【水害記録】安政風聞集(1)序

安政風聞紀 序
一灾□れば二灾起るといへるは、肎ねる哉。去年の冬は大震(オホヂシム)あり。今亗の秋は大風ありて、家屋を傾け、樹木を僵ししは、大に同くして、雨の壁土を浸し、土倉を漬せるは、小く異也。是に因て、洪水溢れいでゝ、資材(タカラ)を流し、衆人(オホゼイ)を溺らせしは、時候の不順なるが故に、此変事には及びしならむ。
按に、政悖り徳□るゝ時は、厥風(オホカゼ)、屋を□り、木を折ると歟いへる、古き語も今は否らず。天灾は自然にして、泰平の代は風條を鳴さず。雨塊を破らずといへれど、堯に九年の水患(オホミヅ)あり。湯に七年の旱灾(オホヒデリ)あり。如是、水旱の灾害あるは、是ばた時の否泰(ヨシアシ)に関らざる。天孽(オノヅカラノワサハヒ)の自然にして、聖代(ヒジリノミヨ)といへども、遁るゝこと能はず。當に遯るべくして避れざるあり。
※ 「一灾□れば二灾起る」は、一災起これば二災起こる。
※ 「去年の冬は大震」は、安政二年十月二日(1855年11月11日)に起きた安政江戸地震のこと。
※ 「今亗の秋は大風」は、安政三年八月に起きた江戸の台風災害のこと。
※ 「悖り|」は、乱れること。
※ 「徳□るゝ」は、徳隱るる。
※ 「堯」は、古代中国の伝説上の帝王。
※ 「湯」は、殷を建国した王の名。
※ 「是ばた」は、誤読しているかもしれません。

逃るべからずして、□るゝものあるは、俚諺にいへる今の浮世は倒也。かるが故に自作る孽は猶違べく、天の作る孽は逭るべからずとやいふべからん。されば、陸に舩䑺り、水に人漂ひ、丘は壊れて凹となり、溝は埋れて凸となる。人家、人の字を作たるも、破れて丿となり乀となる。王荊公が見ましかば、何と歟かと歟いふなるべし。
然に、今般の𩗗風(ウミノ大カゼ)は筥根からこッちときけど、よッぽどこけらを吹めくりて、易に所謂そん(損)の卦也。都て西北は小頺(スコシクヅレ)にして、身を傷りたる人寡く、東南は大破にして命を害ふ人衆し。其形勢に目を的るに、守る神社は荒涼て、修覆の時に氏子を拜み、菩ふ佛寺は再建に、縁ある衆生を憑むなるべし。斯る時節に、あひおひの松の千歳も幹より折れて、百年目かや五十年来、肇て飍く金凮に葻かぬ柳、花のなき、枝をさくら(櫻)も情あらば、果の憂世となげくらむ。
※ 「倒」の読み「さかしま」は、逆倒。さかさまのこと。参考:『大日本国語辞典 巻2(さかしま)』(国立国会図書館デジタルコレクション)
※ 「𩗗」という漢字は、つむじかぜ、海上に起こる暴風雨の意。
※ 「筥根」は、箱根。
或は、大魚押出されて、小水にすみ、螻蟻(ケラアリ)流れ入ッて、呑舟の魚に制せられ、竟に非情(コゝロナシ)の物となりなん。又、竪川の水横に漲り、禾田(イネノタ)菜畦(ナノハタケ)の粒々辛苦を水になさじと立譟ぐ。羅漢寺あたりの農民たちは、偏袒右肩(ミギノハダヌク)に両肌に真ッ躶にもなりふり構はず、再出る玉の汗流れの身てふ名詮にや。溢るゝ水の深川の假宅に戀情を賣る遊女が、却て首たけはまりゐと歟。今戸の烟立のぼらで、陶器の西行をさへぶんながして、行方もしれぬとかこつらん。あるは、鴻飛で、冥々といへるは、張九齢がからうたを知れる詩人なるべく、「いづゝにか身をばよせまし」とつぶやくは、為頼の中納言めく歌人なるべし。
又、戰々□々(ヲノゝク)といへるは、毛詩をよみたる雅人にや。
※ 「呑舟」は、舟をまるのみにすること。
※ 「偏袒」は、片肌を脱ぐこと。
※ 「名詮」は、名詮自性。名はそのものの本質を表すということ。
※ 「かこつ」は、恨みごとを言い、嘆くこと。
※ 「張九齢」は、唐の政治家・詩人。
※ 「からうた」は、漢詩のこと。
※ 「いづゝにか身をばよせまし」は、藤原為頼の歌。
いづこにか 身をばよせまし 世の中に
老をいとはぬ 人しなければ
※ 「為頼の中納言」は、平安時代中期の歌人 藤原為頼。

垣を吹拂ひて隣とひとつになせりといへるは、方丈の記はしらでいふ俗人ならん。
あるは、命こそ危けれ。晴間をまちていでんといへる登蓮ならぬ法師もあるべく、又、ひとのめをわがもの顔に連ゆかんとする。秋湖に異なるそゝッかしい男もあらん。盲が見つけ、聾が聞つけて、上を下へとさわぎしなンど、ならべていはゞ水に浮べる雜木、陸にちりぼふ屋上板のかぞへもつきず。僧俗男女の哀別離苦は、大抵如斯とあらましを、巻の首にしるすになむ。
安政三年丙辰ノ十月六日、雨太く降る夕より聿を濡して、地震強く揺る旦わなゝく/\稿を脱す。
物なしの翁戯述
※ 「登蓮」は、平安時代後期の歌人・僧。
※ 「ちりぼふ」は、散り乱れること。参考:『日本小辞典(ちりぼふ)』(国立国会図書館デジタルコレクション)
※ 「地震」の読み「なゐ」は、地震の古語。
筆者注 ●は解読できなかった文字、□はパソコンで表示できない文字を意味しています。
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