【西遊旅譚/司馬江漢】(12)長崎 稲佐悟真寺(支那人・阿蘭陀人の墓)
『西遊旅譚』は、江戸時代後期、蘭学者で絵師の司馬江漢が記した長崎旅行記。行く先々の史跡名所、風土、なかでも長崎で見聞する支那船、オランダ船、出島、まぐろ漁、くじら漁などは挿絵も多くとても楽しい読み物です。天明八年(1788年)四月二十三日に芝門を出発。全五巻。
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十月十二日、長崎より七里西南の方、脇津と云所あり。戸町、深堀など云所を過て、其路山をめぐり岩石を踏て行事 二里半余、山の頂人家なし。右の方、遥に五島を見(是より四十八里)。左の方、天草島、又、島原、肥後の國見て、向所此國無、日本の絶地なり。
脇津、人家百軒余、此邊、琉球芋を食す。風土暖地にして、雪不 降。ザボン、橙、其外、奇草を見る。

五島遥に見る 五島城下
永日戸 此間皆柴山にして二里半余人家なし
松島 大村領
出典:国立国会図書館デジタルコレクション『西遊旅譚 5巻 [3]』
廿八日朝五時より、大波戸より舟にて稲佐悟真寺に支那人七十人余参詣す。船、岸に近くを待て、太鼓、笛を吹、寺まで送。其うち、夥長八人、衣服、繻子、紗綾の類、色は黒、其余、下人は鼠色木綿也。
大通辭清川榮左衛門、下通詞吉島左十郎。支那人曰、「我等佛参いたしけるに、寺も大破に及り、夫故、砂糖三俵つゝ寄進いたすべし。然れども住僧の身持 不 正ば、無用にいたさん」と通辞、住僧を呼出し、此旨を申聞る。
老僧かしらをさげて、恥入ける。舩頭は、程赤城、費精湖、周壬禄、程●倫の類なり。卓子盤四人つゝ席をきだむ。余も共に坐して食す。又、画 ● 描ければ、姓名を尋る。都の人と云。聞せければ「キンジンキンジン」と呼けり。
※ 「夥長」は、舵取りのこと。かちょう。読みの「せんだう」は船頭。
※ 「大通辭清川榮左衛門」 参考:『史料通信叢誌 拾四』(国立国会図書館デジタルコレクション)
※ 「程赤城」は、明末の船主。長く日本を往来し、日本語が堪能で書画と和歌に通じていました。老年になっても渡海することを問われ、日本の酒と料理が好きだからと答えたそうです。参考:『大日本人名辞書 下 訂補2版(テイセキジヤウ)』『惟神道話』(国立国会図書館デジタルコレクション)
※ 「費精湖」は、費晴湖のことと思われます。清の船主、画家。参考:『西游日簿』(国立国会図書館デジタルコレクション)
※ 「周壬禄」は、船主。参考:『蜀山人全集 巻5』『西游日簿』(国立国会図書館デジタルコレクション)

此所に三崎観音あり 長崎の者多参詣す
遠見ばん 柴山にして木なし
脇津 椛島 肥後
出典:国立国会図書館デジタルコレクション『西遊旅譚 5巻 [3]』

衣類財寶を紙に描入 火中
支那人は卧葬とて卧たるまゝにて葬る
出典:国立国会図書館デジタルコレクション『西遊旅譚 5巻 [3]』

和蘭人の墓、悟真寺にあり。ヅウルコプと云カビタンの冢なり。彼國の法にても卧たるまゝ葬る也。碑に文字を彫て、金色を入、上に時計をきざむ。言漏刻つきたると云 譬也。彼國にては譬を以て教とすること多し。画のことを、則たとえといへり。又、彼國の画中に両翼ある人物、或は異形なる圖あり。皆、たとへを画したるものなり。かつて羽のある人のあるにはあらず。
※ 「卧たるまゝ」は、臥したるまま。「卧」は「臥」の異体字。
※ 「漏刻」は、昔の水時計のひとつ。また、時間のこと。
※ 「譬」は、たとえのこと。譬喩。


稲佐辨天 浦上の方
十一月十四日、長嵜を彂して三里、時津より平戸島の方に渡り、鯨を見る。鯨の圖をあらはし、めづらしきことを話。
※ 「辨天」は、弁天。
※ 「彂して」は、発して。

支那人、年始の手札、紅紙に書す。
程赤城 丁醒齋 恭
新賀禧 長さ八寸五分 巾四寸三分
参考:『西遊日記』(国立国会図書館デジタルコレクション)
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