【西遊旅譚/司馬江漢】(4)鳥羽を発して蒲生石塔村へ
『西遊旅譚』は、江戸時代後期、蘭学者で絵師の司馬江漢が記した長崎旅行記。行く先々の史跡名所、風土、なかでも長崎で見聞する支那船、オランダ船、出島、まぐろ漁、くじら漁などは挿絵も多くとても楽しい読み物です。天明八年(1788年)四月二十三日に芝門を出発。全五巻。
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八月七日、鳥羽を發して舟にて島々の間を渡。風景佳(よし)なり。飛島を右に見て、左に朝熊山を望む。走る事 二里。二見の岩を左の方に見、又、はしりて一里を過、三軒家と云所に舟を着る(此所、酒食あり)。五六町を行、川嵜に至る。又、行事 一里。則、宮河なり。扨、山田、川崎の浦々のほとり、茅屋なし。おほくは瓦屋なり。
※ 「扨」は、さて。

八月九日、江州土山の驛はずれより右に入、山中小川を越る事、二瀬。又、行て大河二瀬を渡、山中に入。山の頂を行、加井掛と云処、漸人家あり。それよりは平地にして、田畑のあいだを行、日野に至。こゝに数日とゞまる。人家二千餘軒、四面山めぐりて海を不 見。加藤■(■は厃+天)の領地なり。
※ 「土山の驛」は、東海道五十三次の四十九番目の宿場、土山宿。
※ 「漸」は、ようやく。
※ 「不 見」は、見ず。
※ 「加藤■(■は厃+天)」は、加藤矦(侯)。甲賀水口藩主、加藤氏。『西遊日記』に「水口佐渡守加藤侯」と書かれています。参考:『西遊日記』(国立国会図書館デジタルコレクション)

八月十二日、日野より一理餘、山路に入。小野村に至る。甚の山林にして、田夫(ひやくせう)の茅舎(かやや)をかりて、行厨をひらきければ、童子二三輩かたはらに来る。餅糖など與んと出しければ、三四歳の児は不怪して、傍まで来る。五六歳の童は畏て逃去ぬ(山林の童は惣て都の人の美服など着て、帯刀したる人を見ざる所謂なり)。

皂角子の木多し
土俗曰、むかし人魚の血落たる所に生じたる木と云
※ 「皂角子」は、マメ科サイカチ属の落葉高木樹。

此一村、四十余軒有。又、四五町許 山径(やまみち)に入。路傍(みちのかたはら)に四隅の墳あり。救世菩薩の墳と云。又、人魚を殺たる所とも云(蒲生川より人魚を得たるは、聖徳太子崩御の時なり)。
夫より西の方、不動堂有。堂のかたはらに八方の墳あり。是、人魚墳なり。『日本紀』に推古帝二十七代四月四日と有。又、行事 二里余。石塔村有。其村内、石垣、其外、飛石、又は流れに枚田のかたはら、家の隅見る所、踏處 九輪丸石屋根形の類、皆、石塔の片なり。
程なく、石塔寺に至る。石階あり。石壇、悉 石塔の古きを以て畳。登事 二十間餘、其上 百歩四方の平地にして石の大塔あり。めぐりにも石塔多し。

土民の曰、救世菩薩の墳と云
小童石をなげうてば鐘の音をいたすと

前の川は二間程にて
流れて末は大なる川原となる
則、蒲生川 是也
不動堂 カマの大樹 人魚墳是なり 文字不レ見
※ 「カマの大樹」は、ガマズミの木でしょうか。ガマズミ科ガマズミ属の落葉低木樹。高さは2~4mほどになるそうです。

日野より二里、乾の方、石塔寺の大塔乃圖
大石を以て作る。土民の曰、天竺にて釋尊入滅一百年の後、月氏國阿育王八万四千の寶塔を作、十方世界へ投たり。其一塔こゝにとゞまると云。
然れども、千年を経るものとは見たり。惣高さ二丈五尺余、文字なし。此塔、昔は崩て有しを、石塔寺を創立して、此等をくみたてたりとなり。此外にも、山中、人跡絶たる山に一塔有。遠く望めば、はるかに見ゆ。
※ 「阿育王」は、アショカ王のこと。

此邊の石塔 嘉元二年と彫付て有や
大塔 石塔寺 本堂是也


日野は加藤■の領地にして、此石塔寺は仙臺■八千石の領地也。夫より一理を過て山に入、月を戴て、草中鈴虫すだく。山々をすさましく見渡し、初更に日野へ帰る。(■は厃+天)
日野町はづれ、綿向の社と云有。其境内、神輿庫(みこしくら)の南の封彊の裏に墳有。如圖。延慶人皇九十四代花園院の年号也。寛政二年庚戌迄五百年に當。碑銘圏點(まるしるし)有は字疑者也。
※ 「すだく」は、集く。ここでは虫などが鳴くこと。
※ 「初更」は、時間のひとつ。夜を五つに等分した「五更」の最初、夜八時頃。
※ 「如圖」は、図の如し。
※ 「圏點」は、圏点。注意する箇所を示すために、文字のわきに付ける小さな点のこと。

二親幽靈無法界 釆五成佛得道也 方卒都婆志者為
延慶三年十月十六日
願主日記重方
八月十五日、石山寺に宿す。月 漸 照て、山湖水を繞、勢田の橋見て佳景(よきけい)也(ウゴイと云魚、ハスと云魚、蛤、皆湖中の産なり)。

草津の宿

参考:『西遊日記』『近江蒲生郡志 巻8』『大日本地名辞書 上巻 二版』(国立国会図書館デジタルコレクション)
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