【西遊旅譚/司馬江漢】(10)長崎 支那船(とうせん)・支那人舘(とうじんやしき)
『西遊旅譚』は、江戸時代後期、蘭学者で絵師の司馬江漢が記した長崎旅行記。行く先々の史跡名所、風土、なかでも長崎で見聞する支那船、オランダ船、出島、まぐろ漁、くじら漁などは挿絵も多くとても楽しい読み物です。天明八年(1788年)四月二十三日に芝門を出発。全五巻。
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西坂より長崎を望。旗をたてたるは紅毛出島也。其邊に支那舩二三艘を見る。紅毛舩は、八月港を出て一里を隔つ高崎にかゝる。支那人舘は十善寺と云 低所 故 見へず。



支那人舘は、十善寺といへり(寺にあらず、地名なり)。中に社稷を祭。又、関帝堂有。帝命を奉て渡海する者、古は范氏、中は王氏、今は銭氏の人来る、其外十二家あり。是は自分一己の交易に渡海す。皆、蘇州の人也。
則、蘇州は日本の大坂の如き地にして、南京第一の繁榮の所なり。今は七八艘のみ渡海して、十三艘は来らず。
※ 「社稷」は、古代中国で祭られた土地の神(社)と五穀の神(稷)のこと。
程赤城といへるもの、浙江のうち乍浦といふところの人有。十五年以前より長崎に来る。又、方西園と云者は、画を好み、八九年以前より渡海す。福建の人なり。其外、周壬禄、宗敬●の類、数年渡海すといへども、書畫を作ざるものは其名きこへず。
いにしへ、草亭、撲庵、宕山、可亭、皆書をなす。伊孚九、山水の画あり。皆、此類、商賈にて交易の餘暇(あまりのいとま)、此 技(げい)あり。
※ 「程赤城」は、明末の船主。長く日本を往来し、日本語が堪能で書画と和歌に通じていました。老年になっても渡海することを問われ、日本の酒と料理が好きだからと答えたそうです。参考:『大日本人名辞書 下 訂補2版(テイセキジヤウ)』『惟神道話』(国立国会図書館デジタルコレクション)
※ 「方西園」は、清の画家、商人。
※ 「宗敬●」は、宗敬庭と思われます。また、宗敬亭という記述も見られます。参考:『凡品雑録 第1輯』『長崎志 正編』(国立国会図書館デジタルコレクション)
※ 「伊孚九」は、清の画家、商人。
※ 「商賈」は、商売、商人のこと。
※ 「餘暇」は、余暇。

日本は商家にても、哥・俳諧・書画を学ぶもの多し。是に比(くらぶ)すべし。能画、能書、或、文雅と賞するにたらず。其うち 沈南蘋、一人、能畵にして画師なり。又、近年来りたる方西園は、交易に疎、好く画をなす。多くは、水墨にして着色なし。
其師也と云者、周西山、名は選、此一人は北京の産にして、遊歴して、南京に留り、頃 長崎へ来る。此者一人は文雅の者にて、能書畵をなす。百日を過ずして帰帆す。官を避来るもの歟。
南京寺、或、悟真寺にて、度々應對して書畵を見る。又、此方よりも画など贈ける。總て支那人は日本人にかはる事なし。志 はなはだ似たり。雅も有、俗も有。又、顔面、日本人の如し。只、衣裳のたがひあるのみなり。
※ 「 沈南蘋」は、清の画家。
※ 「歟」は、欤。疑問や詠嘆などを表す「か」。
※ 「應對」は、応対。

支那人の圖 下人
明亡、今の清の代となる。乾隆五十三年也。風俗 如 圖。頭はめぐりを剃て、中に髪を置。乾隆帝、天下を巡狩する事四度、嵅九十餘と云。
※ 「圖」は、図。
※ 「如 圖」は、図の如し。
※ 「巡狩」は、古代中国において天子が諸国を巡視すること。
※ 「嵅」は、嵗(歳)のことと思われます。

支那船は、梅ヶ崎と云所にあり。船の大きさ十五六間、帆は布にあらず。藤を以て籠につくり、内に隈笹の葉を布。錠は木を以て製。艫の方、人物、或は、鷲の類を粉緑(ごふんろくせう)を以て 彩 画事、甚俗なり。其外は、黒塗にして、四角なる形を白く画。是は、拂郎機の形を画にかきたるもの也。
※ 「梅ヶ崎」は、現在の梅香崎町。
※ 「艫」は、船尾のこと。
※ 「ごふんろくせう」は、白色の顔料の胡粉と緑色の顔料の緑青。
※ 「拂郎機」は、大砲の一種の仏郎機砲のこと。読みの「いしびや」は、石火矢。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『長崎紀聞 乾』

露臺の圖 夏月涼所也
支那人居宅は、日本より家を作りわたす故、かはりたる作りかたなし。日本の如く、客などまうくるときは毛氈を敷也。

※ 「如此」は、この如く。

支那船艫(とも)の形
綱は藤 或は 棕櫚(しゆろ)にて作る
錠 木にてつくる

支那船全圖 帆柱の先、如此
船は日本船のごとく奇麗にあらず。皆、あら木を以て製。
是は、拂郎機のかたちを胡粉にて描たるなり。
参考:『西遊日記』『凡品雑録 第1輯』『長崎紀聞 坤』(国立国会図書館デジタルコレクション)
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