大和名所図会 巻六(乾)
この note では『大和名所図会』の挿絵ページを翻刻します。本文ページは大正時代の活字版があるのでそちらを参照してみてくださいね。👀 → 国立国会図書館デジタルコレクション『大日本名所図会 第1輯 第3編』(大正8年)
※ タイトルの「乾」は、「乾坤」で上下巻を意味しています。

『吉野紀行』曰 多武峯にてよめる
尋来て こゝも桜の 峯つゞく
吉野初瀬の 花の中宿
飛鳥井雅章
※ 「吉野紀行」は、明和九年(1772年)に書かれた『菅笠日記』のことと思われます。著者は本居宣長。『菅笠日記』(国立公文書館デジタルアーカイブ)
※ 「飛鳥井雅章」は、江戸時代前期の公卿、歌人。


多武峯
十市郡にあり。峯高く聳へ、草樹鬱蒼として幽𨗉の地なり。
田身嶺(日本紀)、大務(日本紀)、談峰(縁起)、多年(法華験記)、談武(増賀夢記)とも書り。

方子集
小夜更て かたらい山の ほとゝぎす
ひとりね覚の 床にきく哉
肥後


多武峯 東門

多武峯 本社 桜おゝし

多武峯 西門

『撰集抄』曰
むかし、増賀聖人といふ人いまそかりける。いとけなかりけるより道心ふかくて、天台山の根本中堂に千夜こもりて 祈給ひけれども、なを 実の心やいでかねて侍りけん。
中略
終に 大和國多武嶺といふ所にさそらへ入て、智朗禅師の 庵のかたばかり残けるにぞ 居をしめ給へりける。

※ 「撰集抄」は、鎌倉時代の仏教説話集。
※ 「増賀聖人」は、平安中期の天台宗の僧。
※ 「いまそかり」は、いらっしゃる。在そがり。


安倍文珠堂

阿部山 崇敬寺 智足院
阿部村にあり。人皇三十七代 孝徳天皇大化年中の草創なり。本尊 文珠大士は、むかし空中に 光あり時に、山川大に震動し、石窟に物の落ける音あり。立よりてこれを見れば、量壱寸八分の黄金の 文殊の霊像います。其 温なる事、人の 膚の如し。● これを感得して、安部山に安置し、後に 安阿弥に仰せて、佛量 九尺の像をつくらしめ、かの霊像を 眉間に 彫籠たり。猶それより、利生夜ゝにあらたに 効験日々にまして、奥州永井、丹後州切門、和州安陪山、これを 本朝三文珠大士として、遠近の 詣人喝仰せずといふ事なし。
いにしへは大日如来を本尊とす。今の大日堂これ也。文殊堂は別院として滿願寺と號す。

新古今
ほの/\と 春こそ空に きにけらし
天のかぐ山 霞たなびく
太上天皇

※ 「太上天皇」は、退位した天皇をいう尊称。ここでは、太政天皇後鳥羽院。


天香具山
千載賀
君が代は 天のかぐ山 出る日の
照むかぎりは つきしとぞ思ふ
大宮前太政大臣
※ 「千載賀」は、千載和歌集の賀歌。
※ 「大宮前太政大臣」は、大宮前太政大臣 藤原伊通。

天香具山
『範兼卿類聚』曰、此山あり所をしる人なし。『澄月哥枕』曰、此山のあり所ならひ傳ふる事ありとかや。披露におよぶべからず。『釋日本紀』曰、伊豫國『風土記』に曰く、天降の時、二つにわかれて、片端は 倭國 にとゞまり 天香久山といへり。片端は 伊豫國伊豫郡にとゞまり、天山といふ是なり。『詞林採兼』曰、凡 此 山は本朝の霊山として 在所陰陽家に 沙汰せらるゝ山也。天照大神、岩窟に 迷居 六合 常闇 にして、晝夜をわかたず。高皇産神、八百万神を 天 八瑞像鏡をいさしめ、麻をうへ、青和幣とし、穀木をうへ、白和幣とし給ふ。是、木綿の初として、一夜に蓋茂。此等の 儀式よりして今の世にも 豊御神楽と申は、是をうつして 行るゝな也。
※ 「範兼卿」は、平安時代末期の公家、藤原範兼のことと思われます。
※ 「澄月哥枕」は、中世の歌学書『歌枕名寄』。
※ 「詞林採葉」は、南北朝時代に書かれた万葉集注釈書『詞林采葉抄』。『詞林采葉抄』(国立公文書館デジタルアーカイブ)

耳成山
山中に 梔樹 おほし。此ゆへにくちなし山ともいふ。
古今俳諧
みゝなしの 山のくちなし えてし哉
思の色の 下染にせん
読人しらず

※ 「古今俳諧」は、江戸時代中期に出版された『古今俳諧明題集』のことと思われます。『古今俳諧明題集 5巻【全号まとめ】』(国立国会図書館デジタルコレクション)


耳成山
成、あるひは、梨、無 等に作る。木原村上方にあり。四面田野にして、孤峯森然たり。山中に 梔樹 多し。因て、又、梔子山とよぶ。

夕立に はしり下るや 竹の蟻
丈草

※ 「丈草」は、江戸時代前期の俳人、内藤丈草。


千載
露分て 宿かり衣 いそげども
里は とをちの 野べの夕ぐれ
従三位宣子

※ 「千載」は、千載和歌集。
※ 「従三位宣子」は、南北朝時代の北朝の女房、日野宣子。
※ 「とをち」は、十市。十市里。

新古今
よし野山 去年の枝折の 道かへて
まだみぬかたの 花を尋ねん
西行

※ 「新古今」は、新古今和歌集。


元弘三年正月十六日、大塔宮吉野城に籠らせ給へば、鎌倉勢六萬餘騎前後を ● て攻寄ける。大塔宮の御鎧に立矢は 七筋、血の流るゝ事 瀧のごとし。もはや 御最期の 酒宴あり所へ、村上彦四郎 義輝、錦の 御鎧を賜り、宮の御身がはりとなりて、敵を 欺き、宮を安ゝと高野山へ落し、其身は蔵王堂の前なる高矢櫓に上り、腹十文字に■ [■は木+癶+虫] 切て 伏にける。誠に本朝の英雄にして、前漢の紀信にも劣るまじき人なり。

吉野山
六田飯貝より大峯小篠に至る
新拾遺
けふみれば 川波高し よみしのゝ
六田の淀の 五月雨の頃
義詮
此方は川下なれども、図をくはしくあらわすふへに、川上へまかれあるなり。

※ 「新拾遺」は、新拾遺和歌集。
※ 「義詮」は、南北朝時代の室町幕府第二代征夷大将軍、足利義詮。

千本桜
日本が花 あらし山
続千載
よしの山 岑飛こへて 行雁の
つばさにかゝる 花のしら雲
中宮
散しくや 谷ゝさかり 奥つほむ
淡々
※ 「続千載」は、続千載和歌集。
※ 「淡々」は、江戸時代中期の俳人、松木淡々。

千本櫻
長峯より一目に見る桜をいふ。
日本花
七曲 の坂のうへより峯ゝ谷ゝの桜を一面に見はたすをいふ。
七曲
是より多武峯の行路なり。『巡覧記』曰、吉野山に登には、六田より入るが本道なり。吉野へ行人はかならず 先此道より入道し、飯貝の方よりも吉野の町へ登る、それはわき道なり。本道にも、わき道にも、童 ども桜の 実生を多く持出て、ゆきゝの人に賣る。是むかしよりのならひにて、蔵王権現の御愛樹となん云つたへける。

妹背山
古今
流れては いもせの山の 中に落る
よしのゝ河の よしや世の中
読人しらず

妹背山
貝原篤信『和州巡覧記』曰、上市より龍門の谷の中に入、此地の河邊の両旁に河を隔て、妹背山とて両山あり。飯貝の方にあるを背山といふ。西也。古城の 形見ゆる 龍門の方にあるを 妹山と云。東也。是は 茂山也。妹山、背山ともに高からず。同じ大さなる山也。河をへだてゝ両山相向へり。

※ 「貝原篤信」は、貝原益軒。名は篤信。
※ 「和州巡覧記」は、貝原益軒が書いた『大和廻』のことと思われます。『大和廻』(人文学オーブンデータ共同利用センター)

蔵王堂 威徳天神 實城院
しばしなを 夕 ● をのこせ 入相の
かねの御嶽の 花のひかりに
大納言雅章
※ 「入相のかね」は、日没のときに 勤行の合図につき鳴らす鐘のこと。
※ 「大納言雅章」は、江戸時代前期の公卿、歌人、飛鳥井雅章。

實城寺
蔵王堂の乾のかた、三町ばかりにあり。金輪寺ともいふ。建武三年より後醍醐天皇皇居にさだめられ、北朝と南朝と相わかれ、年號も両朝よりぞ出されける。天皇勅して、新葉和哥集をえらばれ給ひ、又、御手づから茶入十二をきざませ給ふ(或は廿一ともいふ)。世に金輪寺といふ これ也。漆器とはいひながら、勅作にて侍れば、金輪寺あひしらひとて 茶湯にもあるとかや。南朝四世 五十六年の間、皇居の地也。其時の皇居を作りもかへず、其侭にして、殿屋美麗なり。常の 御座あり。
帝ある時、ほとりの美景を詠め給ひて
都だに さびしかりしを 雲はれぬ
吉野おくの 五月雨の空
後醍醐天皇
※ 「乾」は、西北。
※ 「新葉和哥集」は、南北朝時代に南朝方で編纂された新葉和歌集。
※ 「あひしらひ」は、応対、受け答えのこと。

左抛社 袖振山
勝手社 三宝院 吉水院
続千載
天津風 雲吹とつな 乙女子が
袖ふる山の 秋の夜の月
国友

佐抛明神祠
吉野八大神の内也。御影山 此社地をいふ。さなぎ明神の山を御影山といふは、天人の影うつりしよりいふとかたり侍りしかば
さなぎだに さなぎの神の 御影山
うつろふ花に 風もこそふけ
飛鳥井雅章
勝手神祠
道の右にあり。大宮、若宮の二社ありて、吉野八神の内なり。
袖振山
右に御影山、左に袖振山、此山の 巓 を那良山となんいふ。天女こゝに舞かなでしより、袖振山の名あり。然れども、袖振山にはふるき書どもに説ゝ多く侍る。

吉水院
蔵王堂の少し先の町より左二町計下にあり。當院も後醍醐帝の 行宮にして、建武元年二月の遺券呈文あり。又、正平、弘和、元中、明徳の年間に賜ふ所の綸旨に及び、越智 筒井順慶等の願文あり。抑、此寺の草創は、役行者 山上 修行の時、姑息の庵室也。其後、後醍醐の聖寶尊師も、こゝに蹤をとゞめ給ふ。 加之 、源平兵乱には、源義経、弁慶もこゝに蟄し、軍議を謀る事、三年に及べり。其 居席 今に 破壊せず、庭前には駒の足蹤、武蔵坊が 力釘、今にその 形を遺す。往昔、文治元年、源義経 大物浦より風波の難をのがれ、此山に登り、夜に入てひそかに此寺に入る。吉野法師尊義経を討んせしゆへ、又、此寺を出、中院谷に隠れしに、悪党等なをも跡を求め来りければ、佐藤忠信をさして 防矢を射させ、静を 捨て、多武峰を經て、南院の内藤室の十字坊へ入られしとなり。又、後醍醐帝、京都を逃れさせ給ひ、此寺に潜幸ありし時、先當院へ行幸ありて、行宮とし、後に實城寺に移り給ふ。
此院の床を御枕としてよみ給ひし御哥に
花にねて よしや吉野の よし水の
枕の下に 石はしる音
後醍醐天皇

鳥栖山 竹林院
懐中抄
ふりければ 声も聞へず 鳥すみの
やどりは山の 名にぞありける
よみ人しらず
※ 「懐中抄」は、夜鶴庭訓抄の別名。

竹林院
勝手社より御南子社、金剛童子社、宮坂町をへて喜蔵院の次にあり。當院には、頼朝卿の御教書一章(義経追討の書簡なり)、射術新流の一巻あり。院内住職の内、射術の名譽あり。吉見、和佐、米田等、門葉なりといふ。
※ 「門葉」は、一つの血筋につながる者、一族のこと。

花矢倉 八王子 人丸塚
ほろ/\と 山吹ちるか 瀧の音
はせを
※ 「はせを」は、松尾芭蕉。

子守社

人丸塚
鷲の尾の傍にあり。
子守神祠 大宮三㘴
住吉同體にして、吉野八大神祠の其一也。囘禄の後、豊臣秀頼公の再建社檀美麗にして、拜殿の哥仙は狩野永徳の筆也。
※ 「囘禄」は、回祿。火の神の名。火の神のしわざというところから、火災にあうこと。

金精大明神社
光禅寺 奥之院

金精大明神社
社名帳曰、金峯神社吉野山の地主神として、金御嵩の號もこゝに起る。『三代實録』曰、貞観元年正月正三位を授くと云々。又、同年の秋八月、螟■ [■は月+龹+虫] といふ。悪虫、五穀をくひやぶることたとへんかたなあし。しかれば、藤原、山蔭、滋岳、朝臣川人等、宣旨をうけ給りて、かの虫をはらひやる祭りを行ふ。かの祭礼は、清浄の地をゑらぶの 旧例なればとて、吉野郡の高山にして、これを執行ひ給へり。同じき五年にも、吉野郡の高山にして 祭よし『三代實録』に見へたり。當社も吉野八大神の第一にして、金峯山寺の鎮守とかや。

西行菴 苔清水
山家集
とく/\と 落る岩間の 苔清水
くみほす程も なき住ゐかな
西行法師
※ 「山家集」は、西行の歌を集めた私家集。

苔清水
西行法師の庵室あり。正面堂より西北にあたり、堂の 後より路ありて、山の岨を二町ほど行て下る。其間の小川に 小瀧あり。これを 苔清水といふ。庵室に西行の画像あり。此所にての和哥多し。

清明瀧

蜻蛉瀑布
西河村にあり。此瀧は、峨々たる岩間より 漲落る。凡八十ひろあり。瀧のうへ、岩の間に渕あり。此峯のめぐりを 蜻蛉の小野といふ。しからば、蜻螟が瀧なるべきをあやまりて、清明が瀧とも書なるべし。瀧のうへなる山を琵琶山といふ。此瀧の末を音無河といふ。名所の音なし川は、紀州熊野にあり。


大峯山上嶽
続古今
大峰とをるとて
七 ● の よしのゝ川の みをつくし
若の八千代の しるしともなれ
僧正行意
※ 「僧正行意」は、鎌倉時代の僧、行意。

吉野川
水源大臺原山よりながれて、鹽葉、伯母谷、和田、多古、白川渡、人知、大瀧を経て、東川に至る。𦾔名 遊副川、古人詠題する所也。これより國栖、樫尾を歴て、菜摘村に至り、菜摘川といふ。宮瀧、河原屋、立野、飯貝、上市、六田、土田、下新住 等を経歴して、宇智川に入。

延尉 源義経公の愛妾 静御前は 勝手の神前にて、法楽の舞を奏し、衆徒のこゝろを 蕩し、義経 主従十二騎を落せしは、誠に 刃を用ずして勝を全ふするは、六韜文伐の篇の奥義ともいひつべきもの朝。


浄見原天皇吉野の行宮にて琴を弾じ給へば、天人影向し曲に応じて舞遊びけり。それより袖振山といふ。


筆者注 ●は解読できなかった文字を意味しています。新しく解読できた文字や誤字・誤読に気づいたときは適宜更新します。詳しくは「自己紹介/免責事項」をお読みください。📖
