタルコレクション『図画小学 巻1−6

※ 「おゝせ」は、誤読しているかもしれません。

〇 また金沢かなざは本牧ほんもくの辺は、ぬしなきふね吹寄ふきよせきたり。其舩にてつなける手舩、破損はそんおよべるなり。これふきせたる舟どもの大きなる故なるべし。

〇 街道かいだうは、箱根はこね小田原おだはら大磯おほいそ平塚ひらつか、此へんは、うみさへちかき処なれば、これまた破損はそんみちはし家居いえゐ沢山たくさんに見へたるなり。

藤沢ふぢさは戸塚とつか程ヶ谷ほどがやは、多分たぶんあれは見へねども、風にもまたそのすぢありて、思ひがけ大家たいかそんをるべく見へぬ。大木たいぼくなどたふれたるもおよべば、一様いちやうにもいひがたし。

〇 小田原より風祭かざまつり入立田いりたつたより湯本ゆもとかゝらず。たゞちに、たうさは、人ゆくみちおほきなるはし有しが、山水におしながされ、きしがはまで流れ出たり。

木賀きがよりかへりし人のはなし、かのかめ屋といへる湯宿ゆやどは、にはひとつの小川をとりみ、景色けいしよく模様もやうりしよし、此川つねかれ川にて、清水しみづすこしのながれなるが、此夜、にはかに水おしいづる故に、宿やどにはきやくすゝうへの山へおひにがすに、風雨はげしく燈火ともしびさるゆゑに、銘々めい/\蝋燭ろうそく倮火はだかびふところにし、やう/\く山へにげあとに、かの湯宿ゆやどべつ座敷ざしき、下むね、水にながされしよし。

※ 「かれ川」の「活」は、誤読しているかもしれません。文脈からするとがわ(普段は水が流れていない川)のことと思われます。


みつ  戸田  にら山  大田子  木●  下田
出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『安政風聞集

油井ゆゐ興津おきつへんにて、大風雨たいふうあくるあさ海岸かいがんのさまを見たりしが、大小の舟やれそんじてふきせ、なみたゞよへるは、おどろかすばかりなりしが、流石さすが海辺かいへん眺望ちやうぼうのとゞくかぎりあれば、遠見とうみ浦々うら/\あらしせしとも思はれず。

例日いつもかはらぬ絶景ぜつけいにて、もり青々せい/\みづふくみ、けふたちのぼる里々さと/\は、いともゆたかに見へたりと、はなしのまゝをこゝにすのみ。



筆者注 ●は解読できなかった文字、□はパソコンで表示できない文字を意味しています。新しく解読できた文字や誤字・誤読に気づいたときは適宜更新します。詳しくは「自己紹介/免責事項」をお読みください。📖