【古今名婦伝】寶槌樓黛(はうつゐろう まゆずみ)

寶槌樓 黛
實名 かねと稱り。二歳の時、雙親に別れ、八歳の頃、色廓に賣れけるが、幼齢時より其性温和生得情深ければ、傍輩、搗母も憎まず。
惟、顔だにも知らざる親を慕ふ歎きの胸に迫り、是のみ■(■は疒+責)の種なりけるに、去る卯年十月二日の夜、大地震の節、家屋に潰されたる窮しき人々悲田廬に聚居る。
其数千もて■(■は竹+王+卄)ふときゝ、「然計多き人の中、若、我親の行方を知人もや有て、再會為にもならん」と、一途の孝心に首飾を典じて、黄金を調へ、行平鍋様の物、千百六十施したり。
是に依て、弥 名を揚、公より賞銀を賜り、竒特の孝を褒美あり。高僧、碩儒も一面識を請こと數ありけるとぞ。
父母の しきりに恋し 雉子の声
※ 「傍輩」は、同僚のこと。
※ 「搗母」は、太夫の世話をする年配の女性のこと。参考:『一目千軒(遣手の事)』『百人女郎品定』(国立国会図書館デジタルコレクション)
※ 「卯年十月二日の夜大地震」は、安政二年(1855年)に関東地方で起きた安政の大地震のこと。
※ 「悲田廬」の読み「おすくひごや」は、御救小屋。幕府や藩が設置した救済施設のこと。「悲田」は、悲田処、悲田院に由来する言葉と思われます。「廬」という漢字は、小さな粗末な家という意。
※ 「碩儒」は、深い学問を身につけた学者のこと。
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黛は、江戸時代後期を生きた女性です。

生没年不詳(江戸時代後期)
生まれは定かではありませんが(越後の生まれとする説あり)、二歳のときに両親と別れ、八歳のときに新吉原の佐野槌屋に売られてきました。本名をかね(加禰、兼、か年)といいます。
『古今名婦伝』では「寶槌樓 黛」と題されていますが、資料を調べるかぎり黛が奉公していたのは江戸町二丁目にあった「佐野槌屋」のようです。

『東京市史稿 市街編44』
「寶槌樓」と「黛」の関係は分かりませんが、明治時代に描かれた『新吉原 青楼五階之真図』という絵に「江戸町二丁目 新吉原 五勢樓 寶槌樓 合併」と書かれており、幕末頃に寶槌樓(江戸町二丁目)があったのは事実のようです。佐野槌屋の建物のことを寶槌樓と呼んでいたのかもしれず、また何か分かることがあれば追記したいと思います。
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八歳で身売りされたかねは、佐野槌屋で遊女見習の禿となります。
下の絵は、江戸時代中期の吉原の禿の様子です(右上:振袖姿のかぶろ)。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『百人女郎品定 2巻』
天性温厚で気立ての優しいかねは、樓主にも目をかけられ、やがて太夫となり黛と名乗ります。容色艶やかで嫻雅なる立ち居振る舞いだけでなく、信心深く誠実な人柄の黛は評判の太夫となりました。

『安政見聞誌』中巻 5/25
一世を風靡する黛でしたが、幼い頃に別れた両親への思いは募るばかり… そんな折、安政二年(1855年)十月二日の夜、江戸に大地震が起きます。世に言われる「安政大地震」です。

当時の地震の様子を『安政見聞誌』『安政見聞録』から見てみます(とても生々しく描かれているので、中でも穏やかな絵を数枚選びました)。
新吉原 遊女屋 家潰崩図

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『安政見聞誌』中 14/25
孝婦 姑を救はんとして還て非命に終る

質朴の老夫 天変を知て主家の火災をすくふ

孝子 父母を護りて資財を忘る

士人 飢民を憐れみて街頭に握り飯を施す

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『安政見聞録』上 23/27
夜四ツ時に始まった大地震は、明け方までに三十回以上の余震があったそうです。地震による被害は深川・本所・浅草・下谷、次いで本郷・小石川・神田・麹町・日本橋・芝が大きく、さらに四方から火災が起こりました。
明治時代の『国史大辞典』によると、倒壊家屋14,346戸並びに1,724棟、倒壊した土蔵1,404箇所、市中の出火30か所、寺院で埋葬した人数は6,641名にのぼったそうです。
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幕府は諸所に大型の救済施設(『古今名婦伝』でいう悲田廬、御救小屋)を設け、被災した人々を収容します。
この様子を見た黛は、出入り商人に頼んで着物や櫛・簪を質入れするなどして三十両を都合し、御救小屋に避難する人々に炊具として1,160個の行平鍋を配りました。

行平(雪平)鍋は、現在ではアルミの片手鍋をいいますが、江戸時代は把手の付いた土鍋だったようです。
黛の慈善活動は市井の人々はもちろん公儀も知るところとなり、その年の十二月十五日に幕府から褒美として銀二枚を贈られます。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『古代江戸繪集』
黛のこのような振舞いの動機は、御救小屋のどこかに両親を知る人が居るかもしれないと思ったから… とされています。
当時は、売名行為であるとか、佐野槌屋のマーケティングであるとか、色々言われたようです。八歳で吉原に売られてから自由に外を歩くことがなかったであろう黛にとって、御救小屋を回りながら両親を探すことは心躍ることであったかもしれません。もしかしたら会えるかもしれない、微かな期待を抱いて…
もうひとつ考えられるのは、信心深く謙虚な黛であるならば、両親の消息を探すという建前でその慈善を謙遜したのかもしれないとも思います。実際のところは分かりません。
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震災の翌年、佐野槌屋は浅草山之宿の西側に仮宅を建て営業を再開します。黛の名前も『仮宅細見』の中央に見えます。

出典:『仮宅細見』(台東区立図書館デジタルアーカイブ)9/33
CC BY 4.0
最後に、『嘉永明治年間録』に記録が残されているので、全文を引用したいと思います。
十二月 新吉原町遊女黛ノ孝行を褒ス
浅草山の宿町に假宅罷在候、新吉原江戸町二丁目、家持せい後見源右衛門抱遊女かね事、黛へ御褒美
其方儀、幼年の節両親に別れ、八歳の節知音の世話にてせい方へ奉公住致し去々丑正月より客取致し候處、平常柔和にて諸人の気に入り、常々主人申付を相守り、大人数の朋輩共家内一同気受も能く、遊女奉公致し候ものには稀なる気質にて、二歳の節別れ候実両親に面会致し度く、生死も如何と常々辛苦致し候處、当十月二日夜、地震にて潰家類焼等致し、及難渋候者、所々御救小屋へ入候もの夥しき由承り、右の者共へ施差出し候はゝ万一両親に巡り逢候為にも可相成と、一途に存込み、今般仮宅中遊女屋共一統申合せ、髪差類員数相減候に付、其方所持の櫛笄簪の類、不用の分、年来主人方へ立入候商人へ相頼み、金二十両余借受け、瀬戸物行平鍋等数千百六十、御救小屋入の者へ差遣し、右買集め配り方等、諸雑費共都合金三十両余施し差遣し、右体幼年より両親の行衛を慕ひ候志より、施し等いたし候段、別て奇特の儀に付、褒美として銀二枚とらせ遣す。
『嘉永明治年間録 巻4安政2年乙卯、巻5安政3年丙辰』
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父母のしきりに恋し雉子の声
参考:『美人禅(遊女黛)』『はちす花 下(黛)』『達磨の足跡 : 以心伝心教外別伝(吉原の遊女黛太夫)』『越後の婦人(おいらん黛さん)』『傾城吾妻鑑 : 近世美譚 中の巻』『和顔愛語(吉原の遊女佐野槌黛)』『大震災史 : 振天動地(安政大震火の哀話と美談)』『成田山独案内 下(佐野槌樓)』『日本美人伝 (黛)』『本のはなし(娼婦黛)』『徳川時代通史』『国史大辞典(安政地震)』『未刊随筆百種 第十一』『大日本国語辞典 第5巻 修訂(行平鍋)』(国立国会図書館デジタルコレクション)
サントリー美術館Webサイト「新吉原 青楼五階之真図」
筆者注 ●は解読できなかった文字を意味しています。
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